下手の猫は爪を噛む

 通話もメッセージも役に立たなかった。こちらからの履歴ばかりが増えていく焦りから逃れようと画面を落とし、辺りを見渡す。

 目を通り越して脳裏に突き刺さるほどの西日が、境内を囲う木々の間から容赦なく注いだ。

 確かにここで待っているように言った。そうして、彼女は独断で行動するような無謀もしない。呪いに対抗する力はおろか目も持たないのだ、そんなことをすればどうなるかくらい認識している――自覚や実体験の方は置いておいて。

「動けないのか? だったら合図だけでも……」

 大声を張り上げても返事はなかった。

 彼女のことばでは。

 鈴の音のように愛らしい響きが、にゃあ、と二度鳴くのに気づくのが遅れたのはあまりにも小さかったから。何もかも。

 振り向けば、賽銭箱の陰から黒い塊が覗いている。一瞬、取り逃がしたと連絡があった呪霊かと疑った。しかしふわふわとした体毛とぴんと尖った尻尾がそれを否定する。どうやら本当に、ただの子猫。

 常夜灯よろしく際立つ瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。

「君はあのひとを知っている?」

 声をかけたのは手詰まりだからではない。

 いつのまにか参拝者はおろか神職のひとりも残らずここから姿を消していたからだ。

 そして、黒猫はくるりと背を向けて拝殿の向こうへ去っていく。

 ***

 彼女はまばらになっていく人影に異変を感じながらも動けずにいたのかもしれない。目の前の理不尽に対して対抗するすべを持たない者がどうなるかは知っている。

 打ち捨てられたように手入れの乏しさが際立っていく、参道とは正反対の石畳。その上を黒猫はこちらを一度も振り返ることなく早足で歩いていく。

 ふと、小さなころに野良猫を捕まえようとしたことを思い出した。野生など知ったことではない小学生は、忍び足で真正面から近づいては逃げられることを繰り返して。

 あれは確か大きな成猫だった。それに比べてこの子どもはどうだろう。とくに足音を潜めることもない人間に追われている形だというのに、まるで自分こそがこの男を導いているのだと言わんばかりだ。一向に警戒する気配を見せない。

 あのひともそうだ。無言の道行きのさなか、自然と考えるのは彼女のことに傾いていく。呪いなどという荒唐無稽を見たこともないのに信じた。その世界に生きる人間たちに沿うと決めた。

 一度は呪詛を手にし、振りかざした吉野順平に笑いかけた。

 彼女はこんなに小さくはないけれど。

 ***

「ひとりで、そこにいるの……」

 微かにだが、ことばだとわかる音がある。

「どうして……」

 誰のものなのかわかる声があった。

 唐突に足を速めた子猫の向かう先には朽ちた境内社がかろうじて立っている。

 その手前からさらに奥へ走り去っていく背中を追って走り出したのはほとんど無意識だった。

「待って、行っちゃだめだ!」

 その途中、ほんの数段の石段に苦戦していた子猫を片手で掬い上げ、一足飛びに抜ける。

 確実に声が届く距離だったのに振り向く気配すら見せなかった。おそらく彼女はすでに呪いに誘惑されている。ここに至るまでその残滓すら感じさせなかったということは、人間の念を満足に取り込めずに弱っているに違いない。何も知らない彼女を誘うのは単純明快、食うためだ。

「どうしてこんなところに?」

 呼びかけたのは、ふたりに対してだ。左腕の中で大人しくする子猫はもちろん、ほんの数歩先にいるだけなのに闇にかき消えつつある彼女からも答えが返ることはなかった。

 うす寒い向かい風が額に吹きつけ、いっとき目を細める。

 ***

 ずっと黙っていた子猫がまた鳴いた。

「やっぱり、怖いの……」

 速度を緩めて地面に下ろそうとしても、袖に爪を立てて抵抗するので中断したが。この子も、あのひとが行く先に用があるのだろうか。

 三日月を思わせる目が瞬いて、見上げる。こんなときでなければ指先で頬を撫でて可愛がっていただろう。そして多分、彼女は大喜びで。

 黄色をした丸い目は問いかけてくるようだった。

 どうしてこんなことをしているのかと。

「……君はあのひとに似てるね。柔らかいけど、ときどき……」

 どうして呪術師になったの?

 それはいつか、彼女に問われたこと。

 わからない。

 それはいつか、明確に答えられなかったことば。

 彼女はただひとこと、そっか、と頷いて、それだけだった。

 きっと言語になる前の何もかもを、理解はせずとも読んでいたからだ。後悔も、懺悔も、恐怖も、決意も。機械に囲まれている母の白い姿も、見えない呪いを前に立ち尽くす彼女の光景も。

 読んでいたから、彼女はあのとき不思議そうにしながらも優しく微笑んでいたのだ。

 今ならその笑顔にはっきりと答えることができるかといえば、否だ。

「うん。そっくりだ」

 彼女は口調も物腰も柔らかいけれど、ときどきこの体の真ん中を射抜かれそうなほどまっすぐな目をする。

 未だ定まらない胸の内を暴かれるようで怖い。無言の間にこのあいまいさを責められるようで苦しい――何とも自分勝手な理由の数々で視線をそらしてばかりいた。

 よく考えればわかることだ。彼女はそんなことをしない。する必要がないから。

 この目は、すぐそこにあるものすら確かめられなくなるほど曇る寸前だった。

「止まって!」

 再び声をかけて、ようやく彼女の足は駆けることをやめる。少しだけ肩で息をしながら振り返る表情は、悪夢から覚めたばかりの苦しさと若干の呆然を纏って。

 ありえないことだった。

 ほとんど崩れかけた手水舎が道を挟んでいくつも並んでいる。その先には、仮に打ち捨てられたのなら数十年は経過しているだろう本殿が、大きく抉れた屋根と頼りない骨組みを晒して立っていた。

 彼女の足元のすぐ先にも、骨がある。

 力なくうずくまる黒い毛並みから突き出ている細い白。

 抱いていた黒猫が飛び出し、駆け寄っていった。

「お母さんなんだって」

 その光景を彼女は気にすることもできない。弾む呼吸は、しかし高揚とは真逆の意味を持った。

 こちらを見つめたまま。

「ここがおうちだったけど、雨も風もしのげなくなって。子どももみんないなくなっちゃったって、だから弱って、でも……」
「その猫が……?」

 聞きながら、ありえないことだとわかってもいる。そこにあるのはもう生きてはいないものだ。子猫が鼻を、体を擦り寄せても反応することはできない。

「違うよ……順平くん」

 緩く首が横に振られ、彼女はこちらに向き直った。ためらいがちに歩を進めるのも、こちらに。

 その表情が一瞬、泣いているように見えた。

「わかるの」

 聞こえないはずのことがわかるのだと、彼女は言った。

 見えるはずのことがわからない僕と、何が違うのだろう。

 子猫は母親を揺り起こそうとしている。

「順平くん……」

 その上に降り積もろうとしているのは、確かに呪霊のいた跡とわかる空気だった。

 気づけばあたりの異様は姿を消し、ただの寂れた建築だけが残っている。

 ***

 しばらくの後、また連絡があった。一度は見失った対象を鳥居の辺りで発見し、二級呪術師が祓ったという。

 ここにいるふたりにできることは母猫を埋葬することだけだった。

「呪霊に狙われたのかな」

「きっと、そうだ。この猫を襲った後、僕に気づいて逃げたんだと思う」

 呪霊が食べようとしていたのが誰なのかを教える必要はない。

「どうしてわたし、ここがわかったんだろう」

 彼女が誰に導かれていたのかも。

 掘られた穴に、力も命も抜け落ちた体が土に埋もれていくのを、子猫は足元でじっと見つめている。何もできないまま。

 ――何を勘違いしていたのだろう。

 この子は彼女ではなくて僕だ。

「君は賢いね」

 僕より。そう続けるはずの音は喉奥で消えた。子猫はわかっているのだろうか、こちらを見つめて一度鳴く。

「猫ちゃん、なんて言ったの?」

 やや無理をして明るく、彼女は尋ねる。

「いや、わからなかった。僕がそう思っただけだよ」

 率直に答えるころには日が沈み切っていた。

 月明りならば、迷わず三人の帰り道を見つけられるだろうか。

 

2022年07月30日 Webオンリーイベント「ジュゲムジュゲ夢 vol.5」にて展示