爆弾低気圧

 目の前の光景が夢か幻ならどんなによかったか。

 家入先生が歩み寄る方には、確かにひとりうつ伏せて倒れている。毛足の長いラグに埋もれるようにして、音もなく。

「……藍さん」

 脚が竦んで動けなかった。

 これは何かの間違いだと、拒絶することしか、今は。

 無言で首を横に振り、先生はこちらを振り返った。

「水持ってきて」

 どこか、拍子抜けしたように。

 ***

「ありがとう。心配かけてごめんなさい……」
「ここまで耐性ないのは初めて見たよ。ま、吉野がすぐ気づいてよかった。今日は休みな」

 何とか白い錠剤ふたつを飲み下す藍さんを見届けた先生は、手の中で鍵を弄びながらすぐに戻っていった。ヒールの音が遠ざかる間、少しの沈黙が降り。

「……ちょっとだけ、待って」

 床から抱き上げる体は、いつもよりも小さくなってしまったように感じる。申し訳なさそうに頷く様子が拍車をかけた。

「お返事できなくてごめんね。あんまり痛くて……」
「気にしないで。こればかりはどうしようもないよ」

 昨日からテレビでやたらと繰り返された「低気圧」がここまで猛威を振るうものだとは思いもしなかった。藍さんの場合は、ああして動けなくなるほどの酷い頭痛がやってくるのだという。

「キッチン借りるね。温かいお茶入れるから……」

 白いシーツの上に彼女を横たえたとき、ふとこの場所のことが気になった。

 実質的な監視下にあるとはいえ、部屋は変わらず藍さんの雰囲気に満ちている。こうしてベッドの側に座り込むと、家具や小物がパステルカラーを散りばめているのがよくわかった。

「ありがとう」

 それに藍さんがいる。顔色が悪いながらも、微笑みながら。

 ――こんなにも当たり前のことが、そうではないと思い知らされるなんて。

「……よかった」
「順平くん?」
「ううん……何でもないんだ」

 今度はこちらが立てなくなる番だった。

 なぜ忘れていたのか、もう思い出すことはできない。

 このひとは、人間は、ふとしたことで目の前からいなくなることがあるのだと。最悪の場合は永遠に。

「来てくれて嬉しかったよ」

 ――そして今日はそうではなかった。それでこの話はおしまいだ。

 面映げに頭まで毛布を被る向こう側から、微かに不明瞭になったことばがそう教えてくれる。

「順平くんが気づいてくれて、先生といっしょに来てくれてほっとしたんだよ。苦しいままだったら嫌だもん」
「……ねぇ、藍さん。顔見せて」

 少し無理矢理毛布を剥がして、覗き込むこちらを横たわったまま見上げる目を見つめた。頬にかかる髪を払うと、ほんのりと赤い頬が現れる。

 体温のある色。

 それだけで腰が抜けそうになるほど安心する。情けなくても仕方がない。この先、彼女が景色から欠けることなんて考えたくもないのだから。

「僕は怖がりだから。あなたに何かあったらまた慌てて、いきなり押しかけると思う……あ、次はない方がいいんだけど」
「うん。でも順平くんにお世話焼いてもらえるのは嬉しいな」

 小さく笑って、藍さんが返すのは真逆のこと。

「藍さん」
「ごめんなさーい」

 冗談めかして咎めるのをくすぐったがる様子に、小さな両手だけがアンバランスだった。

 先ほどから毛布をしっかりと掴んで片時も離そうとしない。

「寒い? ずっとそうしてるみたいだけど……」

 だって、と、少し甘えたような返事が好きだ。

 そんな甘いことを考えていた――その意味を完全に理解するまでは。

「わたしパジャマのままだし……」

 ここでスマートにひとこと言い返せないから、僕はまだまだ半人前なのかもしれない。

 ついさっき彼女を抱いた両手の感触がこんなタイミングで呼び起こされ。

「あ、あ、あの藍さん僕はえっと」

 次に僕の喉から飛び出たのはひっくり返った謝罪ただそれだけ。
 

ランダム単語ガチャ No.6556「爆弾低気圧」