海坂へ

 

 久しぶりに足を踏み入れた中華街は、朝早いながらもすでにそこそこの人通りがあった。もの珍しげに辺りを見回す藍さんも数年前に一度来たきりだという。小籠包を初めて食べて、それ以来大好きになったとか。

 漂うごま団子やシュウマイの香りは、けれど僕たちを高揚させることはない。今回の目的は食べ歩きではなく調査だ。

「ひとりめのひとは少なくともここからみなとみらいまで行ったんだよね。どれくらい離れてるんだっけ……順平くん知ってる?」
「歩けなくはないけど、走ってたならつらいと思う。それにあの靴じゃ……」

 ここまでの移動中に車内で見たモノクロの映像を思い出し、身震いしそうになる。

 なにかを大声で叫んでいるらしい若い女性が、深夜の中華街を走っていた。かと思えば途中の店舗の窓枠にしがみつき、しかし引き剥がされるように離れていく。

 まるで、自分ではない何かの意思で強引に走らされているかのようだった。いかにも女性ものらしい、およそ運動には不向きな靴のストラップが華奢な脚に食い込んで。

 そのまま映像は、各地に点在する監視カメラの内容を編集した切り貼りのものになる。女性は海沿いを目指し、見えたはずの大きな観覧車に構うそぶりもなく柵を飛び越えて海に落ちた。

 ――異様そのものの光景に、僕たちは息を呑んで見入った。しかも、この惨劇が立て続けに四件起こっているという事実を知っている。

「順平くん」

 その呼びかけで、過去の再演から立ち戻る。業者が押していく台車の音に紛れそうなほど藍さんは声を落としていた。それを咎めようと僕たちの間に割り込んでくる者はいない。この様子をどこかで監視しているだろう高専の人間には、きっと何を話しているかはだいたい読めているだろうから。

「これも、呪霊のやったことなの?」
「決定的だって補助監督のひとたちが言ってた。呪霊が残す痕跡が現場に残ってたから」

 ありえない、と彼女が切り捨てることはなかった。あの映像を見てしまったから。なにより、もう巻き込まれているから。

 ***

 全くの別件で保護されたという彼女が高専に連れてこられた理由は、その右脚にあるという。軽く痛めたらしく、テーピングをしてひょこひょこと頼りなく歩いていた姿はいかにも無力な一般人という風体だ。

 無力、という点ではこちらも同じ。それどころかこの場所ではマイナス、有害に近く。

「吉野くんも知っていますね。先日〇〇市で起きた一般企業内の傷害事件について、準二級呪霊の排除をもって終了とした事例です」

 貼り出した神奈川の地図を指して、補助監督の男性は続ける。伊地知さんに任されたのだと張り切っていた。その声はこちらの背筋が伸びるように朗々と響き。

 説明を受ける席の隣では、空野さんが怪訝な表情をしながらも口を挟むことなく聞き入っていた。彼女には呪いが見えない。その存在は幽霊や妖精と変わらない非科学的な何かにしか思えないのだろう。

「空野さんはその現場から逃げる最中に転倒し負傷しました」

 確かめる彼の視線に頷きが返り、それが続きを促す。ここで、彼女がすでに社会に出ている立場の人間だと初めて知った。

 それほどに面識も接点もない相手とこれから組まされる。

「彼女を含めた負傷者は社屋一階のロビーで治療を受けています。その現場に応援の呪術師が後から合流しました。その彼の証言ですが」

 補助監督の指示棒がみなとみらいから山下公園あたりまでを囲い示した。かちりと硬い音は、いつか教室で聞いたものに似ている。チョークが黒板を走り始める瞬間の。じわりと胸に上りかける微かな不快感を飲み込みつつ、彼の説明に神経を集中させた。

「空野さんの傷に残っていた残穢と、横浜での連続水死の現場の残穢が一致しました……あ、残穢というのは呪いの痕跡のことだと思ってくれたら問題ありません」

 彼の丁寧さに僕たちがほんの少し肩の力を抜いてから数分後、このブリーフィングはお開きとなった。つまり彼女の職場には複数の呪霊が呼び寄せられていたことになる。僕たちは祓われていないもう片方を追うために、二日後にはここから横浜へ出されるのだという。

 地理的にも状況的にも都合のいいことだ。

 監視下に置いた吉野順平に呪術師としての適性があるか、なんの防衛策も持たない一般人を目の前にしてどんな行動を見せるか、つまりは本当に呪詛師としての処分が必要ないのかどうか。つまりこの件は高専の判断のためにあてがわれたものだ。彼女はタイミング悪く現れたためにその材料にされた、可哀想な一般人役。同時に、呪霊を誘い出すおとりとして。

 だから僕が高校で何をしでかしたのかも知らない。

「よろしくね、吉野くん」

 知らないから、こうして笑いかけてくれる。

「……改めてよろしく、空野さん」
「藍でいいよ」
「じゃあ僕も、順平で」

 先に案内されていた食堂へと向かいながら、会話はことば少な。忙しそうにスーツの人間が行き来する以外には校舎は静かだ。だから、室内でも静かにしていれば外の様子をなんとなくは察することができる。

 僕たちの自己紹介はあれで二度目だった。本当は、壁越しに一度会話している。何なら廊下ですれ違ってもいる。彼女は重要参考人として、僕は処分を検討中の呪詛師として。

 何ともいびつな縁だと、少し悲しくなる。けれどそれだけだ。この件が片づいたら僕たちはきっとそれぞれの日常に戻るのだから。こちらは、その日常が長く続くかはわからないが。

 許されないことをしたからだ。そして同時に、持たなければいけないはずの後悔を感じられないでいる。このひとにも母さんにも向き合えないほどに微塵も。

 学校で倒れた彼らが、僕たち家族を呪った元凶なのかはうやむやになっている。真相を知っているはずの先生たちは沈黙を貫き、そもそもその真相とやらを語ったのは呪霊たちの口。信用に値するかどうか。

 しかしそれと、僕が受けたことすべてへの報復はまったく別の問題だ。理不尽に殴られたから殴り返す。その行為になんの間違いがあるというのだろう。当たり前に守るべきものを守ったのだ、そこに何を悔やむ要素があるというのか。

 ――そんなことをよりによって高専の中で考えているようでは、先は怪しい。そもそも僕は本当にこの事件を解決する気があるのか、ひいては善性を示す気があるのか自分でもわからないまま。ただ、単なる被害者である藍さんが安全に帰ることができたら。ささくれ立った神経の奥にある申し訳程度の良心で、そう思う。

 ***  

 代償行動というものがある。例えばダイエットのために食事を我慢しているひとが、他人にたくさん食べさせようとすることもそうらしい。

 僕はどうだったろう。守れなかった母さんや、呪詛に手を染めた僕。藍さんをその代わりにして善行をすれば、彼女を救えたなら許されると思っていたのだろうか。

 そんなことはありえない、と言い切れただろうか。