よみのたべもの

 

 午後一時の食堂に足を踏み入れるやいなや、まばらに着席していた職員たちのほとんどが残りの食事を急いで食べ始める。広げていたものを雑に片づけて席を立つのも数人。

 そうして、ウォーターサーバーから紙コップふたつに水を注ぎ終わるころには僕たち以外には誰もいなくなっていた。その様子を驚いて眺めていた彼女は、料理の香りとともに残されたぎこちない空気に押されるように。

「みんな忙しいんだね」
「僕が来たからだよ。みんな僕とは食べたがらない」

 こっそりと口にした藍さんは、目を丸くしてこちらを振り返った。相づちではないそれの形がそんなに予想外だったのか。愉快ではないのに笑みが浮かぶのを止められないまま、澱月を隣に呼び起こした。丸く柔らかい体に手を添えても、藍さんの視線は不思議そうに中空をたどり目的のものを探せないでいる。

「……僕の式神がここにいるんだ。毒を持ってる」
「そんなの……」

 声は尻すぼみに消えていく。そんなことは同じ空間にいるのを拒絶する理由にならないと、彼女は思っているのだろうか。

 それとも、この部屋のありさまに至った確かな経緯があるのだと気づいたのだろうか。

 後者ならありがたかった。彼女は悪人ではないのだろうがそれは第一印象の話。本当にひとのいい一般人なのだとしても、後からどんなきっかけで様変わりするかわかったものではない。もしかしたら先ほどのブリーフィング自体が作りもので、このひとは高専側の協力者かもしれないのだ。相手から早々に一線を引いてくれたらそれはこちらの安全にもつながる。

 背中を刺されるのはとても痛いのだから。

「いいのに」

 ――続いたことばの意味を、一瞬汲みかねた。

 汲みかねたから、両手に持っていた紙コップの片方を手渡した。ありがとうと返す藍さんは微笑んで、さっそく口に含もうとする。ためらいなどかけらと見せずに。

 水を打ったように音のない時間だった。夏がとうに過ぎ去った、暑くも寒くもない空気が開け放たれた窓から流れ込んでいる。こく、こくと小さすぎて聞こえるはずのない響きがその白い喉から届く錯覚を受け取るたびに、彼女の中に透明なものが満ちていくのを感じていた。

 海とも雨とも違う。そして僕とは真逆になんのまじりけのない、ありえないもの。

 そうして「ごちそうさま」を聞くまで、僕は自分の分を一滴たりとも飲んでいないことに気づかなかった。ただ、目の前の透明な表情を見つめていたから。

 あんまり目を合わせていられなくて、視線を落とす。そこにあるのは真っ白な囲いの中に揺れるただの飲料水。

「飲まないの……」

 藍さんが促すのはただの良心だったはずだ。けれど僕には、それが責めるように聞こえてならなかった。

 あのとき、水を水のまま猛毒にできる手段を手に入れたことを。

「……そうだね」

 緩く首を振った。そうして、すでにぬるくなっているのを一気に飲み下す。

 ***

 ペルソナ。

 自分自身のままでは対応できないものごとに臨むための仮の人格を、仮面に例えたものだ。営業スマイルや愛想笑いのようなものか、と聞くと「だいたいそう」と頷いた彼女が見ている僕も、仮面をつけているのだろうか。

 人間の発達に、その仮面は必要不可欠だという。

 ならば、降りかかった理不尽を払いのけようとした僕は間違っていたのだろうか。嘲笑と暴力を、諦め顔の仮面でやり過ごすのが正しかったのか。

 答えを教えてくれる者はここにはいない。