シャングリラの絵筆

 

 彼女には、ここがただの船着き場に見えるのかもしれない。けれど渡された橋の両端それぞれには、りんごの影ほどの小さな呪霊がぼんやりと座り込んでいる。

「このあたりの水場をくまなく見渡すなら水上バスがいいと思う」

 大通りの案内を見て思いついた提案に藍さんは乗り、赤レンガ倉庫から横浜駅までの水上バスに乗って目的の呪霊を探すことになった。彼女はその間、水路に浮いていたりはたまた沈んでいるかもしれない物証を探す――とは建前で、なるべく僕から離れないようにしてもらう。藍さんはあくまでおとりとしてここにいるから。とても気分の悪い話だが。

 ***

 被害者はこの水域へ引きずり込まれた。そんな事実が信じられないほど航行は穏やかだ。船の後を引く泡は白い軌跡を描いてすうっと消えていくのだろう。

 客席の窓から覗いた航路、そのさらに深いところにある海の底は当然うかがい知ることはできない。昼の明るさにも関わらず、だ。隠れて早々にため息をついてしまうこちらとは対照的に、藍さんは数席斜め前で熱心に水面とその向こうを見渡している。

 平日の日中とはいえ、船内には予想外の人数がいた。さすが観光名所といったところ。小さな子を連れた夫婦、若い女性の数人組、おじいさんの団体がおもいおもいに景色をながめ、談笑し。

 このなかの何人が、呪いを視認できるのだろう。

 いざとなれば――あってはならないことだけれど、もしここに例の呪霊が現れたなら、僕が彼らを守らなければいけない。これは高専に管理されている呪術師としての共通認識だという。

 仮に僕には手も足も出なくても、最終的にはどこかにいる監視の人員が対処する。その手出しに任せていれば楽なのだろう。一般人に広く被害を出してまで僕の査定を優先するなどありえない……はずだ。

 だが、藍さんは? そんな想定が僕の逃避を阻んだ。

 きっと真っ先に呪いに飲み込まれてしまうひと。一方的だったとはいえ僕が任されたひと。

 調査中の事故として見捨てることもできるが寝覚めが悪い。

 ――どの口が言えたことだろう。

 ***

 結局、呪霊の手がかりを見つけることはできなかった。発着場に降り立つと、夕方に向かっていく空の光が橙をまとっている。

 その下で、なお色を深くしていく海。沈んだら引き上げるのもひと苦労だ。なんてことを考える僕を知るはずもなく藍さんは軽く伸びをして、次には荷物の中からソーイングセットを取り出しつつベンチに落ち着いて。

 あれが、伊地知さんたちが言っていた藍さんの呪具だろう。おばあさんから譲り受けたという裁縫箱から最低限の道具を持ち出したセットは、十歩ほど離れたここからでもわずかに呪力を感じる。確かにあれがあれば、微力な呪霊を寄せつけることはない。一度呪いを目の当たりにしながらこの町で平気でいられる理由だ。

「どこかほつれたの?」
「スカートの裾が……ごめんね、もう直るから」
「もう?」

 ベンチについてから三分とたっていない。それなのに、歩み寄って覗き込んだ彼女の手元ではすでに玉止めが終わっていた。小さなはさみがぱちりと音を立てたと思えば、柔らかい色をしたワンピースはどこが悪かったのかまったくわからないほどきれいに直っている。

「こういうの得意なんだね」
「応急手当くらいならできるんだ。着てて気持ちいいほうがいいもんね」

 待っててくれてありがとう、と笑って藍さんは軽やかに立ち上がると左回りにくるりと一回転してみせた。まるでバレエの一幕のような鮮やかな身のこなしに、スカートがほんの微かに風を連れてひるがえり。一瞬だけ黙ってしまった僕に気づいたのか、はたまた自分の上機嫌に照れてしまったのか、彼女は先ほどとは別のはにかんだ笑みになる。

「……あんまりいいことじゃないんだけど、ちょっとだけ楽しくて。海辺って久しぶりだから」
「海がないところに住んでたんだ」
「うん。だからよけいに……順平くんはこのあたりで?」
「もう少し北に行ったところ。でも、電車ですぐに横浜に来られるよ」

 ――少し前まで自分の居場所だった、けれど今は誰もいない家を想い。

 彼女の靴がこつりと鳴る小気味いい音を聞きながら、駅から徒歩数分の宿泊先に向けて歩き始める。報告を終えたら今日は調査を切り上げることになっている。この道行きもどこかで見られているというのに。そしていつ現れるとも、もしくは遭遇できるかもわからない呪霊。これらは彼女の事情も感情もなにひとつ考慮することはない。

 そんな状況で、踊りだせそうなほど高揚していられるのが信じられなかった。

「……あなたは」

 暗い鬱屈のままに思わず呼びかけている。歩道の端で振り返る目は丸く瞬いて、なんら気負うことはない。雑談の延長といったようすはいたって正常だ。なぜなら藍さんは情報をたどることでしか呪霊を知ることはないから。

 僕とは対極だ。

 それが危なっかしくて、うらやましくて、許せなかった。

「藍さんは普段からそうなの? どうして、そんなに優しいんだ」
「どういうこと……」
「知らない組織の、わけのわからない計画に参加してるのはそういうことだろ。これ以上の犠牲を出さないようにって、協力してくれてるんだ」

 おずおずと頷くのを見ても止められない。いきなり突っかかられているも同然の場面に、先ほどまでの柔和な表情はかき消えていった。けれどこれでいいとも感じた。ここはあなたが憧れていたような場所なんかではなくて、何人も殺した恐ろしい呪霊が住み着いているところなのだと思い知れば。

 そんな私怨に、律儀に彼女は答える。戸惑いながらも誠実な姿は神経を逆なですると気づかず。

 日はさらに傾いていく。

「……そうだね。ひと当たりよくはしてると思う。だって優しくされたいから」
「誰に……」
「わたしの周りの全員に」

 善良な人間から出てきたとは思えないほど傲慢な答えだった。だが目をこらしたところでここに立っているのは藍さんだということに変わりはない。視線を伏せ、どこか恥じ入るようなことばはしかし僕に確実に届いていた。耳をふさぎたくなるほどまっすぐ。

「悪意は怖い。でも、他人ってそれほどわたしのことをしっかり見てないんだよ。だから適度に普通に、あいさつには応えるような平凡なひとでいればたいていのことはやり過ごせるの。誰もわたしに悪意を向けない」

 それは学校で、今は引き離された職場で、彼女が敷いてきた処世術なのだろう。

 惜しむらくは、僕とは相いれないものであったことだ。

「……悪意が怖いのは、わかる。でも」

 藍さんには味方がいた。彼女をそのとおりに受け取ってくれる同級生や同僚、無事を祈ってくれるおばあさんたち家族。僕にも、いつも見守ってくれる母がいる。

 しかし母は呪いで倒れた。人間が生み出したもののせいで。

「あなたは運がよかっただけだ。僕はあなたと同じようには生きられなかったけど、悪いことや間違ったことはしなかった。でもあいつらに踏みつけにされた。きっと、人間はちょうどいい踏み台を見つけたら踏まずにいられないんだよ」

 僕の真理を腹の底から絞り出して――このとき、僕の目の前には奪われた部室があった。理不尽に踏みにじられるのを守ろうとして、できなかった場所。僕が呪術師になるきっかけになった瞬間が。

 けれどここは駅への歩道で、藍さんの目の前だ。そう気づくのに時間はかからなかった。暗がりに沈んでいく景色の真ん中にはぽつりと彼女だけが立っている。

「順平くん……」

 そう呼ぶのは、大声にひるんだ――または、ぶつけられた八つ当たりに呆然とした音。

 その後訪れた無音は、ふたりの間にだけ厚く横たわった。船が水面をかき分ける場違いに爽やかな水音がよく聞こえるまで、ずっと。

 ***

 言葉のサラダ。まとまらない考えでただ単語を混ぜ合わせただけの文章だ。当然、聞く者には伝わらない意味不明な羅列になる。

 僕はこの現象の名と意味を知ったとき、言いようのない不安に襲われた気がした。自分では理路整然と伝えられたと思ったことは、相手にとってはただ青い葉を乱雑に並べたサラダなのかもしれない。

 僕はあのとき、彼女の口に無理やり野菜の大皿をねじ込むのと変わらない行為をしたのか。

 もしくは昨日、おととい、誰かに対してそうしなかったという客観的な保証はない。