ひさかたの

 

 わたしたちを駅まで送ってくれたそのひとは、昨日とは違って渋い顔をしていた。

「呪霊はすべて祓うべきものだと思っていました。けれどあなたたちを見ているとわからなくなる」
「よかった」

 微笑んで、順平くんはわたしと同じように窓越しに彼と握手をする。

「藍さんを消させるわけにはいかないから」
「……君は呪詛師ということになるのだろうか」
「呪詛?」

 わたしには聞き慣れないことばに順平くんは首を傾げ、しばしの沈黙。その間、隣でそうっと様子をうかがった。

 返答はすでに決まっている、そんな表情のように思えた。この数拍は、それをどう伝えるかだけに使われて。

「そうかもしれません。僕はふたりを」

 不意に、途切れた音。

「死なせてしまった」

 それを受けた彼の唇が開かれたのは、反論のためかそれとも擁護か。ついに何のひとことも発することなく閉じられて、本当のことはわからなくなる。このひとの感情は、ゴーグルの有無に関係なく読みづらいのかもしれない。きっと心根の穏やかさが表情の変化を少なくして。

「……ここまででいいんですね。私はもうしばらくこのあたりを探しますが」
「ここで大丈夫です。本当にありがとう」

 朝のさえるような涼しさはすでに去り、周囲は昼の暖かさに満ち始めている。どこかで一台走っているらしいトラックの乏しいエンジン音に重なりすずめの鳴き声が、羽ばたきが、遠く響いて消えていった。

「あなたに会えてよかった」
「私は……どうでしょう」

 わたしへ、そして順平くんへ視線を合わせ、彼は肩を落とした。

「叶うならもっと別の形で出会いたかった」

 ***

 信じられないくらい優しいひとだった。わたしたちを助けておきながら、祓いたいとも思っている。そして今後何かが起これば間違いなくそうするためにやって来てくれるはずだ。やっぱり、想ってくれる誰かがいて当然だと思う。

「あのひとは見逃してくれたね。でも、ほかの呪術師は違うって……」

 順平くんは駅のロータリーから周囲を見回した。今はこんな状態でもいつか人通りが戻ってくる。そうしたら、すれ違う誰かがわたしを呪霊だと、順平くんが縫い合わされたものだと気づくかもしれない。そして、その誰かは高専の呪術師かもしれない。

 きっと問答無用でわたしたちを止めようとする。ふたりそろってやられてしまったって不思議はなかった。

 そんな状況で、わたしたちはよりにもよって渦中の東京に戻ろうとしている。

「母さんがどうして怪我をしたのか、思い出したい」

 それは順平くんの願い。

「……あのひとの言うことが本当なら、僕が弔いたいんだ」
「順平くんは、どうして……」

 死を直視できるの? そう聞きたくてもことばが音にならなかった。

 最終的に自分の死を飲み込めたのは苦痛を伴わなかったからかもしれない。その単語は、本来なら痛みとは切り離せないものだというのに。

 順平くんもあのひとも、この事態に関わっているひとたちもみんな、現在進行形でその痛みと向き合っている。

 わたしにはきっとできない。できないまま、痛みが恐ろしいものだと思っていたことさえ忘れるのかもしれない。

「どうしてだろう。でももしかしたら」

 ややあって、明確にはわからないと首が横に振られる。それはわたしが言えないことばを順平くんが正しく汲んでくれたのを示して。

「こうなるよりずっと前に、誰かの死を望み続けてたことがあるのかもしれない」

 ふとひらめいた――そんなふうに向けられた笑みは柔らかくて、まぶしくて、だからこそ発言との落差が酷いアンバランスを印象づけていた。

「……順平くんの冗談も笑えないよ」
「藍さんほどじゃないからセーフでしょ」
「そんなに」
「うん、そんなに」

 言い合いながら歩き始めるのは線路沿い、それに準ずる道路。

 電車に頼れない今、すぐに東京に入るためには陸路が手軽だ。

 ***

 高専の見た目も所在地もわからない。そもそも図書館とは違って部外者が気軽に入れるとは思えなかった。加えて池袋の例のように、東京は呪霊に破壊されはじめているというのだから厳戒態勢だろう。

「見つかるかな」
「見つかるよ。何となくわかるんだ」
「気配?」
「うん、疲れと恐れと怒りが凝り固まってる色が漂ってきてる。その中心が多分高専だよ。慣れたら、藍さんにも見えるかも」

 でも、と、その続きは歩道橋に至る数段を軽く跳び越してから。

「慣れなくていいんだよ。こういうのは僕がやる」

 優しい笑顔だと思った。

 それは、その気持ちはわたしへの罪滅ぼしのつもりだったりするのだろうか。ふと、そんな悲しいことを考えて。

 きっと違うだろう。きっと、順平くんはわたしが人間だろうが呪霊だろうが、こうして手を差し伸べてくれる。守ってくれる。

 怒るのも泣くのも傷つくのも、誰かのためにできてしまうひとだから。

「ねぇ、藍さん」

 その手を取って、引き寄せられた瞬間にどこかで鐘が鳴った。学校のものか、正午を知らせる市内放送かもしれない。

 少なくとも祝福のそれではないだろう。

「あなたは誰にも祓わせたりしない」

 大きな音響のすぐ後、まっすぐに届くことば。

 太陽は頭上に差しかかろうとしている。

「ありがとう」

 わたしも同じように返せただろうか。

「順平くんはわたしが守るよ」

 同じように、順平くんに聞こえるように。

 誰にも、何にも死なせたりしないのだと。

 もうふたりにはふたりしかないのだから。

 ***

「僕を呪ったのはどうして?」

 真っ暗になる前に、その問いがあった。

 川沿いの道行きの真上、オレンジと少しの青が混ざるあいまいな空には片端から雲がかかりつつある。

「順平くんにいなくなってほしくなかったから」
「……僕と同じだ」
「うん。嬉しい」

 そうだね、と、やや遅れて返答。

 わたしの言うことを予想できていたのだろうとわかる平静さ。そちらを振り向くと、順平くんもこちらを見ていた。

 ほとんど影になり、けれど穏やかな目で。

「でも、藍さんのそれは祈りだ。僕にとっては」

 この手と手をつないだものの名前が再定義されても、起こったことは変わらない。

 けれど、胸に灯るものがある。

 順平くんのはるか後ろで一番星が瞬いた。

「わたしと、同じだね」