「あなたたちと別れて東京へ戻る途中、彼を見かけて引き返してきたんです」
もうささいなものになってしまった疑問に端的に答え、あくまで冷静に席を立つ姿をただ眺めていた。呆然を通り越して何の感慨もわかない空虚のまま。
「私には最後の最後に未練が増えてしまった。彼はそれそのものなんですよ」
「……それじゃああなたも、人間ではないものなんですね。だからわたしが見えてる……」
初めて会ったときからわたしのことに気づいてはいたはずだ。それでも、呪霊に関する組織らしいところにいたこのひとが助けてくれたのは、きっと元の役割を果たす立場ではなくなったから。その意思に反して。
「死んでも死にきれない、後悔でしたから。それともまったく別の可能性として、私がこうなるほど想ってくれる誰かがいたのかもしれない」
後者だと告げる間もなく「車を回します」とだけ残して彼は劇場を出て行った。答えを聞きたくなかったのかもしれない。わたしはあくまで偶然出会った部外者だから。
とはいえ、待ち人がもうここには現れないと見切りをつけたのも本当だろう。だから話を切り上げた。
一連の話題に何ら興味も反応も示さなかった順平くんへの配慮も含んで。
スクリーンを見つめてはいても、それは視線がたまたまそちらを向いていたからにすぎない。近日公開作品のプロモーションが流れ始めても同様だった。悲鳴も、劇伴も、感覚に何も刻まず通り越していく。
喉元どころではなかった。順平くんの中には事実と断じざるを得ないものが折り重なりすでに決壊している。
あのひとの言うことをでたらめと思いたかった。けれどつじつまが合ってしまう。順平くんの傷痕も、あのひとがここにいたことも、凪さんが見つからないことも。
ふと、息を呑む音があった。手術着の男性がメスを構え、拘束された患者に迫るシーンはしかしすぐにタイトルロゴにかき消される。
「僕は」
お腹に響く重低音の嵐にぽつりと混じるのは、海の底でひときわ冷たく輝く色をした声。
「忘れることが悲しいことだと思ってた」
かけることばを見つけられない自分が歯痒かった。
「……もう、思い出すことの方も怖い」
そうできるほどたくさんのことばを持たない自分が悔しかった。
呼吸しか、できることがない。だから、この劇場にポップコーンの香ばしい匂いがほんの微かに残っているだなんてどうでもいい気づきを得た。順平くんはそう遠くない過去、ここで過ごしたことがあるはずで。その中には、隣にお母さんがいた日があるかもしれない。
少なくとも、ここは進んで悲しい気持ちになるための場所ではなかったのに。
「……プリマって呼ぶんだっけ。バレエの主役のこと……あまり詳しくなくて」
いつかわたしがしたように、それは無理に話を切り替え無理に調子を上げようとした声色だった。閉じてしまいたい目を見開いて、順平くんはスクリーンを見据えている。
「さっきの映画はね、踊りが好きな女性が主役なんだ。あなたはバレエの学校に通う女の子の役」
覚えがないから否定も肯定もできない。代わりに出てきたのはその、わたしの結末。
「……すぐに、死んじゃった」
「そうだね。悪い方の怪物に殺された」
その、訂正を含んだ返事は先ほど出ていった彼によく似ていた。わたしが目をそらしたいことを順平くんは直視している。
「役割的にはモブだよね。でも、僕にはほかのどんな役よりも魅力的に見えたよ」
「どうして? なんにもできなかったのに……」
「それでも、プリマを目指して頑張ってたことはわかるよ。何度殺されても、決して夢が叶わなくても、彼女のように跳びたくて鏡の前にやってくるんだ」
凪さんの手で今の姿を取り戻した、とされる順平くんの記憶。高専から抜け出した後、何日も同じ映画館にいたのだろうか。わたしの顔をはっきり覚えられるくらいに。
「可哀想で、きれいで、どうしようもなくて、助けてあげたくて、目が離せなかった」
強く、憧れるくらいに。
「ずっと見ていたかったよ。でもできなかった。いつまでも僕がいることにさすがに周囲が気づき始めたから、そこで映画館を出た」
そこからどこをどう通っても不思議はない。東京の路線図はそう思わせるほど張り巡らされていたから。
「……ほんとは混乱もしてたんだ。僕はどうして東京にいるんだろう、家に帰るのが怖いんだろうって……とくに行く当てもないから水族館に入ったりして」
でも、と継いだことばは、心の底からの穏やかさを纏う。正しく思い出を導き出せている、遠くを見つめる目を時おり瞬きが柔らかく覆った。
「そんなこと、あなたに会ってぜんぶどうでもよくなったんだ」
――それを聞いたわたしは、反対に心臓を錐で突かれる痛みに肩が跳ねた。
「だって、そうだろ? 確かに憧れたひとが偶然目の前にいたんだから……熱帯魚の展示のところだったかな。すれ違いざまにうっかりぶつかって、お互い謝った相手があなただったんだ。その後も楽しそうにテトラを眺めてたね」
「……わからない……」
そんなやりとりがあったことは。順平くんとは、ビルの下層の方まで流されて気を失ったわたしを助けてくれたのが初対面。
その認識自体が思い込みに過ぎなかったのだと気づかされる頃、いつの間にか順平くんはこちらを見つめていた。静かに、わたしの動揺を包み込む落ち着いた表情で。
わたしのために初対面を装ってくれていた。
どんな心持ちだったのだろう。
「あなたは混濁してた僕の意識を覚ましたんだよ。僕を生き返らせてくれた」
そうまで想ってくれた、その相手が自分のことを忘れてしまったのは。
「だからあなたに殺されたい」
その相手を自分が呪ってしまったことは。
そしてその自分を生かすために、大切なひとがいなくなったことは。
「失いたくないひとから失う。でもその逆なら」
不意に、その両手がわたしの両手に重ねられた。やんわりと持ち上げて、順平くん自身の首にかけさせて。
いつか見た無表情が暗がりに沈みかけている。
これは、昨夜の。
「逆なら、そこで終わり」
「……嫌……」
「僕がこれ以上どうにかなる前に、お願いだ」
首を横に振っても、その手が離れることはなかった。
指先が鎖骨のあたりを掠める感覚に、力が抜けそうになる。わたしたちはこんなにも近い。とっさには逃げられない体勢でもある。もし完全に抑え込まれたら、わたしが――そこから先の思考はぐちゃぐちゃに塗り潰したように壊れた。それは幸いでもある。
今はそんな予想をしている場合ではないから。
「……やっぱり、勝手……順平くんって優しいけど、賢いけど、ひとりよがりだよ」
「……そうだよ。だから勝手にあなたに憧れて執着したんだ。虚構の藍さんと目の前の藍さんを混同して一方的に、神さまか何かみたいに」
呼吸と発声のタイミングがめちゃくちゃになっていくのを、それと対照的に表情だけは凍りついているのを見ていた。
抵抗しかできないまま。
「僕を生かしてくれたなら同じように殺してくれ」
――それは、表裏の一致した祈りのように聞こえた。
けれど間違っている。その祈りが叶う前と後では、ここに残る者の数が違う。
こんなことが思い浮かぶ時点で、こちらだって自分本位なのだと半ば諦めながら答えは決まっていた。
「ひとりにしないって言ってくれた」
片側だけ覗く目が、見開かれる。
まるで小さな子のように大声で拒絶した。それしかできなかったから。順平くんを思い直させる理由が見つからなくて、彼のことばを人質にしたずるいやり方。
「言ってくれたでしょ。それなのに今度はこんなこと、酷いよ」
「母さんは自分をばらばらにして僕を生かしたんだ」
順平くんの語調も荒くなる。
「そうして次はあなたを呪った。その僕がどうして生きていける? どうやって? 母さんの行動を無駄にするなとでも……」
「そうだよ……」
ひとつの返答に、信じられないほどの力が費やされていくことに気づく。
わたしが人間だったころにはどんな感情を持っただろうと、自分で自分をトレースしながらの思考は気が遠くなるような不毛さがあった。
「順平くんはここにいなきゃだめだよ。消えたらだめ……」
どうして順平くんを放っておけないのか。どうして止めたいのか。だんだんと苦しそうな顔を隠せなくなっていく彼を。そんな、忘れるはずのない感情というものから由来した理由さえ答えの決まった方程式のようになっていく。形骸化する。
「それは、どうして」
そうしたら、順平くんの周りには誰もいなくなってしまうのに。
「お母さんの……」
凪さんの祈りだから。そう言いかけて、けれどことばのイメージとはかけ離れていることに気づいた。
自分を引き裂いて順平くんを生かそうとしたことは祈りなのだろうか。ひとりで残される順平くんの苦しみよりも、生きていてほしいという凪さん自身の願いを取ったことは。彼女がどう考えて、どんな想いでそうしたのかわからない。
けれど、凪さんが痛みの中にいたことだけは確かだと思った。大切な家族の死を知らされたのだから。そして自分にハサミを入れて。
その痛みの中で、やり遂げた。順平くんの形を取り戻した。元通りの命とは言えないとしても。
それはもはや祈りを通り越した執念で、そして。
「お母さんの呪いだよ」
――そう告げたこと自体がスイッチか何かのように、すとんと。
ある種の納得があった。
わたしは呪霊で、呪いだ。
だから、誰かを呪う側になった。
「順平くんはこれからずっと、ごめんなさいって思いながら過ごさなきゃだめ。途中で投げ出すのも」
その表情がみるみるうちに引きつっていくのは、どんな気持ちなんだろう。力の抜けていく両手を両手で掬いながら考えても決定的なことはわからない。
とはいえその答えが何にせよ、このことは、なんともないことだ。
「藍さん」
ひび割れたことばは、解読に少しだけ時間がかかった。
「許してくれ、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、泣いても大丈夫」
「ごめん……」
歪む縫い目をそうっと指先でたどる。前髪で隠れたそこも、当たり前のように微かな体温があった。
生きている。凪さんが願った形。わたしが傷の痛みの代わりに失ったもの。
それが目の前にある。それはとても幸せなこと。
「これからは順平くんに何かあってもわたしが直してあげられるからね」
リュックの中にはソーイングセットが戻っている。凪さんほどの腕はなくても、その望みを引き継ぐことはできる。ほころびを繕い続けることが、これからのわたしのやるべきことだ。
「だから、ずっといっしょだよ」
月並みな、ありきたりなことば。
今わたしはとても自然に、何のためらいもなく順平くんを呪った気がする。
だからどうということもないけれど。
「悲しまないで。順平くんのおかげで叶ったことなんだから」
人間の、有限の命に縛られることはもうない。凪さんが命と引き換えに願った未来をわたしが守れる。
順平くんへ向けるこの笑顔は、誇らしさからくるものに違いなかった。
「……そうか」
そのうち肺の中を空っぽにするような、重い頷きがあって。
「……そうだね」
一度、深く、深くうつむいて。
そうして顔を上げた順平くんは、瞳に涙の余韻を残しながらぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう」
たったそれだけの声に滲んだ感情は、読み取る前に暗がりに溶けていく。
