遠景。
大きなホールで、きれいなグランジュッテを披露するプリマに感嘆と羨望の視線が送られる。その観客席から途中退場したのはひとりの女生徒だった。練習着を整えると、鏡とバーが据えられたレッスン室へ入っていく。
いつか彼女のように踊り、そして跳ぶのだと、鏡像の自分を見つめて決意を固める表情が映し出される。
それをさらに見つめる一対の目。
女生徒が気づいたときには遅かった。レッスン室の窓ガラスを破って中庭から侵入してきたのは全身を深緑の鱗に覆われた人型の怪物。悲鳴も上げられずに立ちすくむ様には目もくれず、感情の判別できない大柄な半魚人はあっさりと距離を詰め。
白い首へ鋭い爪を振り上げて。
――倒れた女生徒を喉元から貪り始める怪物がだんだんとズームアウトされていく。
小さく広がる血だまりのまんなかで、命を絶たれていく虚ろな瞳がなお怪物を捉えさせられていた。
彼女はわたしと同じ顔をしている。
***
「この作品をやってる映画館にいたんだ。記憶の続きは、なぜかそこに座ってたところからで……」
何のことばも出てこないわたしの隣で、同じく扉の前で立ち止まった順平くんは静かにスクリーンを指さした。今まさに殺人があったシーンの直後には、主演らしき女性と、先ほどとは別の半魚人が踊る対照的な場面が繰り広げられる。無意識に字幕を追った視線は、けれど上滑りして頭に入ってこない。
「何度も見てた。あなたがセリフもなしに、跳べないまま、出てきて五分とたたずに食べられるシーンもその分だけ」
順平くんは、あの女生徒をわたしだという。
「似てるだけだよ、わたしお芝居したことなんてない……」
断言できるはずのひとことが、弱々しく劇場に消えた。役者はおろかエキストラだって務めた覚えはない。
それなら、別の何かだったことは?
「藍さんも、僕と同じなんだね」
一歩、順平くんが横にずれる。そのおかげで、わたしの視界からスクリーンはほとんど遮られた。光の明滅に気を取られることがなくなった分、思考は一気に加速していく。
仕事でホテルに泊まったことがある。ではわたしはどこで、どんな仕事をしていたのか。池袋の水族館に行こうと思ったのはいつで、どうしてだったか。
手繰り寄せるよすがすらない、まったくの白紙だった。
「同じ」
再びのそれは断言に似て。
「直前どころじゃない。ある期間の記憶も抜け落ちてたり、あやふやだったりするのかな」
逆光になるその表情がいたわるものであることだけがわかって、かろうじて頷いた。胸にけがをしたのを覚えていないのは、単に痛みや気絶の影響だと思っていたのに。
何より、失われたものがいくつもあるのだとこれ以上思わせたくなかった。わたしのせいで苦しい思いをさせるのは。
「お母さんは見つかりましたか」
――このひとの言うように、いちばんの心配ごとを抱えた順平くんには、なおさら。
出入口に近く鑑賞に最適な位置とは言いがたい席に座っていたのは、わたしたちをタクシーでこの町へ送ってくれた男性だった。今もゴーグルをかけたまま、飲みものもポップコーンもなしにたったひとりでここにいる。
読めないとばかり思っていたその表情には、声色が答えを与えていた。
「いいえ……」
「そうでしょうね」
小さく首を横に振って順平くんはうつむく。そして続いた彼の返答をかみ砕いて、飲み込むとぱっと顔を上げた。
わたしだって同じ心境だ。
「……どういうことですか?」
額面どおりに受け取るには揶揄も嘲笑も感じられない。第一、彼はそういった言動をするような人間ではないように感じた。
「凪さんのこと、知ってるんですね」
「情報としてだけ。実際に会ったことはありません……君にも」
穏やかに事実だろうことを告げ、彼は順平くんの方を見上げた。
「ずいぶんと印象が変わりましたが、ここで再会してやっと確信しました。吉野順平くんですね」
このひとは、わたしたちが知らない何かを知っている。ふたりで急かそうとしたのを察したのか、手のひらで席を促してくれた。彼と一席離し順平くんと並んで腰かけると、スクリーンから大きく水音が響いた。女優が深夜の海に飛び込んでいる。
「そちらは……空野さん。これはあなたのものですね」
唐突に差し出されたものをほとんど反射的に受け取ると、それは順平くんの家に落としてきたままだったソーイングセットだった。裏側には、もともとの持ち主だった祖母の名前が書いてある。
「僕の家に行ったんですか? どうして……」
「あるひとを追って。彼がこの地域で向かうところは限られていますから」
「じゃあ、どうして今ここに? わたしたちのこと待ってたみたい」
「その通りです。彼だけでなくきっとあなたたちもこの辺りを訪れると推測した」
矢継ぎ早になってしまうわたしたちを止めることも疎むこともしない。
「結論から言います」
それは、彼の目的がただ一点から変わることがないという事実からくる一種の諦めが原因なのかもしれなかった。どんな寄り道が間に挟まっても、いつかはその話題を口にしなければならないという。
彼を見つめるわたしの後ろから、息を呑む気配がした。それをきっかけに気づいてしまう。これは一種の様式美。この前置きは、この口調で告げられるのは。
「吉野順平くん。吉野凪さん。ふたりともすでに亡くなっています」
たいていは喜ばしくないことだから。
***
「君が本当に吉野くんだったなら、どうしても伝えなければならないと思った」
スクリーンはエンドロールを終えて、次作が流れ始めるまでの沈黙に入っている。それなのに、この場の三人ともがそろって白い画面に向き合っていた。座席がそう作られているから、という理由だけがすべてではない。
全員がそれぞれ憔悴していた。
隣で、ぐったりと席に沈み込んでいる順平くんをそっとうかがってみる。確かにここにいる。影も質量もある。同時に、つまらない冗談を言える状況ではないことも両立していた。
飲み込めない。
順平くんが、順平くんも死んでいるなんて。
「まず高専に運ばれたのは凪さんです。重体でしたが、一命を取り留めていた」
おそらくこれが、順平くんが言っていた大きい怪我。ここから先、順平くんの記憶は映画館にいる自分に気づくまでがあいまいだ。
「次に君の遺体が」
何かの間違いだと返したくなる。けれど、いちばんにこれを否定するべき人物の声は上がらなかった。順平くんも、自分を確立していた積み重ねが決定的に揺らぎつつある。
このままでは本当にどこかへ沈んでいきそうで、気づけばひじ置きに投げされていた手を取っていた。その瞬間わずかに覚えた既視感すら、今は信じ切ることができない。
わたしたちを繋げるのは、不安に強張った視線だけ。
「ふたりとも私たちの……案件に関わっていたから、この町から高専に運び込まれました。けれど数日後に君の遺体は消えた」
「誰かが、連れ出したんですか?」
「その形跡はありませんでした」
振り向いたわたしのことば選びが厳密には間違っている方は、このひとは指摘しなかった。その言い方をした理由はわかっているのだと、ゴーグルの奥の目が細められる。
「同時に、凪さんの死亡を確認しました。ほとんど自死のために」
「ほとんど……?」
今度は、順平くんの反応があった。引きずるようにして姿勢を整えながら彼を見つめる様子はにらみつけるのと変わりない。低い声は掠れて、怒りを抑えようとしている。
「そこだけは、ぼかすんですね。なぜ」
いっとき、ふたりの間で無音のせめぎ合いがあった。順平くんが事実を求める衝動と、ある部分だけは濁して流しておこうという彼の取り決めは、結局は後者が折れる。
それはきっと良心なのだろう。そう思えた。ただ純粋に凪さんと、彼女を大切にしていた順平くんのための。
だから、止めたかった。彼が告げる真実はきっと酷く冷たい現実を連れてくる。
けれど結局、これはただの予感だ。
あまりにも結果の見えている予感。
「彼女の死因は全身の皮膚を剥がしたための失血死です」
――繋いだ手から伝わった震えは、動揺だったのかどうか。
そちらに向き直ることができない。
受け止めてあげることが。
「……藍さん……」
力なく呼ばれる名は、祈りだった。
これこそ、何かの間違いだと言ってくれという。どうか気がつかないでくれという。
だけど、気づいてしまう。
順平くんの傷は縫い跡だ。
凪さんが運ばれて治療を続けていたのなら、高専というところには医療施設があるのだろう。
「あなたは呪霊か、呪骸か。どちらなのでしょう」
針も糸もハサミも、そろっている。
