ぬえどりの

 

 次の日はあっけなくやってきたし、わたしたちは問題なく睡眠をとることができた。

「おはよう」

 そう言い合うのが、半ば呆然とした調子になるのも仕方ない。もうこれ以上何かが始まることなんてないと思っていたから。

 けれど、それはわたしたちの上だけでの話。果たさなければいけない目的は依然としてそこにあり、今のすべてだった。

「朝だね」
「うん……」
「今日はどこへ行こうか」

 ベッドに座り込んで思案する順平くんの横顔に、開け放ったカーテンから柔らかい朝日が差し込んでいる。

「町を回ってみようと思う。僕の思いつくかぎりのところを当たろう」

 外出の支度をしながら見た朝のニュースによると、東京は渋谷を中心に壊滅状態になっていて、神奈川の被害は東京との境に集中している。この川崎市も含め、重度の電力不足への対応のために徹底した計画停電が続いているそう。町が静まり返っているのも、ホテル中が薄暗いのも納得がいく。

「そういえば、どうしてこんなことになってるのかよく知らなかったな……」

 どう考えても大災害の様相を呈している。けれどここには沈んだ雰囲気こそあれ、混乱は見受けられなかった。東京は封鎖されているから、ひとの流れと同時に詳しい情報も隔絶しているのかもしれない。

「知りたいことが多いのはいいことかもしれない。どうにもならないことの方を考える暇がなくなるから」

 昨日も順平くんはそう言っていた。

 今は、少し目を伏せながら。

 それがまるで痛みをやり過ごすかのようで。

「そうかも」

 そちらへ歩み寄り、下ろされて影を作っている前髪をそっと横へ避けた。

「藍さん……?」
「……よかった。ごめんね、泣いてるのかと思ったから」

 涙の代わりに、隠れていた右目には額から頬にかけてあのつぎはぎが走っている。驚いていた彼が微笑むと、その痕がわずかにカーブを描いた。

「大丈夫。僕は……」

 手のひらがわたしのそれに重ねられたのは、触れないでほしいという意思表示とは真逆だった。頬にそっと押し当てられた直後の微かな呼吸が物語る。

 ここに来るまでの間、幾度こんなことがあっただろう。口数がとても多いわけではない順平くんは、何かを考えるようにことばを続けようとしてやめる。その後に降りる短い沈黙が今は心地よくて、彼を促すよりも見つめることの方に集中して。

「藍さんこそ、平気?」
「うん。ありがとう……」

 眠りに落ちる前の光景がふと脳裏によみがえり、なぜだか面映ゆくなる。微妙に視線が揺らいだことと、その理由を察したのか順平くんは一気に真っ赤になると慌てて出入口へ向かい始めた。

「もう出ようか、用意できた?」
「あ、そうだね! 行こう!」

 つけっぱなしにしていたテレビの電源を落とす。

 真っ暗になった画面に、わたしは映り込んでいたのかどうか。

 ***

 お弁当やお茶の配付で、フロントには数人が集まっていた。中学生くらいの男の子たちがチョコパンとクリームパンの二択で静かに悩むのを横目に通りに出ると、ぼんやりとした朝の光が柔らかく瞼に刺さる。

「駅の東口の通りに沿って……確か、ずっと南に行くと病院があるんだ。建物の影になってるからもうしばらく歩くと見えるよ」
「大きいところなんだね」
「うん。もし何かがあって母さんが運ばれたとしたらそこだと思う」

 もちろん、何もないことがいちばんだ。そうして、問題なく会えたら。

 歩道を並んで歩き始めて数分、すれ違ったのは二台の車だけ。わたしたちが話す声のほかには、どこにいるすずめの鳴き声しか聞こえなかった。住民はみんな避難所にいるのかもしれない。

 道路に広がるコンクリートに、弱い朝の日差しだけでは視界は鈍い色のまま。

 隣にいる彼だけが唯一、生きているようだった。

「病院といえばね」

 誰もいない駅前を眺めながら、順平くんはことばを継いだ。

「母さんはずっと前に入院してたんだ。大きい怪我をして……」
「怪我……」
「うん。体のまんなかから」

 ――唐突に、歩みも声も途切れた。リズムに任せて数歩先へ進んだところを慌てて振り返ると、自分の言ったことを元に戻そうとするかのように手のひらで口を覆う姿がある。

 その下の顔色は青よりなお酷く、白い。

「ずっと、ずっと前のことだから、もうとっくに退院してるはずで……」
「……それって、何月ごろのこと……」

 気が動転しつつあるわたしのあやふやな質問には何も返らない。怪我をした時期はおろか、退院のタイミングも。順平くんの言い方は、お母さんの退院をその目で見ていないものだった。

 もしくは、そういうできごとがあったのを覚えていないもの。

「順平くん……」

 悲鳴やそれに連なるすべてを塞ごうとして丸まる背をさすりながら。

「記憶があいまいなんだね」

 そう問うことをためらって、やめた。これは質問ではなくて確認だ。

 だから代わりの話を、たとえばどちらも笑顔になるような別の話題が必要だった。そうでなければ、順平くんは足を止めてしまう。その後に待つのは彼が恐れている深い思考。

 順平くんは頭がいい。わたしはまったくの部外者で客観的になれてしまう。そのどちらの好条件も麻痺させる、突拍子もなくて楽しいことを。

「凪さん……お母さんのこと教えて」

 意識してお腹に力を入れながら聞いてみる。少しは、明るい響きになっただろうか。この場にそぐわない態度に対する訝しげな視線が向けられたことにすら安心して、無意識に音もなく息をついていた。

「今までもお話してもらってたけど、もっとたくさん聞きたいな」
「……大好きなひとだよ」

 掠れた声。けれどそれは止められようとしていた呼吸が戻ってきていることを示している。記憶を引っ張り出す時間すら必要ないらしく、続くことばはすぐにやってきた。ずっとそばにいて、互いを大切に想っている距離がそこにはある。

「藍さんより背が高くて、髪は……短くしてる方が好きだって言ってた。仕事で忙しいのに、僕の作った料理は絶対に食べてくれて」

 相づちは、黙ってうなずくだけに留めた。脳裏に浮かぶのは温かな食卓だ。きっとたくさん笑顔があって、ときどきは喧嘩もして、けれど最後にはいつの間にか仲直りしてしまえるような。

「心配かけたくなくて、隠しごともしたけど。でも待っててくれるんだ。僕から言えるまで」

 一歩、一歩、ゆっくりと順平くんは足を進めた。ふらつくのを支えようと差し出した手を、しっかりと握りしめながら。

「いつも笑ってた」

 ふっと、こちらを見る表情には穏やかさがあった。ぎこちなく背筋を伸ばす様子は、まるで胸を張るようで。

 それはそのまま順平くんの、凪さんに対する素直な気持ちなのだろう。

 だからこそ、ほんの少しの記憶の欠落が彼を内側から急速に蝕んでいた。

「笑ってたんだ……誇りなんだ。僕の……」

 地面の小さな隆起につまづいて傾ぐのをとっさに受け止める。

 彼の中心にしっかりと息づいていたものについて、とても重要なのに思い出せないことがある。それがどれだけの衝撃なのかは、体感したことがなくても十分に理解できた。

 取り戻してあげたい。それができないのなら、せめて助けになりたかった。

「待ってて、すぐに戻ってくるから」

 そばにあったガードレールに順平くんを添わせ、辺りを見回す。すると少し先に小さな映画館があるのを見つけた。電飾に囲まれたレトロな看板が大きく出入口を飾っている。売店が開いていなくても、自販機を借りることくらいはできるはずだ。

 そうして走り出そうとしたところを、今そんなことができるとは思えない俊敏さで掴む手。

「僕も行く」
「でも」
「もうあなたひとりにはできないんだ」

 必死さが、静止を返そうとした喉を貫いたような錯覚。

 叫びと同じ熱があった。荒々しい深呼吸で強引に自分を落ち着けて、順平くんはもう片方の手でわたしの肩を捉える。それは説得の体でいて、実際は意見を押し通そうとなりふり構わない仕草で。

「あなたにとっては、いっしょにいたのはほんの一日くらいだけど、僕は……また藍さんに何かあったら」

 焦りにもつれる舌が、止まる。気道をはるかに上回る大きさの感情が胸につかえて落ちていくのが見えた気がした。

 体を破って飛び出てしまいそうなほど、制御が効かない気持ちが。

「……うん。ゆっくり行こう」

 そう返事をしたのは、今度はわたしが焦ったからだ。

 ありがとうと言いたいのに、順平くんが本当に伝えたいこととは微妙にかみ合わないような気がして。

「コーヒー、きっとあるよね。お茶でもいいけど、あったかいやつ……」

 また手を繋いで、今度は並んで。外壁に飾られたポスターを通り過ぎるのもすぐだった。半魚人と美女が抱き合っているひとつめと、手術着の男性がこちらを見据えているふたつめ。それらを覆うパッケージが微かに辺りの景色を反射していた。

 明らかに観客ではないわたしたちを止めに来るひとはいない。どう見ても営業はされていなかった。開いている出入口から中を覗き込むと、待合室の照明は落とされている。

 けれど、ひとつだけあるらしい劇場からは確かに光が漏れていた。

「……はっきり覚えてるのはあなただ」

 ポスターを横目にしていた順平くんは、すぐに隣のわたしを見下ろした。

「あなただけなんだ。何度も、見てた……」

 会った、とは異なるニュアンス。それについて問いかけることはできなかった。遮られたから。

 わたしたちを見つけたかのように、劇場の扉が大きく開かれて。