「肩に違和感があったんだ」
そのことばはくぐもって、後ろから。
「灰か何かが潜り込んだのかと思って拭ったんだけど、そうしたら皮膚ごと剥がれて。このツギハギ模様が出てきた」
微かな身じろぎが衣擦れの音を伝わせる。眠れなくて何となく眺めていたカーテンは無地で、これといった特徴もない。だからこそ否が応でも順平くんの声に意識が集中した。
「全身がこうなのかもって思ったら怖くなった。あなたが鏡を見なかった理由、わかった気がするよ」
順平くんは真向かいの壁を見ているのだろうか。こちらが眠ってなどいないことを気づきながら。
互いが互いに折れて、ベッドの両端に縮こまるようにしてふたりともが横たわっている。おやすみなさいとともに灯りを落として数分、闇に慣れた目は室内の輪郭を正確にたどれるようになっていた。
あれから後ろの彼の表情はついに見つめられないままで。
順平くんは悪くない、と言うには語弊があった。客観的にはそんなことはないとされるのも一応理解できるからだ。けれど同時にどうしても、わたしを助けようとしてくれた彼にひと欠片でも落ち度があったなどと思えない。
見ず知らずの通りすがりであるわたしに差し伸べた手が呪いなら、世の中はもっと深い呪いに満ちている。この体がこうなったことより酷く、歪むほどの。
だからこれは、背中の羽は単なる副産物だ。本当は取り乱すことではない――そう結論づけることこそ、順平くんを追いつめることにしかならない気がした。彼はわたしを呪ったことを悔やんでいるから。わたしが自分の変化を自覚するより重く。
「予想だけど」
ふっと、短い前置きが室内の静寂を乱した。
「きっと藍さんは誰のせいにもしないんだね。僕のことも」
そのとおり。なんて返事は求められていない。順平くんには見透かされている。わたしに、誰も彼も責めたくなるほどの衝動がわき起こることはなくなったから。多分この先も。
「順平くんがかわいそうだからとか、そうじゃないよ。このことは、なんともないような気がしただけ……」
自分でもわかっている。気持ちの起伏がだんだんと平坦になる、妙な冷静が胸骨に横たわり始めていることは。
これからのことが何も思い浮かばないことも、なぜだか彼が苛立っていることも、気を抜けば単なるいち項目に成り果てる。まるで現実感の乖離だ。スクリーンの上の映像をただ座って眺めることに似て。
「……それじゃ、困るよ」
ひときわ大きな動きがあったことがシーツ越しにわかる。ちょうど、順平くんがこちらを振り向いたような。
「都合が悪い。僕はあなたに殺されたって文句は言えないのに、そうされるべきなのに」
当たりだった。怒気を抑えた低い声がまっすぐに背中にぶつけられるかのよう。
それはナイトウェア越しの羽のあたり。
「……僕の周りで起きる痛いことや悪いことはね、ぜんぶ他人の悪意が原因だった。そう思うことに慣れてたよ」
――わたしの呼吸を潰すような、質量をもった告白だった。何十何百と日にちをかけて積み重ねた確信がそのまま重みになってのしかかってくる錯覚。
「でもこれは紛れもなく僕のせいだ。自責がこんなに耐え難いものだったなんて忘れてた」
少し息が苦しくなる。それは現実に順平くんの指がそっと首へ回されたからだ。骨を感じさせる、少し低い体温が。
ゆっくりと力を込めて。
「あなたを殺し損ねたせいで」
順平くんは、わたしが失った衝動を持っている。瞬発力があって激しくて自分勝手で、だから誰にも止められないもの。
「何で死ななかったんだ」
喉が確実に狭くなっていく。
命を絶とうとする手で。
揺らぐことのない事実に――なぜだかおかしくなって、こぼれたのは笑みだった。
「もう死んでるよ」
今まさに順平くんがしていることに意味なんてないのだと。
命はあのとき尽きているから。
そんな思いをたった七文字口にして、それがそのままわたしの異変の理由だとやっと気づく。理不尽な出来事に泣いて怒って自分を保つ必要などなくなったからだ。
これまでの空野藍の延長線上に、もうわたしはいない。
そこから突き落としたのは、乱れた呼吸をなんとか落ち着ける後ろの彼。
「……あなたの冗談って笑えない」
代わりに怒ってくれることばとともに、指は離れていく。
「そもそも冗談なのかどうかわかりにくい……」
涙声になじられたそのとき、呪いとはなんなのかがようやくわかった。それは祈りと憎悪が区別もつかなくなるほど折り重なった歪な塊。
そんなものをぶつけられた人間が無事で済むわけがない。順平くんはきっと、そのせいで一度体をばらばらに引き裂かれている。全身の縫い痕はその名残。
わたしの場合は、もともとの形を抉られた背中と、現在進行形で首に残る微かな圧迫感が。
呪うことも呪われることも、こんなに簡単に行われる。
ときには優しいひとの手で胸を貫いて。
「……藍さん、ごめん……ごめんなさい」
中空へ漂って、消えてしまいそうなことばだった。耐えられなくなって振り向くと、すぐ目の前にナイトウェアの襟元がある。
表情を見上げることはできなかった。
順平くんがわたしの頭を抱いて自分の胸に押し当てるから。
「見ないで」
「どうして?」
「あなたの目は、痛くなるんだ……」
髪をすくような指に、先ほどと同じ力は残っていない。
「……勝手だよ、順平くんって」
「ごめん」
「どうしよう」
覗く首筋に斜めに走る縫い目を直視しながら考える。自然にできる傷とはあまりにかけ離れて、痛みがあるのかすらわからない模様を。
「その痕、触らせて。そうしたら許してあげる」
「……それこそ、どうして」
「釣り合わない?」
「それは、そうだよ」
「変わったのはわたしだけじゃないって気になれるから」
お前も道連れになれと宣告しているようなものだった。
この部屋よりもなお深い、先の見えない暗がりへ。
「同じって、ちょっと安心するんだよ。だからさっきシャツの下、見せてくれたんだよね」
元いた世界から爪弾きにされたと自覚しろと、押しつける行為を順平くんはいとも簡単に飲み込んだらしい。胸元のボタンをひとつ開けながら、わたしを固定するのをやめた。
「藍さんは楽観的だ。僕はそんな奴じゃないってはじめから言ってるだろ」
「でも、いいんだ?」
「あなたに許してもらえるなら」
暗がりにほの白く浮かんで見える胸のあわいにある痕へ、そうっと指先を乗せた。荒れているわけではないようで、ゆっくりなぞっても裂けることはない。
「痛い?」
「平気……どんなふうになってる? あんまり自分では触れなくて」
「少しだけ盛り上がってる。でも、膿んだりしてないよ」
すぐに関節が襟元に引っかかって、そこから先は確かめられなくなる。それをほんの少し残念に感じた。本当なら、許されるところ全てに接していたかった。その時間の分だけ安らげる気がして。
「そっか」
順平くんの静かな息のしばらく後、続くのは「僕も」という願いだった。投げ出されていた手がわたしの肩に重ねられて。
その袖口からも、あの傷が存在を主張した。
「また、あなたの羽に触れてもいいかな……」
それこそ羽のように、吹けば飛びそうな微かな声。瞬間、思わずその目を見上げていた。
「藍さん」
涙が引ききらない、潤んだ光がわたしを見据えている。今まさに泣き出すのをこらえて、強張った表情で。
断る理由なんてなかった。これは、一方通行では意味の半減する行為。
「いいよ。たくさん、好きなだけ」
「……ありがとう」
笑顔がほころんだのを、ずいぶん久しぶりに見たようだった。なんだかとても嬉しくなって、こちらもさっそくボタンをひとつだけ外しながら寝返りを打とうと意識を後ろへ移す。
「それじゃあ、またあっち向くから……」
「あ、このままで。こうして……」
――反射的に悲鳴を上げそうになるのを危うく踏みとどまった。
順平くんの指が肩口から潜り込んで、直接背中に至ったから。
「あ……っ」
「あ、ごめん。つい……」
「びっくりした……! いきなり、酷い」
また謝るのに忙しい順平くんは自覚しているのかどうか。
その手でわたしのナイトウェアを肩からずり下ろしたうえ、片腕で抱きしめるようにしていることを。
「焦りすぎたよ。ごめん」
これでは順平くんからは羽がよく見えない。黒は闇に溶けてしまうから気にしないのかもしれないけれど。
とはいえ、これはこれで助かったりもする。どんな顔をしていいか、どんな顔をしているかわからない今は、抱きしめあって互いの表情が窺えないようになっている方が。
さまよった手を順平くんの背中に回す間、羽の先がためらいがちに揺らされるのを感じる。
「なんだか、気持ちいいな」
「……気持ち悪くない?」
「そんなこと思わないよ」
「だって」
「雛鳥のものなのかな」
わたしが口にしかけたことを、あえて遮ったかのようだった。
強いそれとは対照的に、わたしへ触れる指は優しい。
「ここ。ここは柔らかいね」
「くすぐったい……」
「でも止めたくない」
順平くんもわたしも笑いながら、ほんの少し泣いていた。
重い疲れと、変質への恐れと、それらを包み隠すほど大きな安堵に。
――このまま。暗いままならいいのに。そうつぶやいたのはどちらだろう。
朝の光で視界が照らされるより、よほどいい。
