くずのはの

 大浴場だろうとなかろうと、ホテルのお風呂は好きだった。とくに、疲労でじんわりと痛む両脚が癒えていく気がして。今も同じ心地で、脚を伸ばせる大きなバスタブで深く呼吸ができる。足指を水面の近くで広げるとわずかに滴が跳ねた。

 そうして、慣れないシャンプーのいい香りで現実感から切り離されていた時間は呆気なく終わりを告げる。順平くんは今もベッドの上でうなだれているのかもしれない。一方のわたしはのんきなことに――危機感を持つべきところだけれど――、そうできるほど深い思慮を失ってしまった。

 きっと酷い麻痺をして。

 順平くんが指したもののことをよく知らない。語感から考えると、澱月のように透き通るお化けみたいなものが呪霊なのだろうか。あの男の子は式神と呼んでいたけれど。ふたつに共通するのは、やっぱり人間とは違うものだということ。

 ちゃぷ、と軽い水音をわざと立てて、右手を掲げてみる。濡れた手の甲。すっかり煤を落とした指。どう見ても目の前に存在している。目をこらしても向こう側が透けて見えることはない。

 そして意を決して、シャワーカーテンをずらした先にある鏡も見上げてみた。

 身を乗り出すと、その通りにぼやけた鏡面の中にわたしが現れる。心臓を穿った痕なんてない、いつもの姿。

 ――だからどうしたというんだろう。

 こんなことはただの主観だ。現に、わたしのことをわからないひとがいる。わたしがこれまで当然のようにそうあってきた存在ではなくなったから。

 そんな事実に確たる実感を持てないまま、ボディータオルを片づけてバスタブから上がった。

 バスタオルを巻きつけるのに手間取っていると、ふと先ほどの鏡が目につく。何か黒いものが横切っていった気がして。振り返って見回してみたものの、これといった異常はなかった。あったとしても虫か壁の汚れだろうと納得して背中で奇妙にねじれるタオルを直し。

 違和感の正体がそこにあることに気づいてしまう。

 絵筆のように、明らかにタオルの繊維とは違う柔らかな感触が指先にあった。そうっと撫でてみても剥がれたり落ちたりすることはなくて。

 ならば、と、おそるおそるその肩甲骨の辺りを適当に摘んで引っ張ってみた。

 心音がうるさく鳴り響くのに無視を決め込みながら。

「……うそ」

 周囲の皮膚がつられて引きつれるのを、確かに感じた。

 これはわたしから生えているものだ。

 ***

「順平くん大変! ちょっと見てほしいんだけど!」

 ぼんやりとテレビの天気予報を見ていた彼はこちらを慌てて振り向くなり奇声を上げてのけ反りベッドから落ちた。

「藍さん何でタオルだけなんだよ!」
「あ、そっか、あっでもこのまま聞いてほしくて!」
「何をどうして!」
「背中が変で、あ、わたしのね。わたしの……何かがくっついてるの、違う、出てきてて!」

「……落ち着いて」

 息を呑み、明らかに声色を硬くしながら立ち上がったその表情にやはり柔和なものはない。わたしが飛び出してきたバスルームの方を一瞬確かめ、そして壁際へ早足で歩み寄るとクローゼットを開けながら。

「痛みはある?」
「ううん、ない……」
「わかった。背中だね……そっちを向いたままでいて。テレビの方」

 言われたとおりに、突っ立ったまま顔だけ液晶に向けると、静かな足音が背後へ回り込む。関東は明日中曇りだと告げる微かなアナウンスがはっきりと聞こえる、静寂の中で。

「順平くん」

 何も纏っていないそこに降りる集中が肌で感じ取れる。そんな当然のこと、そしてこんな格好で彼の目の前にいる現状がようやく飲み込めてきてしまう。はしたなくて申し訳なくて、何より嫌な確信が現実になるのを見たくなくて喉が勝手にことばを紡ぎ続けた。

「こんなときに、ごめんなさい。勘違いかもしれないのに」
「いいよ。僕の方はぐるぐる考えてたことが諸々吹っ飛んでった」

 わずかな笑みを含んだ声。

「藍さん」

 それが真剣さに強張るのに時間はかからなかった。

「これのことだね」
「あ」

 思わずこぼれた悲鳴をとっさに両手で塞ぐ。

 くい、と、順平くんの指がそこを引っ張るのを感じたから。

「……それ、何かわかる? 自分だとちゃんと見えなくて」

 お腹に力が入らなくなる。頼りなく揺れる声を、けれど順平くんは拾ってくれた。

「確証はないけど……鳥の羽みたいだ」
「羽……」
「黒くて硬いものと、白くてふわふわしたものが混ざってる。左の肩だけに……藍さん?」

 背をたどっていく指がふと離れる。

 わたしが腰を抜かして座り込んだから。

「ごめん、触りすぎた? 痛かった……?」

 黙って首を横に振る。

 声が出なかったから。

「待ってて。すぐベッドに」

 膝をついて支えようとしてくれる両手を、気づけば握っていた。彼が抱えていた黒い上着がぱさりと床に落ちる。

 同時に、見開く目。こうして正面から見る機会は多くはなかった。順平くんは驚き、そして今すぐ視線をそらしてしまいたいと無言で訴えてくる。その理由が今はわかる気がした。きっと、この部屋で起きていることの全てのきっかけが彼自身にあるのだと思い込んでいるから。

 わたしがわけもわからず涙を流している原因も、順平くん自身だと。

「わたし、そうなんだね。本当にわたしじゃなくなっちゃったんだ」

 痛みに耐えるように、その眉が寄せられるのを見た。

 常識に照らせば簡単にわかることだ。致命傷が完治するはずがない。視認できない生者がいるはずがない。歪な左右非対称が背中にあるという。それはこれから広がっていくのだろうか。いつか話すこともできなくなってさえずるばかりに、なるのだろうか。

 凍りついていた思考が一気に動き出す。それがもたらすものといえば冷徹な断定と、これから最も不要になる予測だけだった。

 全てが黒くなっていく。

「紅茶、残ってたっけ」
「藍さん」
「コーヒーも……」
「ねぇ、藍さん」

 少し無理な体勢で腕を伸ばし、順平くんは上着を拾い上げるとわたしに覆いかけてくれる。

 その次の瞬間には自分のシャツに手をかけて一気に脱いで。

「え、え……?」

 その行動の意味を汲み取れずにいるわたしの前に晒されたのはまずお腹、それから胸、首筋。

 目が、背けられない。

「同じだね」

 本来は嬉しいはずのことばが、そうとは思えずに耳を通り過ぎていく。どんな顔でそれを言っているのかも確かめられない。

「あなたがお風呂に入ってる間に気づいたんだ。こんなだから許してほしい、なんて言えないけど」

 順平くんの体には縦横それぞれ数本の切り傷が刻まれていた。

 呆然と眺めているうち、その認識が間違っていることに気づく。爪や刃物で傷つけられたというより、一度ばらばらにしたものを繋ぎ止めた痕だと言われた方が納得のいく様子をしている。それほどにこの傷は長く伸びていた。加えて、ところどころに縫い合わせる留め糸のような模様。

「あなたを呪った報いかも。いや」

 ようやく、視線を上げる。

 陶器でできているのかと思わせる無表情。

 その下に隠れている順平くんの気持ちがどんな形をしているのか、今のわたしにはわからない。

「僕らはみんな誰かに呪われてるのかもしれない」

 一瞬の沈黙。

 明日は全国的に花粉に要注意だという。