順平くんの家の廊下にソーイングセットを落としたままだ。そう気づいたのはこの部屋に入ってしばらく経ち、真夜中に差しかかったころ。
市職員のカードを提げたおじいさんに半ば無理矢理押し込まれたのは、駅前通りに立つ背の高いビジネスホテルだった。非常時で部屋を十分確保できないからと平謝りされたことは理解できても、ならばどうなるということまでは飲み込めなくて。
そこでわたしたちを迎えたのは二人組のフロント係。若い女性がこちらの声に気づかずパソコン作業に没頭するところに、後から来た年配の男性が慌ててフォローに入ってくる。
彼はカードキー代わりのパスコードひとつと、館内の簡単な案内をしてくれた。そして吉野凪という女性がここには来ていないことも。
――ここまでが、まるで画面の向こうで展開する他人事のようだった。わたしたちはどうやら逃げ遅れた避難民だと間違われたらしい。確かな善意だけに遭遇できたのは幸運に近い。
その善意に流されて、気づけばホテルのシングルルームのベッドにふたりきりで座り込んでいた。微かに消毒の香りがする綺麗な部屋を見回すのに飽きたのか、どこか性急に順平くんは立ち上がって。
「僕、コーヒーでも飲もうかな……藍さんもそれでいい? 紅茶もあるよ」
「あ、ありがとう。じゃあ紅茶でお願いします」
今まで何を考え込んでいたのか思い出せないのは、何も考えていなかったからだろう。無意味な思考から引っ張り上げられてほとんど反射的に頷くのを、順平くんは笑って受け取るとポットの方へ振り向いた。
「こういうときだからね。温かいもので落ち着かないと……母さんの受け売りだけど」
「優しいひとなんだね」
「とても。尊敬してるんだ」
お母さんのことを話す順平くんはやっぱり面映そうで、嬉しそう。早くふたりが会えるようにどうにか行動に出られないか……そう思案していると、流れてくる湯気に曇っていくものに気づく。開け放たれているバスルームの鏡だった。白いバスタブの脇には備えつけのシャンプーやボディーソープが並んでいる。
電気がつけっぱなしになっているそちらへ歩み寄って、結局鏡をまっすぐ覗き込むのはやめた。
ぼんやりと濁る鏡面が何も映さないような気がして。
「鏡」
「え……?」
唐突な声に驚いて振り向くと、いつの間にかマグカップふたつを持ちながら順平くんが真後ろに立ち尽くしていた。わたしを通り越して鏡を見つめる視線はどこか装ったように行き過ぎた無表情。
ちらとわたしへ照準を下げた後ですら。
本来のことばを噛み殺したようにも感じる端的さ。その真意が読めない。読ませないことがとても上手い気さえしてくる。何度もこんなことを繰り返してきたスムーズさすら。
そんな、張り詰めた数秒の無音を破ったのも順平くんだった。
「見ないの?」
「うん……」
「……そっか。あ、これどうぞ」
差し出されるマグカップを受け取ってテーブルの席につくと、頬に当たる湯気がほっと肩の力を抜くスイッチになる。砂糖の甘みを感じるころには、向かいに座る順平くんはまたしても天井を見上げていた。もの珍しそうな目がよく瞬いて。
「ホテルなんて本当に久しぶりだよ。藍さんはこういうところ来るの?」
「最近は仕事で一回だけ泊まったよ。家じゃないところで寝るのってわくわくして好きだったなぁ」
「寝心地とか全然違うからね」
すぐそばのベッドに広がる真っ白なシーツや枕は眩しいほどだ。少し早くコーヒーを飲み終わったらしい順平くんがその隅に席を移ると、微かにスプリングの音がする。
「……ベッド、ひとつだけだね」
「ここしか部屋が空いてないって言ってたっけ。いろんなひとたちが避難してきたのか……」
順平くんが意外そうにするのは、この階のこの部屋につくまでついに宿泊客のひとりも見かけなかったから。まるでわたしたち意外の誰もいないかのように――または、いなくなったかと思わせる静まり返った廊下は薄ら寒く感じて、こうして客室にいると安心感がまるで違った。いっそ近所迷惑なくらい騒いでいる一室があればと不謹慎な境地に至るまである。夜はさすがにやめてほしいけど。
そして、眠るときのことを考えているのは順平くんも同じだったようで。
「僕は床で寝るよ。藍さんはベッド使って……」
「えっ、そんなのだめだよ。こういうのは毎日交代にするって決まってるの。あ、むしろいっしょに」
「それはもっとだめ!」
「えぇ……」
遮る勢いは有無を言わさないほど。
「あなたはどうして、もっとこう……あるでしょ!」
「もし順平くん案を採用したときのいたたまれなさもわかってほしい!」
「こんな硬いところで横になったりしたら体壊すだろ!」
「順平くんだって同じですー!」
ぐっとことばに詰まったらしいところに畳みかけようと、マグカップを置いて隣へ座った。
いっそやりすぎたくらい近くに。
「……同じだよね」
「……藍さん……」
「ごめんね」
いっときそらされた目は、けれどすぐに険しくなって帰ってくる。
避けられない話だと順平くんにもわかっていた。
「やっぱり後回しにできないよ」
もう本題から目を背けて上擦ることに耐えられない。
「フロントのお姉さん。あのひとはわたしのことがわからないんだね」
あの場でどれだけ声を張り上げても、聞こえることはなかっただろう。もしあのとき彼女が正面を向いていたとしても、影も形も認識できなかったに違いない。
きっとそういう風にできている。
――それがわかったところで事態は何も変わらない。知りたいことはわからないまま。
「わたしを呪ったって、呪いって何のこと」
「藍さん……」
「いけないことなの……」
シーツを握りしめる手に重ねられた、ぞっとするほど冷たい温度。それが順平くんの手のひらだとはにわかに信じることができなかった。ついさっきまで目の前で温かいコーヒーを飲んでいたはずなのに。
この体温はそのまま、順平くんの胸の奥から滲んだものなのかもしれない。
「あなたに、楽になってほしかった。楽になるために死んでほしかったんだ」
頷く。それはわたしのための祈りだ。彼ががっくりとうつむくことも哀願に似て。蚊の鳴くような声がシーツに落ちていく。
「でも迷った。死なせたくない、生きてまた僕といっしょにいてほしいって……当然だろ。ずっと前からあなたが大切だったから。今だって」
それも、祈り。だとしたら、全ての呪いは誰かにとっては祈りなのだろうか。死にゆく誰かを引き止めたいと願うことも。
「どうして、何でよりによって僕が藍さんを殺さなきゃいけないんだ……あのとき、そんなことで頭がいっぱいだった。だから僕は間違えたんだ」
もう、わたしの記憶は当てにならない。
ふたりはどこかでいっしょだった。
「やっとわかった。あなたは僕が作り出した呪霊だ」
触れた手と、胸を刺す痛みが辛うじて気持ちを現実につなぎ止めている。
「そうなんだ」
出てきたのは何とも気の抜けたひとこと。
こうして呼吸ができるのが不思議でならない。
順平くんのことばの意味がわからなくても、わかることがあった。
わたしが今、人間ではないこと。
