すがのねの

「絶対にここを動かないで」

 彼はそう告げ。

「何かあったらすぐに呼んで」

 そうつけ加えた。

 履いた靴をそのままに家の中へ入っていく順平くんを見送るわたしは、玄関に留まっていた。何をするでもなく降ろしたリュックを胸に抱いて、飛び出そうなほどうるさい心臓を抑えることに終始する。

 順平くんのそばには澱月がいるから大丈夫だ。何より扉にはちゃんと鍵がかかっていたのだから、誰も――何も入れるはずがない。そう自分に言い聞かせることが何度目になるか、数える余裕はない。

「藍さん、平気?」

 ときおり奥から飛んでくる声にほっとして、大きく返事をして。

 誰も見つからないことを祈った。そしてそれは、順平くんのお母さんがどこか近くに避難していることと同義だ。早く合流したい。そのとき安心するのは順平くんだけではないから。

 そうして初めて、どこかふわふわとした非現実に足をつけるような気がした。そこからは、いつも通りに働き始めた頭でこれからのことを考えられる。

 そんな瞬間のために、微かな足音が動く気配だけに意識を集中することにした。玄関から見つめる廊下は、最初に照明をつけてからずっと変化はない。フローリングに反射する光源が揺らぐことも。

 ただ、どこからか流れてくるお線香とは違う香りが――枯れ草のようなものがあることが気がかりだった。どうあっても、屋内にあることに違和感のある香り。

 どこかの窓が開いたままだったのかもしれない。それとも、想像もつかないところから何かが入り込んだのか。

「……何でもありませんように」

「少なくとも人間とは言えんな」

 そう答えたのは順平くんではなかった。

 わたしの中にしかなかった推測を違わず読んで見せた、

いつのまにか後ろに立っていた誰かの。

「邪魔だ」

 とん、と、激しくはなくとも鋭いひと突きが背中にあった。完全に気を取られていた感覚はバランスを失い、前に倒れ込む。何とか手をついた拍子に、放り出したリュックの中身がいくらかぶちまけられていく。

 硬いプラスチックが床を滑る耳障りな音に、それが顔をしかめることはなかった。

 起き上がりながら振り向いた先には、わずかに目を見開いた表情がある。

 順平くんと同じ年のころの、擦り傷が幾重も刻まれた男の子の顔。

 ここにあるはずのないものを認めた途端、リズムを完全に失った呼吸が喉を塞いだ。

「藍さん? 何が……」
「順平くん、順平くん……!」

 その何かの詳細をかいつまむ思考回路はすでに凍りついた。半ばパニックに陥りながら呼んだ相手はすぐに駆けつけてくれる。

 転がったペットボトルをシューズの爪先が蹴飛ばしたのを最後に、玄関に降りたのは無音だった。それを真っ先に破ったのは、呆然とした順平くんのことば。

「虎杖くん……?」

 わたしを助け起こしながら、ドアの前に立ちはだかる形になっている長身を見上げる順平くんは彼をそう呼んだ。

 友だちなの、と聞ける間柄ではない以外は読み取ることができない。順平くんはひたすら困惑して、彼はただ訝しげに。それぞれに交わされる視線はふと外された。

 いつの間にか現れた彼がわたしを見やったから。

「この娘は」

 細められる目に含まれているのは、興味ではあった。けれどそれが全てではない。値踏み、敵意――そのどれもがしっくり当てはまらないと感じるのは、もしかすると向けられたもののほとんどが空虚だからなのかもしれない。道を歩いていて偶然目にした変わった形の石ころを見下ろすような、数分後には失われる関心。

 少なくとも、目的を持ってこの家に入り込んだ者としてはありえないことだった。

「……いっしょに母さんを探しに来たんだ。虎杖くんはどうして今ここに……」
「何を言っている? 貴様の」

 それきり遮られたのは、順平くんがわたしを背中に隠したのと同時に澱月が中空に現れたタイミングだった。まるでわたしの視界ごと彼から引き離そうとする透明な頭の向こうで、彼の唇が引きつった。不審者扱い同然の対応が気に食わなかったのだろうか。本当にふたりが知り合いなら、失望から来る感情としては適切でもある。順平くんがこんな態度を取ることに怒って。

「ほう」

 違う。違った。

 怒りではない。

 愉快だから笑っていた。

 喉奥で抑えようとして止められない、心底おかしいとばかりにあふれ出る哄笑には嘲りが含まれているとすぐにわかった。

 順平くんが息を呑む音がかろうじて届くほどの大きな笑い声。聞くほどに正常な思考が狂わされていく、たがの外れた人外めいた響きはほんの少しの呼吸のためにいっとき低くなる。

「なるほど、なるほど。気配が歪だと思ったらそうかそういうことか、娘」

 歪なのは彼だって同じだ。見た目は普通の高校生といった体なのに、口調は古風でどこか老獪ささえ感じる。そのアンバランスの上に浮かぶ笑みは、怖気がするほど歪んでいた。上から下を見下ろす当たり前が、優から劣を見下す当然がまかり通る道理が彼の中にあるのだとすぐにわかる、異質。

 牙を見せる獣そのものの威圧感で笑い続けながら、その長い指が順平くんの少し後ろを指さす。

「貴様にはその式神が見えているだろう」
「式神……?」

 わたしと、順平くん、そして彼。それ以外にここにいるのは澱月だけだ。今もふわふわと浮かんで、彼の視線が直接突き立たないように間にいてくれている。

 今のは、まるで通常は見えないものだと言っているようなものだ。

 そして――その通りだと、ここに至って思い直す。

 このクラゲは、何なんだろう? わたしと順平くんには見えている。

 その理由は?

「捨て置いてやる。せいぜいあがけよ」

 彼はくるりと背を向け、気まぐれに振り向くと放り捨てていった。唇が描いたのは三日月のシルエット。

 扉の外に浮かぶ月と同じ形。

「小僧貴様、その娘を呪ったな?」