彼は奇妙と形容するには大げさなゴーグルをかけていた。ただ、このひたすらな暗がりの中では不便だろうというだけ。読みづらい表情が、淡々とした口調のせいで拍車をかけていた。
「往来で何を言い合っているかと思えば」
お説教の様相を呈したことばは、途中で「その元気があれば大丈夫でしょう」と不意に方向を変える。感じるはずのない視線がこちらの様子を見る気配を感じたのは、ルームミラーからだろうか。確かめようとした瞬間、運転席から遮る声があった。
「本当に避難所には寄らなくていいんですね」
「はい。まず母が家に残されていないか確かめたくて」
隣に座る順平くんがそう返した途端、大きな瓦礫を踏みつけたのか車体が跳ねる。その拍子に、料金メーターの表示が微かにブレて橙の残像を描いた。
ほとんど有無を言わさずわたしたちを回収したタクシーの助手席には、今まさにハンドルを握る彼とは似ても似つかない運転手の写真が掲げられている。乗る者もいないはずのこの辺りをどうして走っていたのかも相まって、このひとは謎だらけだ。
そしてそんな疑念を遥かに上回る安心感。ここに来てやっと、わたしたち以外の人間を見つけたのだから。
「あの、どうしてこの辺りは誰もいないんでしょうか……」
「あれからずいぶん経ちましたからね。避難が済んだのでしょう」
その返答には数拍の間があった。あれから、の指す出来事は目の前に広がっている。
「ある程度の人数をまとめて渋谷への臨時車両に乗せたという話を聞きました。それがいつごろのことかはわかりませんが」
「じゃあ、あなたはどうしてここに……それに、僕たちを助けてくれたんですか」
順平くんの声が少し硬くなる。わたしたちより遥かに知っていることが多い彼が、未だにここにいる理由がわからない。
「他にやることがないからですよ」
その返答には、数秒の間があった。
大きな交差点を左折。案内板が示す通り道行きは正しいらしいとはいえ、不可解が背筋を駆け上った瞬間とっさに左に投げ出されていた手を取っていた。
車が高速道路の料金所を突っ切っていく。エラーを告げるETCのアナウンスが車内を柔らかく満たして消えた。
それに重なるように、わたしにしか聞こえないほどの声が落ちる。
「藍さん?」
見上げると、髪に隠れながらもわずかに驚いたような表情があった。恐らくは年相応なのだろうあどけない仕草に、だんだんと自分が情けないことをした自覚が大きくなっていく。冷静でいるのも、目的地を決めるのも、わたしが率先しているべきだったのに。
「ごめんね」
「ううん、いいんだよ。このままで」
わたしの端的すぎることばを笑って受け取り、握り返してくれる手の温かさが痛かった。こちらは順平くんよりも大人なのだから……そう反省していると、小さくつけ加える声がある。
「僕も、大声出してごめん。不安なのは藍さんも」
きぃ、と、軋んだ悲鳴のような音が真横から突き刺さった。そうして背中を突き飛ばす急カーブの遠心力。シートベルトでは拾いきれなかった衝撃を受け止めたのは順平くんだった。倒れ込むわたしを支えてくれる腕には、澱月の透けた触手が薄っすらと巻きついて伸ばされている。いっしょに助けてくれようとしたのかもしれない。
「すみません。障害物が」
彼の注意の間に、澱月の丸い目と――そして、順平くんの見開かれた目と続けて視線が合った。
ありがとう、と伝えるのも宙ぶらりんになる、それは既視感のせい。
「……藍さん……」
こんな体勢で、こんな風に、順平くんを見上げたことなどないのに。
突然のことを驚いているのとは違う色がその目に浮かんでいる。強張って、凍りついた表情が証明だった。
「わたしたち、どこかで会った……」
「……そうだね」
答えは掠れた。
呼吸の内に、硬直した空気をそっと解いて。
「もしかしたら水族館ですれ違ってたかもしれない」
どうしてか、酷く安心して――そして苦さを飲み込んだ笑顔で。
わたしの背中に回っていた手が小さく、震えているようだった。
***
この大通りを行けば、順平くんの家があるという。
「では、私は失礼します」
運転席の窓が開き、そこでようやく彼の表情を真正面から見ることができた。
温度を感じさせないやや白い肌。その首筋には、スーツに隠された傷跡が赤々と刻まれている。
「これからどこに向かうんですか?」
「違う道で帰ります。あなたたちみたいな人間がいるかもしれない」
数時間ぶりに地面を踏みしめた両脚は、わずかに残った疲れをむしろ敏感に知らしめる。中身の乏しいリュックを背負い直したころには、すでにタクシーのエンジンが唸り始めていた。
「ありがとうございました」
順平くんとともにあいさつをしたそのとき、ふと彼の唇に笑みが浮かんでいた気がした。
「こちらこそ」
ひらりと振られた手を最後に、タクシーは軽快に走り去っていく。
残ったのは静寂。わたしたち。
そして少し歩いた先の、家。
「避難してるだろうけど……」
そう前置きする順平くんの目は伏せられている。電話もつながらない今、当然のことだった。ここに姿がないのならむしろ心置きなく出発できる。この先整備されるだろう連絡網が使えるはずだ。
「元気なひとなんだ。だからきっと大丈夫」
そうしてドアに向き直った順平くんは、動かない。どうしたのかと声をかけようとしたわたしもそれを中断せざるを得なかった。
「……あれ……」
ドアの、すぐ横。
窓の向こうに、影が揺らめいて奥へ消えた。
示し合わせたかのようにわたしたちの視線はかち合った。それは、互いが同じものを見たことを裏づけて。
「あの身長」
ドアノブへ伸ばしていた順平くんの手が、落ちる。
「母さんじゃない」
