今が深夜ではないことを、ついさっき知った。舞い上がった灰やチリが濃すぎて、厚い雲のようにここ一帯を覆っているらしい。その証拠は、空の暗がりの向こうでほんの小さく輝いている。
――そんな異常気象について考えることは、優先順位の遥か下にある。
順平くんが、わたしを……そこから、思考は働かない。文字の上で、音の上で形にするのを無意識に避けているように。そんな麻痺を、柔らかな声色がゆっくりと解いていった。
あれから数時間をかけて、ぽつぽつと順平くんは話を続ける。
「僕がはっきり覚えてるのは、藍さんのことだけだ。気づけば建物がボロボロで、周りには誰もいなくて、唯一……目の前にあなたが倒れて」
誰も、いない。それは今も同じだった。順平くんの家があるという方角へ向けて歩いているこのときに至るまで、生きているひとはおろか死んでいるひともいない。いや、本当は死んでいるひとなんてひとりもいなくて、みんなわたしたちを残してどこかへ避難している――もしそうなら、どんなにいいか。
「酷い怪我をしてた。心臓のあたりに、大きなガラス片がみたいなものが突き立って……たくさん、血が流れて」
思わず、服の上からそのあたりをたどる。
あの痛みの意味がわかったところで、つじつまが合わない。現にわたしはこうしてここにいるのだから。何も返せないわたしを、少し先で俯きながら歩く順平くんは振り返らなかった。それが少しだけ救いでもある。
わたしがどんな顔をしているのか、どんな顔でこの話を聞いているのが正しいのか、まったくわからないから。
「水槽の近くにいたんだね。だからずぶ濡れで……真っ青で、でも呼吸はあった。確かに生きていて……もう助からないと思った」
転がるコンクリートのかけらを、どちらかのつま先が蹴り飛ばす音すら、よく聞こえた。順平くんのことば以外に、聞こえるのは風だけだ。停滞した空気をさらっていく、寒々しい流れ。
「きっと痛くて、苦しいと……それだけ、わかったんだ。僕が呼びかけても何の反応もなくて、きっとこのまま生きている方が辛いんだって」
弱々しく頭を振るのを、わたしは後ろから見ているしかなかった。
「……だから、せめて早く楽にしてあげたかった。澱月には毒があるんだよ。澱月の針で刺して、その痛みもわからないうちに終わらせてあげたかった」
その足が止まる。わたしも立ち止まった。
いつの間にか、震える手が見えない表情を覆っている。辛うじて通電していたらしい街灯が作る淡い影は、微かに揺らめくろうそくのよう。砂埃まみれの広い道路の真ん中で、たったひとつの。
「そうするはずだった。なのに……いや、こんな言い方はだめだよね。とにかく、刺されてしばらくしてあなたは息を吹き返したんだよ。もっと経つと傷も塞がった」
「……治してくれたの?」
「僕たちにそんなことはできない」
強い口調が、外野から思惑を歪めることを許さない。わたしの命を助けるつもりなんてなかったのだと、はっきり。
順平くんは、倒れたわたしから離れなかった。どんな気分だったんだろう。死んでいくわたしにとどめを刺して、それからずっと見ていたのは。何を考えながら、そこにいてくれたんだろう。
「あなたの生死を僕が決めたんだ。藍さんにとって何でもない、誰でもない、居合わせただけの僕が」
「今まで、後ろめたかったの……」
「当たり前だよ!」
「ありがとう」
口をついていたのはそのひとことだった。驚いてこちらを、本当にその気はなかったのに振り返ってしまった表情は、困惑と混乱で凍りついていた。
「何を言ってるんだ……? 僕はあなたを……あなたを」
ことばにするのも忌まわしいことを、それでも繰り返そうとするのはまるで自傷のようだった。ほんのついさっき出会ったわたしのことで傷を作る、そんなことにはさせたくなくて、頭の中がまとまりきらないまま繋いだ。
――順平くんも、きっとこんな状態なんだ。何も知らなかったわたしが向ける感謝を、間違いだと正そうとしてくれている。結果はよくても動機がだめだったのだと。こうなることを予期しながら助けてくれたのに、それでも。
順平くんは、まっすぐだ。
「わたしを見捨ててもよかったのに、助けてくれたんだもん」
「違う」
「違わないよ」
自分に関係のない他人が不幸な事故に遭ったのだと、放っておくことだってできた。無関心でいれば、そんな顔をすることもなくて。
順平くんはそうしなかった。わたしにとっての事実は、それだけ。
「死ぬことより、痛いことの方が嫌……ほんとだよ」
紛れもない本心だ。苦しいことから逃れる救いが死なら、自らの手による死を妨げる最大要因も苦しみだなんてことは痛いほど知っている。誰かが手伝ってくれるなら、喜んでその手を取りたい。
片方だけ覗く目が細められるのは、理解に苦しんでいるかららしい。
「……藍さんは、変だ。あんなことをするやつも、そもそも考えつくやつも、近寄りたくないに決まってる」
「そう思わないんだからしょうがないじゃない」
「しょうがないって」
呆れた声は、次の瞬間には突沸した熱が込められていた。
「それじゃ困る! もっとこう……言語化する努力をしてよ!」
「順平くんの言語化が上手すぎるんだよ。とにかくわたしはわたしを殺そうとしてくれて嬉しいって感じたの!」
「こっ……そういうことばをそんなテンションで言っちゃだめだ!」
「それは、ごめんなさい……」
お互い冷静じゃないのは、歩き通した疲労と胸の内を洗いざらい白状した反動なのかもしれない。そうでなければ道路の真ん中で言い合うことも――何度もクラクションを鳴らされることもなかったはずだ。
気づけば、わたしの背後から強いライトが向けられていた。というより、無灯火でここまで徐行していた車が今まさにエンジンをかけたような唐突さ。
辺りに溶け込みそうに黒い車体。フロントガラスのすぐ向こうに取りつけられた表示は「回送」。
「逃げ遅れましたか」
静かに開けられたドアから、低く落ち着いた声がかけられた。
