わたのそこ

 

 ほとんど青色に沈んだ通路で、その目はテトラを見ていた。

 わずかな光をちらと反射する小さな体を夢中で追いかける瞳は、やがて後ろ髪を引かれるように次のきれいなものを探しにいくのだろう。

 二度とこちらを振り返らずに。

 *** 

「ずたずたの魚が落ちてくるのを見た」
「ペンギンが街の上を飛んでるのを見た」

 そんな、初対面のものとはとても思えない会話をしたのは数時間前。

 誰もいない荒れたビルの中を、出口を探してふたりで駆け上った先は屋上だった。あのことばたちを裏づけるというガラスの欠片がそこには散乱している。

 水鳥の羽根が積もる、濡れた床の上。

「空飛ぶペンギンって本当だったんだ! 藍さん、あなたの記憶も僕の記憶も間違ってないよ」
「え、え? どういうこと……?」
「屋外コーナーに大きな水槽が置いてあった。僕たちはきっとそれを見てたんだ」

 今は何もない虚空を、順平くんが指さす。

「透明だから、水槽の向こうに街が透けて見えるでしょ。そこを毎日決まった時間にペンギンが泳ぐイベントがあるんだ……あんなことになってた魚も、そのペンギンが食べ散らかした餌だったんだ」
「じゃあ、ここって水族館……池袋の?」

 久しぶりに訪れた東京についての乏しい記憶から何とか正解を弾き出す。そこから、優待券を窓口に出したこと、わくわくしながら順路を進んだこと……芋づる式に、しばらく忘れていたことが次々と湧き出てくる。完全ではないにしろ、微かに道が開けたような眩しさが脳裏に灯った気がした。

 ふたりして直前までの記憶があいまいで、加えてわたしは気を失って順平くんの手で医務室へ運び込まれていたという。
 八方塞がりに思えた状況はひとつだけ解決につながった。

 たったひとつだけ。

「僕たち、別々にだけど同じところに来たんだね」

 順平くんは振り返った。何十階分も上ってきた疲れに少し呼吸が乱れつつ、そればかりが原因ではない声の沈み。

「いつかいっしょに見られるといいね、藍さん。いつか……」

 本心だとわかった。

 ここまでの道中と同じく視線が合わないまま。

「うん、きっと」

 酷い曇り空の下で返した瞬間、落ちた肩の後ろから現れたクラゲがふわりと浮かんだ。

 その足元に広がる瓦礫の山。

 隣のビルがこちらに倒れて、すべり台のような斜面になったものだ。

 ***

 ――ここまでに至る何が起きたのか、かんじんなことがわからなかった。酷い天災が起きたのなら報道ヘリが飛んできそうなものだけれど、立ち込める煙らしきものがその様子を伺うのを阻んだ。

 暗い空。ペンギンが飛べるはずもない。

 ビルからの脱出だけを考えていればよかった先ほどまでとは違い、悪い意味で頭がすっきりとしている。

 壊れた都市。動く者のない町。日本中がこうなっているのかもしれないと、無意味で荒唐無稽な想像すら現実味を帯びていきそうで。

「怪我は大丈夫?」

 そう問われて、やっと意識が浮上した。

 ビルの屋上から瓦礫を伝い降り始めてしばらく経ってからのことだった。飛び降りるわけではないとはいえ、坂は急なうえに手すりがない。

 順平くんと手を繋いで、気が遠くなるほどに長い道行きへゆっくりと歩みを進めて。脆い足場に何度ももつれながら、効かない夜目をそれでも凝らしながら。

「うん、怪我はしてないよ。少し脚が疲れちゃっただけ」

 長い、長い沈黙の後。そう、と黒々とした瞳でひとつ頷くころには、斜面はあと一息と行ったところまで来ていた。
 その水面には安堵や疲労といった感情はまるで浮かんでいない。

 ことばが形にならないまま喉を滑り落ちているのかもしれなかった。かけらたりとも吐き出せないそれがどれだけ苦しいか。

「順平くん、教えて……」

 少しでも助けになりたくて、声をかけた瞬間――心の底から後悔した。

 大きな衝撃に打たれたのと同じくらい、その肩が跳ねたから。

 なぜわたしが倒れていたのか、なぜ順平くんはそばにいてくれたのか。

 彼は全て知っている。

「……藍さん……僕は、あのとき」

 これは嘔吐と同じだ。抱えた荷物を降ろすのではなく足元へぶちまけるような。一歩後ろにいたわたしを見上げた順平くんは、きっとわかっている。

「ごめん」

 わたしが、自分の奥にしまい込んだものに触れようとしたことに。

 やっと、見えた。

 助けてくれる手がありながら、ふたりの間に距離があった訳が。

 順平くんが喉元まで詰め込んでいたのは罪悪感だった。

「僕はあなたを殺そうとしたんだ」