クリスタルバレーに来る学生はいても、離れる学生はあまりにも少ない。そうする利点が限りなくゼロに近いとされているからだ。その点を指摘されたことは一度や二度ではなかったらしく、リシュはとくに戸惑った風でもなく答えてくれた。蔵書を扱う手つきも探す段取りも慣れたもので、積まれていた大量の資料はたったふたりの作業だというのにみるみるうちに減っていく。
「確かにあの場所にはどんな書物もあったし何でも知ってるのかってくらいもの知りな先生もいました。でも文字だけじゃその国の地理も空気もわからないから」
「君は紋章学を修めたいのだと思っていたよ」
「もちろん、いつか紋章のことも集中して勉強したいなって考えてます。知りたいことは割と何でも手を出していい環境ですからね」
「いちばん楽しい時期だな」
自分が学生だったころの記憶はあまり鮮明ではないが、本心からそう思う。笑顔で頷くリシュを見ると、なおさらだ。リオウと別行動をとる間にいつしかリシュは都市同盟の隅から隅までを回っていた。ゴードンの遣いも彼女にとっては見聞を広めるいい機会らしい。優秀な買い手だと彼にはずいぶん当てにされているが、それも長くは続かないだろう。
「君もいつかハルモニアに帰ってしまうのだな」
「きっとそう遠くないうちに。あ、ジェスもしかして」
「寂しくなどない」
「わたしそこまでは言ってないですよ」
にこやかに返されては否定も意味を失くす。公人として自信がなくなりそうだ。わざとらしく咳払いを挟み、整理を一時中断させた。
「その、リシュ。俺は顔に出るか?」
「とてもそう思います」
断言し、しかしふと目をそらすと彼女は窓の外を見つめた。入ったばかりの傭兵団がハウザーの指揮で何十往復目かの走り込みを続けている。
「みんなジェスのこと誤解してますよ。ほんとは表情がころころ変わって可愛いひとなのに」
「……君の可愛いが賛辞だと知らなければ怒っていたぞ」
こんな、誰かに悪戯っぽい笑みを向けられたのは彼女が初めてだったことを思い出す。
いっしょに朝食を取ろうとするのもこうして作業を手伝ってくれるのも彼女だけではない。けれどふとしたことで毒気どころか肩の力すら抜かれるのはリシュにだけだ。彼女がこの地での生活を一頁ごと刻んでいくたびにその機会も重なっていく。
気づけば一日中引き結んでいる唇が今はほころんでいるのも、そのおかげかもしれない。できることなら、その旅路に着いて行きたいと考えてしまうほどには。
ランダム単語ガチャ No.6618「白紙のページ」
