リシュか、そう呼ばれた第一声で異変を察する。普段揺るぎなく根を張る大樹が、今は風にあおられる若木のよう。そんなふわふわとした話し方をするマイクロトフは初めて見た。振る手も表情も酒場のざわめきにかき消されそうだ。
「なにごと……?」
「飛ばしすぎだ、無茶しやがって」
彼の向かいでのそりと腰を上げたビクトールはわたしに席を譲ってくれるらしい。頼むぞと言わんばかりの視線は気づかわしげで、そしてそれを上回り心底呆れ返っていた。
「少しはつき合ってやれよ。二割くらいは嬢ちゃんのせいだ」
「わ、わたし? なんのこと?」
「あー詳しいことは本人に聞きな。こっちは腹いっぱいだよ」
「真人間の鬱屈はこうも……うむ……」
「えぇ……」
あの星辰剣までもが小さくないダメージをもらっている。これはいよいよ大変なことだと、酒場を出て行くビクトールと入れ替わりに席についた。とはいえ上機嫌にオレンジを注文するマイクロトフは彼らの様子とは真逆。鬱屈だなんて、ここでどんな話が展開していたのか。
「戻ったばかりだろう? 少し食べていくといい」
「ありがとう! それじゃあ、おことばに甘えて」
さっそく運ばれてきたお茶とオレンジをいただきつつも彼の観察は忘れずに。
「君により好意を伝えるにはどうすればいいのだろう」
探るべき本題が喉に突っ込んできた。
「リシュ!?」
「あ、あーっ、ごめんねちょっとびっくりして……」
思いきりむせて驚かせてしまった後ろめたさもそこそこになってしまう。差し出されたコップを受け取る手が動揺を隠せないのを知ってか知らずか、マイクロトフは浮かせた腰を落ち着け。
その目が冗談のたぐいを浮かべないことだけはいつも通りだった。深呼吸で平静を取り戻して続きを促すと、こくりと小さな頷きが返る。
「……ここには本当にさまざまな者が集まっているだろう。だからだろうか、俺の持っていないものによく気づかされる」
「それって?」
「君が安らぐような方法……」
あいまいにことばを切って、マイクロトフは少しぎこちなくおちょこを傾けた。ツァイさんたちがよく使っている、お酒を飲むためのもの。わたしがもといた国では見ることすらめずらしかった。
「ビクトール殿やフィッチャー殿を挙げるとわかるだろうか? あの方たちと話す者は、最後には明るく笑っているんだ。……ごくまれに怒り出す相手もいるが」
「ふたりとも話術が抜きん出てるから……」
鎌をかけて揚げ足を取ってときどきは慇懃無礼に、とにかくおちょくり倒すあのテクニックは感心しきりだ。ふたりとも本当は楽しくておおらかで敬いの心を持ったひとだから、そんな応対をするのを見るたびに半ば感動の心地になって。それをマイクロトフはうらやましく思っているのかもしれなかった。
現に、目を伏せ苦い顔をするから。
「俺はいつまでも気のきいたことが言えない。今だって、リシュに……おかえりや労いや、君の留守中にあったおかしなできごとをたくさん伝えたかったんだ」
そしてそこには「楽しく」が、必要不可欠なのだ。少なくともマイクロトフにとっては。
「すぐそばにいい手本がいるから、なおのこと」
「カミューだ?」
「当たりだ。やつはよく笑うだろう? それに話し口も軽やかだ。だから君も笑顔になる」
「……うん、カミューはとっても優しいもの。でもマイクロトフ、わたしを見て」
ちょっとテーブルに身を乗り出して、とろりとしはじめている瞳をまっすぐ見つめた。一瞬たじろぎはしたものの、彼はちゃんと返してくれる。それが嬉しくて、だから答えは簡単だ。
「わたし、どんな顔してる?」
「……楽しそうだ。とてもかわいい」
「……おいしいオレンジが嬉しくて」
ときおり差し出される不意打ちにはとことん弱い。胸が苦しくなるほど絞めつけられるのは健康に影響ないだろうか。こんなのが続けばどうにかなってしまいそう。それでも今言わなくてはいけないことがある。喧騒に遮られないように、力を込めて。
「マイクロトフにすぐ会えたのが嬉しくて、好きって伝えてくれるのが嬉しくて、わたしのためにたくさん考えてくれるのが嬉しいからだよ」
「リシュ」
「わたしがいちばんに好きなのはあなただもの」
すとんと口を閉ざして、けれどはっきりと彼は頷いた。静かな口調はわたしにだけ届く、低く優しいもの。
「ありがとう。俺はどうかしていたな」
「そうだよ。早くいつものマイクロトフに戻ってほしいな」
「誰より君を愛しているのには変わりないのに」
「待って待って待って?」
とても重大なことばをさらりと、そうして流れるようにとっくりを手に取るのを目の当たりにしてしまって喜べばいいのか止めればいいのかわからない。とにかくマイクロトフがどうかしているのはこのお酒のせいだと決めつけて取り上げにかかっても、力強い腕は意外にもすんなりよけてしまう。
「まだ飲める」
「れ、レオナさーん! このひと止めてくださーい!」
「なにを言うんだ、これからだろう」
これはだめだ。
「酔っぱらいはみんなそう言うの」
カウンターを回り込むレオナさんに同調して、先にアニタさんが助けに来てくれる。マイクロトフのおちょこをさっさと取り上げる彼女は「おや」と愉快そうに声を上げ。
「リシュ、あんたどんな魔法を使ったんだい?」
「魔法って?」
「何をするんです……」
「そっちはだまってな。ほら、こいつの顔見てみなよ……」
と言われても、今のマイクロトフは追いついたレオナさんにお酒を没収されてしょげている。きりりとした眉は八の字に。
「ちょっとかわいそう」
「そうかい? うだうだしてたさっきよりずっといい男に見えるよ、わかるんだ」
微笑んで、アニタさんはわたしの肩にそうっと手を置く。
「リシュといっしょだとこうも輝くんだね」
――そこでようやく、マイクロトフのことばを正しく受け取れた気がする。
愛していると、確かにわたしを見てそう言ってくれた。
「……明日、また言ってくれないと許さないんだから」
こうしてふたりの証人の前でわたしは宣言して、明るい朝日の下で慌てて駆けてくる彼の姿を楽しみに待つことにした。
きっと、望んだものをくれるのだと確信しながら。
ランダム単語ガチャ No.1880「ほろ酔い」
