波の音が夕日とともに降り注ぐ時刻、この光景をいちばん喜ぶだろう人間はここにはいない。
二度と現れてはくれない。
「あの子の任務はほとんど完璧だった。街に溶け込み住民と親しくなり、情報網を広げては相手の出方を探って。けれどこればかりは」
音もなく地に膝をついた男の手には、今は何もない。先日は得物を手にし、血にまみれていたとは誰も思わないだろう。アラウディが追っていた事件は彼自身の手で幕を下ろされ、残るのは痛みだった。
「神を、信じていたよ。僕ではなくあの子が……だから、これは僕への報いなのかもしれない」
「……言うなよ、そういうことを」
この冷たい石の下には誰も眠ってはいない。マリーノの、マリーナの遺体はアラウディらの祖国に丁重に葬られた。花の咲き乱れる、海の見える、それは美しいところだとだけ彼は口にし、後は捧げられた花束を無言で眺めるばかり。
少し前に、泣き止まないランポウを連れてエレナとナックルは去った。Gは背後で拳を握り締め、うつむき目を伏せて。
「誰かを、憎むべきだと思いますか。あの子を煩わせた悪人ども? それとも」
「誰も、何も悪くない……そうでござろう、プリーモ」
「……あぁ」
掻き消えるようなDの問いは実質雨月に遮られ、しかしそれがなくともアラウディの答えは決まっていたはずだった。もはや体外的な外見も人格も用意できなくなったあの子がボンゴレの屋敷から動けなくなったのも、逃れられない寒気にひとり震えていたのも、その身に濃く落ちた死の影によるものだ。
「ごめんね。ぼく、病気なんかに負けちゃうみたい」
最期に、こうも言っていたのだ。繕い切れない笑顔で。
「どうして……やだなぁ、泣かないでよ」
痛みも苦しみもなく――いや、周りの誰もが別れの予感に立ち尽くすしかないのを悲しみながら、あの子も泣いていた。兄の指で涙を拭われても、その手に触れる力すらないまま。
「……お前たちはどうしてこの道を選んだんだ?」
聞かずにはいられなかった。迫る危険から身を守る必要に駆られていたとはいえ、あの子にはやはり故郷で静養する道もあったはずだ――それを思うと、わからなくなる。愛国心だけが、諜報員などという危険極まりない職務への支えになるとはどうしても考えられない。
「僕だけのエゴだ」
白い花を、白い手袋に包まれた指が撫でる。アラウディがマリーノやマリーナにしていたような、壊れものを扱う優しい仕草で。
「あの子は弱かった。だから力を与えるために組織に引きずり込んだ。素性を知る者から遠ざけたくてイタリアでの任務に送り出した。すべて僕が決めて押しつけたことだよ」
――偽悪的で、そして全部が嘘ではないとわかる。アラウディはいつかいなくなるきょうだいを守りたくて、可能な限りそばに置きたくて、あえて死と隣り合わせの場所に縛りつけた。
「あの子はそれを呑んでくれた。僕を愛していると」
ことばを、最後までアラウディが口にすることはなかった。雨月がその背に声をかけあぐね、Gに促されて離れていく間も。
ふと、あの子と初めて出会ったのも海辺だったと思い出した。波音とともにやって来て波音の向こうに消えるのは、少し前に世に出たおとぎ話のようではないか。大切な誰かのために自らの生を手放す、愛情深くも悲劇的な人魚の物語。
あの子はすべての延命を拒んだ。
泡となるその瞬間に苦痛がなかったか。今となっては祈ることしかできない。
「だから今度は助けたいんだ。どんな手を使っても取り戻す」
今度。その意味をこの先誰かが知ることはないのだろう。アラウディは直にこの地を出て行く。そして滅多なことでは戻らない。今までとはまるで違う理由で。
「……お前が何を考えているのかはわからない。生まれ変わりを信じるような質とも思わない。それでも、遠い未来でお前たちがまた会えるように願わせてくれ」
約束を完全な形で果たせなかった、せめてもの償いのつもりだった。そのときは、ふたりが何の変哲もない平凡な時間を隣で歩めるようにと。
答えはない。
