05

 すずめちゃんが風紀財団のエリアを去ることはなかった。草壁と同じ権限を与え、ボンゴレ側と自由に行き来できるようになったというのに。理由を尋ねても「何となく」とらしくない答えばかり返ってくるのは、本当に明確な考えがないのだろう。

 受け入れられたとは思わない。だが安堵したのも事実だった。この期に及んでもまだ、目の届かないところにいてほしくないという身勝手な想いは変わらないからだ。

 そのすずめちゃんはといえば、守護者たちが修行をしている日中はほとんどボンゴレで過ごしている。ジャンニーニの手助けをして施設中の整備に駆け回っているというのはリボーンの言。だから修行につき合うことはなかった。匣がどんな使われ方をしているのか、すずめちゃんはまだ見たことがない。

「これは返すけど、絶対、ぜーったいに使っちゃだめだからな。とても危ないんだ」
「大丈夫。リングは今キョーヤが持ってるの」

 ツナからすずめちゃんの手に戻ってきた匣は、ラルも首を横に振るレベルの欠陥品。この先進んで使う機会はないだろう。

 しかし誰も匣を取り上げようとはしない。アジト内とはいえ、もしものとき、というものが必ずしも避けられないことを皆がわかっているからだ。どんなに非人道的な存在でも、あるのとないのでは前者がまだましといえる。

 ツナの判断は正しい。彼がすずめちゃんを戦力に数えることはありえない。そしてすずめちゃんは、一日の終わりに必ず彼らのところから財団エリアへ帰ってきた。だからこそ、あの子がボンゴレの側にいることを見守っていられる。

「これを、こうして……あ、はまった!」
「やりましたね、すずめちゃん! 直りましたぁ!」

 様子を見ようと居住区を通ってみれば、すずめちゃんとハルが洗濯機の前でハイタッチをしている。ジャンニーニの指示で修理を終えたところのようだった。洗濯室の床に工具やネジがちらばっている。

「新しくつけた部品で汚れがよく取れるようになるんだって。えっと、当社比二百パーセント……?」
「うーん、怪しいです……」
「きっとどんな服も真っ白になるんだよ!」
「それはだめだめな洗濯機になっちゃってますー!」

 設計図らしきものを覗き込むふたりに声をかけずその場を去る。すずめちゃんが問題なく過ごしているなら何も言うことはなかった。ハルや京子と同じく空元気が多少なりとも混じっていたとしても。

「ハンカチで試してみようかな。もしだめでもごしごし洗えば大丈夫!」

 すずめちゃんの身振り手振りが伝わるような明るい声が背後から届く。それは洗いたてのシャツ、その洗剤の柔らかい香りを思わせた。

 あのリボンの汚れは、綺麗になるのだろうか。今まで考えもしなかったことをふと思いつく。いつか元の白を取り戻せるのなら、いつまでも続ける。それを喜んでくれるのがただひとり、ここにはいないひとりだとしても。

「ヒバリさん?」

 エレベーターを待ちながらもの思いに耽っていると、横合いから声がかかる。そちらには奥の通路からやって来た京子がいた。やけに大きな紙袋を手に笑顔で会釈をする。

「今から戻るんですか?」
「そうだよ。彼らを見にね」
「それじゃあ、これはすずめちゃんに渡しておきますね。花……黒川さんがすずめちゃんにってくれたんです」

 京子はいかにも女性ものらしい華やかな袋をにこやかに掲げて見せた。やけに厚みがあり、奇妙に膨らんでいる。

 彼女たちはすずめちゃんが初めて並盛に現れた日に居合わせた人間だ。それから変わることなく、すずめちゃんは彼女たちと友だちでいた。

 僕の知らないところですずめちゃんが大切にする人間、すずめちゃんを大切に思う人間は大勢できている。幸福なことだ。本当に何もなかったすずめちゃんにとっての宝ものが今、たくさんあることは。

「……あの、すずめちゃんには会ってないんですよね? そこの部屋にいるんです」

 ためらいがちに問われ、無言で肯定する。笑みが苦いものに変わるのは、顔を見せてやれと言いたくても言えない事情を察しているのだろう。京子も含め過去から来た者たちは全員、この時代のすずめちゃんがどうなったかをリボーンを通して知らされている。彼女はそれを悲しんで、そして十分に汲んでいた。

「余計なお世話だったらごめんなさい。すずめちゃん、あなたを嫌いになったんじゃないんです。怖いひとじゃない、って」
「あの子が、それを?」
「はい。昨日私たちに話してくれました」

 すずめちゃんは嘘をつこうとしてもできない子だ。すでに到着していたエレベーターの扉が閉まるが、ボタンを押し直すこともせず京子の話に聞き入った。その腕が紙袋を抱え直すのを認め、重いのならと引き取ろうとしたところで表示灯が点滅する。エレベーターが他の階に呼ばれて降りていく低い稼働音が、短い沈黙を埋めた。

「優しいひとだから好きって。でも、ときどき困るそうです」
「何を困るの」
「元の時代のヒバリさんにするみたいに甘えちゃいそうになるみたいですよ。ふたりは違うひとなのにって」

 ――いっしょに眠った日々を、覚えている。

 真っ先に思い浮かぶのはそれだった。すずめちゃんが不安がっているとき、ベッドに入れてやるととても安心してくれたことも。後から眠る方は、その穏やかな寝顔を思う存分見られることも。

「ずっと、ずっと前からすずめちゃんのこと大切にしてたんですね」

 否定する要素など微塵もない。京子はこれ以上ないほど嬉しそうに笑った。

 ***

 すずめちゃんは両腕に丸々とした大きなぬいぐるみを抱えて帰ってきた。どことなくヒバードの面影を感じるひよこだ。

「大きい花ちゃんがくれたんだって! 可愛い子でしょ? 今度お礼言いに行きたいな」

 頬をうずめて抱きしめる満面の笑みは、おやすみを言って寝室に向かう時間になっても続いた。匣の調査ということはともかく、僕が日本にいない期間が多かったことを花は知っている。「すずめちゃんが寂しくないように」との名目で京子に預けられたらしいひよこは、さっそくその役割を果たした。

 部屋の明かりを落としながら思うのは、そんなすずめちゃんの様子だった。ここから少し離れた部屋で寝起きしてはいるが、その普段の生活を一から十まで把握しているわけではない。

 毎晩、よく眠れているのかどうかも。

 昼間の京子のことばが引っかかっていた。すずめちゃんは昔の僕に甘えたがっている。それができない今、どうしているのだろう。

 一度気になると途端に眠気は吹き飛んだ。求められていないのだとわかっていても気が気でない。眉を下げたあの表情が思い浮かぶ度に体のどこかが痛む。何もないならそれでいい。そうでなければ、手を貸してやりたかった。拒絶されたとしても。

 ――かくして、その予感を無視しなかったことは正しかった。

 部屋を覗くと、そう広くはない和室の隅に縮こまるように布団が敷かれていた。上掛けはあちらへ枕はそちらへ散らばっており、すずめちゃんの寝相を物語っている。それよりも問題は本人だ。

「……て……やだ……」

 寒さに凍えるように丸まって、すずめちゃんは体を強張らせていた。不規則な呼吸の合間にこぼれることばがある。握り締められる手がある。何かから逃れるように身じろぎして、明らかに悪夢を見ていた。

「すずめちゃん」

 思わず声に出しながら、そばに膝をついた。ためらいはしたが結局肩を掴んで揺する。このまま放っておけばすずめちゃんはどうにかなるという冷たい確信があった。夢の中までも苦しませることは絶対にさせない。あまりにも酷だ。

「起きなよ……すずめちゃん」
「……キョーヤくん……?」

 何度か揺さぶられ、ようやくすずめちゃんは目を覚ました。濡れた瞳を軽く見開き、ぎこちなくこちらを仰ぐ表情には戸惑いがまとわりつく。

「あれ……? どうして」
「うなされてた」
「……どこかに、いたの。ぼく、すごく寒くて」
「思い出さなくていい」

 起き上がろうとするのを止める。緩みかけた浴衣の帯や胸元を直してやりながらそっと息をついた。何も覚えていないのなら幸いだった。まだ救いはある。悪いことは忘れてしまえばいい。このまま何気ない話で思考を埋めてあげれば、きっとすずめちゃんは大丈夫だろう。せめて変わり果てた日常から離れている間だけは安らいでいてほしい。

「ごめんなさい。うるさかった?」
「いや。まだ真夜中だ、だから……」

 また眠るように言おうとして、すずめちゃんの表情がまだ晴れないのを知る。同じ夢を見るのはとても難しいことだとわからないままでは、眠りは恐ろしい時間への入り口に過ぎない。

 こんなことを、もし今までずっと繰り返していたのなら――ぎりぎりのところで危うく目覚めて、誰にも言えずに怯えながらひとりで朝を待っていたとしたら。そこに思い至り、苦い後悔を飲み込む。今優先して考えるべきなのは別のことだ。

「あの子はどうしたの」
「あの子? あ、ひよこくん……」

 すずめちゃんが指差した先には、畳まれた毛足の長い毛布を座布団に丸いひよこが陣取っている。上掛けと枕が回収される間に両方を引っ張り込んだ。言いつけどおり定位置に戻るすずめちゃんの隣にひよこをねじ込む。

「……ふわふわ」
「朝までずっと抱えるんだよ」

 バスケットボール大のそれが抱き寄せられるのに合わせて、上掛けの下に毛布を差し込んだ。小柄な体躯をつま先から顎まで包むのは容易い。まるで埋もれるようになったすずめちゃんは、ぱちぱちと瞬きするのみで大人しい。

「これも、ふわふわ……」
「いっしょに寝るのが好きだったでしょ」

 誰と、とは言わない。本人がいない今、体温の代わりになるといったらこれらしか思い浮かばなかった。だが、見下ろす瞳がほんの少しだけとろりとし始めるのを見るとこれで正しいのだろう。寝つきと同じくらい夢見もよければ言うことはないのだが。

「これなら眠れるはずだよ」
「変な夢、見ないかな」

 不安そうにするところへ頷いて、柔らかい髪を数度撫で――そこでようやく間違いに気づく。すぐに手を離そうとしたが、予期していた反応はない。

 すずめちゃんが怖がることはなかった。

「キョーヤもこうしてくれたの」

気持ちよさそうに目を細め、ひよこに頬を寄せて、確かに微笑んだ。

「……そう」
「うん。君はいい子だね、って」

 指先で、頬にかかる髪を払う。柔らかな熱が掠め、それだけで針が刺すように微かな痺れが襲った。

 ずっと昔から好きだった温度が、笑顔がここにある。そう遠くない未来に、二度と手に入らなくなるもの。

「……そうだね。すずめちゃんはいい子だ」
「うん。ぼくはいい子だから、もう一回寝るよ」
「……ゆっくり、目を閉じて」
「おやすみなさい……」
「おやすみ」

 緩くまぶたを伏せる穏やかな表情を目に焼きつける。すずめちゃんが完全に眠ったらここを離れなければならなかった。柔らかいものに囲まれて、何の心配もなくいられるのを確かめてから。

 この寝顔を見られるのもあと少しの間だけだと知っているからこそ、別れ難くなる。今度こそ優しい眠りに落ちるのを見守りながら、その日が来ることを心のどこかで憂いた。