04

 君は、君に優しいものにだけ囲まれていればいい。

 いつかすずめちゃんに言ったことばだ。やたらと群れる草食動物たち、兄貴面をする跳ね馬……歓迎したくはないが。そして近くで見守る草壁、よく懐く小鳥。その並びには僕もいる。それが当たり前だと思っていた。その中にいるすずめちゃんはいつも元気で、笑顔でいられると。

 それがどうだろう。

 雷、大きな音、本人は認めたがらないが六道骸、極端に高いところ、お化け。全て、すずめちゃんが怖がるものだ。泣き顔も泣きそうな顔もしなくて済むように、そんなものと直面するときにはせめてそばにいてやりたいと思ったのは、守ってあげたいと思ったのは誰だったのか。

 今こうしてすずめちゃんを追い詰めて脅かして泣かせている雲雀恭弥だ。

「キョーヤ、どこ……?」

 僕ではない者の名前を呼んで、すずめちゃんは座り込む。震えて縮こまる体に触れることなどもうできなかった。今の僕はすずめちゃんの脅威だ。この子にとっての明確な悪意を先ほどまで持っていたのだから。

 手首を引っ張ったら痛がるに決まっている。捕らえて閉じ込めるなど、言って聞かせることすらおぞましい悪逆だ。スーツにしまい込んだリボンの無惨な有様が脳裏をよぎる。こんなことは、ここにいるすずめちゃんの平穏をこの手で汚すも同然の行為に他ならなかった。

「ぼく、違うよ」

 ほとんど声にならない響き。喉を締めつけられたように苦しげに歪んだことば。声を上げて泣き出すのを堪えて、堪えきれない。

「ぼく、すずめちゃんじゃないもん……」

 ――リボーンが言っていたではないか。

「あなたの特別じゃないよ」
「……」

 息を、呑んだ。

 わかりきっていたことのはずだった。

 このすずめちゃんは眼鏡をかけていない。香水をつけていない。当たり前だ。僕の特別なのも、ずっといっしょだと約束したのも僕のすずめちゃんだから。

 間違っていたのは僕の方だった。此方と彼方、ふたりのすずめちゃんを分けて見るべきなのは僕の方だ。雲雀恭弥が持っている十年分の時間をこの子はまだ通り抜けてはいない。

 忘れるな。

 拳を握りしめる。手のひらに爪を立てて、骨を軋ませて、それでも足りない。理解したつもりでいた都合のいい頭を捨てなければいけない。

 大切で、どうあっても守りたい相手ではあっても根本的に違う。

 僕の隣にいるべき人間はこの子ではない。この子の隣にいるべき人間は僕ではない。

「ごめん」

 その場に膝をついたのは目線を合わせたかったからではない。力の入らない両脚の先でうずくまるすずめちゃんは、止まらない涙を拭いながらやっと顔を上げた。濡れた双眸が揺れて視線が定まらないことに安堵する。これ以上恐れとともに見上げられることは耐え難かったから。

「ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声が届く。

「すずめちゃんじゃなくてごめんね」

 そのことばに、ほとんど無意識に頬へ伝う涙に指を伸ばそうとしていた。今だけは許されないことだった。触れてはいけない。すずめちゃんが怖がる人間には、許されない。

「違う。君は何も悪くない」
「だって、キョーヤくん怒ってた……」

 ――違う。悲しかった。悲しくて前が見えていなかった。君を僕のすずめちゃんだと間違えた。いや、代わりにしようとしたのかもしれない。

 そんな言い訳をすずめちゃんがわかるはずもない。押しつけるつもりもなかった。僕がどれほどすずめちゃんのことを好きでも、この子に知る由はないし受け入れる道理もない。

「ごめん」

 繰り返す。

「僕を呼んで。キョーヤくん、って、それでいいから」

 泣き止まない子どもを前に、慰めることもできずにいる。その方法すらわからない。こうして一度立ち止まれば自分の本当の望みなど簡単に見えてきた。

 過去も未来も関係ない。すずめちゃんにはいつでも笑顔で、幸せでいてほしいと思っていたはずなのだ。

「乱暴にして、怖がらせて、ごめん。怒ってなんてない。だから」

 泣かないで。どの口が言えたことばだろう。わからなくて、思い出せない。すずめちゃんがもう一度笑えるようになるために、何が必要なのか。うなだれてどれだけ考えても答えは出ない。

 思考は袋小路に陥る。

 そんな頭に、そうっと触れるものがあった。

「……泣かないで」

 柔らかな体温。小さな手のひらだ。ふっくらとした子どものもの。視線だけ上げると、片手でごしごしと目元を拭うすずめちゃんがいる。濡れた頬をそのままに、やっと開ききる目は真っ直ぐにこちらを射抜いた。

 怖いものを見る目。けれど覗き込むように相手をよく見つめるそれは確かにすずめちゃんの視線。微かに身を乗り出して、距離を縮めて。

「怖くないよ」

 その手が髪を梳いて頭を撫でているのだと、やっと理解した。それがすずめちゃん自身のことを言っているのではないと、すぐに理解した。僕は怒るべきではなく恐れるべきで、その感情は今頃遅れてやってきていた。僕は恐れている。すずめちゃんをまた失うことを。

 右も左もわからないこの時代にとっての新参者がそれを見抜いた。決して僕への許しではない。けれど受け入れようとしている。それはすずめちゃんの覚悟とも言えた。一度は自分を脅かした男と向き合うことへの。

「……ありがとう」

 うつむいた拍子に、額同士が軽くぶつかる。小さく声が上がったが、いたわるような手が引っ込められることはなかった。

 僕の肩に降りてきたヒバードが頬に体を擦り寄せる。すずめちゃんはそれを見てやっと、小さく笑う。

***

「君はとても勉強をがんばって、学校に通ってたんだよ」
「ほかには?」
「背が伸びて、綺麗になった。それに、友だちの手伝いで演劇……お芝居をしてた」

 自室へ向かいながら語られるこの話が、もういない相手のものだとすずめちゃんは知っている。僕が、僕の隣にいたすずめちゃんの死を伝えた。ほかの誰かの口から伝わるよりはよほどいいと思ってのことだ。

 すずめちゃんは悲しみはすれど、取り乱すことはしなかった。今の自分と未来の自分が地続きであることをまだわからない。自分自身が遠くない未来で病に倒れることがまだわからない。全くの他人の話だと思っているからだ。もうじき帰国する了平のことを「大きい了平くん」と言い表したのもそのせいで、ビアンキとフゥ太の呼び名も考えているらしい。草壁はどうなるだろう。

「ここのすずめちゃんはずっとキョーヤくんといっしょにいたんだね」
「そうだよ。僕はあの子のことをとても好きだったから……それに、今でも」
「よかった」

 二歩後ろを歩くすずめちゃんが安心して息をつくのがわかる。

「キョーヤもそうだと嬉しいな。ぼくキョーヤのこと大好きだもん」
「……そうだね」

 そうに決まっている。後ろ手に自室の戸を閉めながら声もなく肯定した。彼がいつかすずめちゃんへそう告げることを確信して。

「そうだ、キョーヤくん」

 すずめちゃんがポシェットを開く。

「これあげる」

 座布団につきながら受け取ったのはチェーンから外されたリングだった。神社で対峙したときには考えもしなかったが、すずめちゃんはこれに晴の炎を灯したことになる。それは、何か決死の覚悟をすずめちゃんが持っていたことを示した。

「はめてた間、何があったのか全然覚えてないんだけどね。何となくほっとした気がするの。だからあげる」
「いいのかい」
「きっと元気になれるから」

 匣だのリングだのをすずめちゃんが知る必要などないと思っていた。明らかに意識に干渉していた装備を見た後なら、なおさら。しかしこれから確実にミルフィオーレとの衝突がある。迎撃の間、すずめちゃんのそばを離れることになるのだ。それを鑑みると、匣はともかくリングのことは教えておいた方がいいのかもしれない。

「……わかった、預かっておくよ。けど、君もこれの使い方を覚えておいて」
「使い方?」
「リングに灯した炎は君のことを必ず守ってくれる」

 少し離れた位置に戻って、すずめちゃんはぽつんと正座している。僕とリングを交互に眺めてはただひたすら目を丸くして「わからない」と訴えてきた。指輪が発火するなどありえない現象だから。

「熱そう」
「そうだね。少しそう感じるよ」
「でも……やってみる」

 戸惑いのまま、すずめちゃんは一度は手放したリングを再び手にした。どの指にもサイズの合わないそれは、やはり首から下げておくほうがよさそうだ。右の中指にはめたリングを握り込んで、不安定ながらも一応は固定する。

「どうしたら火がつくの?」
「覚悟を持つこと。強い気持ちのことだよ。君には、どうしても叶えたい願いはあるかい」
「願い……」
「それを強く想えば、成功する」

 真剣な眼差しが白い手に落ちる。小さなすずめちゃんの願いは知っていた。強くなりたい、たくさんのことをできるようになりたい――─しかし今はそれを後回しにせざるを得ないとこの聡い子はわかっている。晴れない表情がそれを示していた。

「……みんなと元の場所に帰りたい」
「……そうだね」
「でも、わからないよ。たくさん教えてもらったのに、ぼく、どうしてこんなことになっちゃったのか」

 不安に揺れる声は、無反応を貫くリングを動かす奇跡など起こさない。

「ぼく、ここにきてからおかしいの。たくさん悲しくなる」
「そんなことはないよ。君は大丈夫だ」

 唇を引き結んで食い止めているのが嗚咽だとわかる。事情を知らされたところで全容がわからない現状への不安が、ここに飛ばされた者たちを蝕んでいた。すずめちゃんもそのひとりだ。どうにかしてやりたくて、いっそ全て話してしまおうかと短気を起こしそうになる。しかしそれは沢田綱吉の計画の綻びだ。回り回ってすずめちゃんを害することは目に見えている。

「……君は元の場所に帰った後、何をしたいの」
「キョーヤに会いたい」

 声に熱がこもる。きっと僕が同じことをしたら同じ結果になるのだろう。何者かの思惑と知らず引き離されたすずめちゃんのもとへ一刻も早く戻りたいと。今この瞬間も、十年前の雲雀恭弥はひとりだ。

「会いたいよ」
「会える」

 手を伸ばし、ぐらつく指輪に触れる。すずめちゃんは酷く驚いて体を震わせたが、逃げ出すことはなかった。リングの装飾を注視する目が微かに伏せられ、視線をそらすのがわかる。それですずめちゃんの集中が保たれるならいい。僕はそれだけのことをしたのだから。

「……会えるよ。約束する」
「うん。ぼく、キョーヤに会えるようにがんばる……」

 その語尾が呆然とかき消える。煌々と燃え上がる黄色の炎は、音もなくリングの上で輝いていた。

「あ……できた……!」

 陽炎を追うように見開かれた目が、炎越しにこちらを捉える。これでいいのかと問う視線に頷くと、すずめちゃんはやっと肩の力を抜いて再び黄の輝きに見入った。緊張に固まっていた精神が解けていくのは、活性の作用が働いているのかもしれなかった。雲はその助けにはなれそうもない。

「その感覚を忘れないで。戦うためじゃなくて、無事に帰るために。彼に元気な顔を見せてあげて」

 それは僕の願いでもある。もうすずめちゃんを励ましたくても叶わなくなった今、できるのは守ることだけだ。恐れられるのは昔から慣れている、そう自分に言い聞かせて。

 まばゆい光を映した瞳で、すずめちゃんはまじまじとこちらを見つめる。何かを言いかけたのを止めてポシェットを探る手が取り出したのは、チェーンに通された方の指輪だった。本当ならこちらのすずめちゃんとともに葬るべきだったもの。

 差し出された指輪をいざ目の前にして、受け取ることを躊躇った。取り戻したいと望んだものがここにあるのに、手にしたところで手渡すべき相手はいない。

「怖がってごめんなさい。キョーヤくんも優しいひとなのに」
「……僕に、これを?」
「あなたのすずめちゃんを守って。お願い」

 ――僕の大切なひとはもういない。白蘭をどうしようとその事実は変えられない。そう思っていたし、それが正しい。それをすずめちゃんは否定した。晴のリングを一度はこちらに渡そうとしたのも同じ理由だ。

 僕のために。

 懇願を振り払えない。この子の願いを叶えてやりたいと考えるのに理屈など無意味だった。

 返事の代わりに、花の指輪をこの手に握り締める。嬉しそうにほころぶ笑顔が、この選択が間違っていないことを教えてくれた。