昼下がりの屋敷に荒々しい足音が響く。珍しく何歩も先を歩くGは目を吊り上げて振り向いた。
「これで何度目だ? 数えてるか?」
「いや、全然。そう怒るなよ、重要な話は聞いてくれただろう」
「それにしてもだろ」
Gの立腹を宥めつつ、理解できないでもない。アラウディは今回の会合が終わると同時にいちばんに部屋を出ていった。守護者それぞれに役を振る立場のGのことばは「まともに会話が成立したことなんてない」と半ば恨み言と化している。
しかし彼がこうして参加すること自体感謝するべきだろう。アラウディもひとつの組織を束ねる立場の男だ。思想の一致がなければ、そもそもこの地に足を踏み入れることすらなければ時間を作る義理もない。その点で言えば、マリーノの存在は一種の人質のようになってしまっている。そう評したのはDだが。
ボンゴレ出入りの御用聞きとして振る舞うマリーノは、使用人を演じるマリーナと異なり屋敷を出ていることが多い。しかし裏を返せば、仕事と称して決まった時間にここを訪れるということだ。アラウディからすれば、条件さえ揃えば確実にきょうだいに会えることになる。彼の優先順位としてはマリーノがいちばんで、ボンゴレはその下ということだ。
彼または彼女がいなければ、アラウディが毎回招集に応じていたか定かではない。今日は男性として街を回っていたマリーノは、今ごろ屋敷に割り当てられた一室で伸びているだろう。アラウディはその様子を見に行ったに違いない。
「化粧か、姿勢か? いつも本当に上手く化ける……」
「無茶してるんじゃないよな。ジョット、あいつの具合について詳しく聞いてるか?」
「いや、知っているのは皆と同じ範囲だ。小さい頃からの病が影響している、とだけ」
すれ違う使用人に軽く手を上げて応えながら、初めてマリーノの事情を聞いた日のことを思い返す。
血相を変えたランポウが屋敷に運び込んだマリーノは、彼とともに帰路を歩いていた最中に突然倒れたという。何がどうなっているのか命に関わりはしないかと涙目になるランポウを宥めるマリーノが、ベッドに横になりながらその場に居合わせた守護者たちへかいつまんだ話。知っているのはそれだけだ。
「ひとより体力がなく疲れやすい、だから倒れる前に仮眠を取るしかない。原因がわからない以上薬にも頼れないしな」
「そうか……」
「そういえば、お前にずいぶん感謝していたぞ。Gの調整のおかげで満足に仕事ができると」
「……そーか」
「嬉しそうだな?」
「違う、きょうだいなのに全力で正反対の印象だなって生命の神秘に感動してたんだよ」
「何だよ、その照れ隠しは」
「そんなんじゃねーよ!」
昔のように軽口を叩き合うのを咎める者は屋敷にはいない。ここはマフィアと呼ばれるようになった自警団の、確かな安息の場所でもあった。参加を持ちかけたマリーノがふたつ返事で乗ってくれたことも大きい。自身の任務がきっかけの出会いとはいえ、彼とはGやコザァートに次ぐ長いつき合いだ。気心の知れた仲間、そして友人がそばにいることは本当に心強い。
「……っと、ここだっけか」
不意にGが口をつぐんで足を止める。拳ひとつ分だけ開いた目の前の扉の向こうが、マリーノの部屋だった。アラウディを引きずり出して今日こそガツンと言ってやる。そんなGの決意も、病人を前にすれば小声にならざるを得ない。
実に不用心なありさまだが、これはアラウディがそばにいるときだけだ。普段の仮眠時にはぴたりと閉め切られる上に鍵もかけられる。当然の対応だろう。まだあどけない見た目のせいで忘れがちだが、マリーノはアラウディと同じ機関に属する人間だ。本来なら他の組織の本拠地で眠り込むなど自殺行為にほかならない。マリーノがそれを許されるのはアラウディを説き伏せたからだった。
それほどの信頼を寄せられることは嬉しくもあり、そして身の引き締まる思いがする。向けられたものには報いるべきだ。何を返すのが相応しいのか――それは、どうしても隙ができてしまう彼を守ることだと考えている。病のことも機関のことも、マリーノについて守護者に厳格な戒厳令を敷いたのはそれによる。
「……静かだな」
「そうか、Gは初めて来たんだったな。いつもこうだよ、アラウディは黙って待ってるんだ」
アイボリーの、柔らかな色の壁紙が覗く部屋からは何の物音も聞こえない。なるべくゆっくりと扉を開けると、Gは忍び足で先を行く。マリーノの寝顔を見に来たわけではないから、アラウディに合図でもして連れ出せればいい。ベッドのそばに据えた椅子に腰掛けるスーツの男の姿を認めて、視界の隅にでも入るように大きく手を上げて。
そんな考えは吹き飛んだ。
Gの背が明らかに強張る。その瞬間空気が、時間が止まった。
ベストを脱いで楽な格好になったマリーノが横たわっている。アラウディはその様子を黙って眺めていた。生きているのか疑わしくなるほど白い顔をしているきょうだいを、ただひたすら。
その目は、ここからでもわかるほど優しい温度に満ちていた。
そのうち小柄な体躯が微かに身じろいだのをどこか安堵した表情で見下ろし、彼は席を立ったかと思えばその場に跪く。柔らかな曲線を描くマリーノの頬に、アラウディの素手が触れる。そうっと、慈しむように数度繰り返すのを――そうして、それを確かに見た。
カーテンを透かした日の光が薄ぼんやりと照らす部屋、その中でアラウディがマリーノの唇へ口づけるのを。
***
「さ、忙しい兄貴と交代だものね」
林檎片手にやって来たランポウがアラウディに宣言するころには、マリーノはすっかり目を覚ましていた。ふたりが談笑するのをよそにそこから離れたアラウディは、何とか部屋から出たと同時に黙り込むGとオレを交互に見やる。
彼が気づかないはずがなかった。部屋に近づく気配も、Gが踏み入った気配も、アラウディならば造作もなく読み取れる。なのに何の反応も寄越さなかった理由といえばひとつしかない。
あの光景を見られても構わなかったからだ。
「僕とマリーノの話は終わった。何か用があるんでしょ」
その証拠に、アラウディの態度には何の変化もない。脱いでいたコートに袖を通せば、見慣れた雲の守護者に戻っている。そうして再び降りた沈黙の中、口火を切ったのはGだった。
「その前に聞かせてくれ。お前、マリーノの兄貴なんだよな」
Gは明らかに動揺していた。感情を押さえつけようとして抑揚がない声。アラウディはその様子を意に介さずあっさりと頷いた。いつもの無表情が崩れることはない。
「そうだよ、実のきょうだいだ。知ってるでしょ」
「じゃあ、どうして」
「やけに気にするね。何を心配してるの……あぁ」
一瞬の無言の後、小さく笑みがこぼれた。ただ唇をほころばせただけの、笑顔とは呼べない歪んだ表情。
「いわゆる、神に背く行為を?」
暗い自嘲めいたことばは、この場を凍てつかせるほど冷ややかなものだった。
絶句してそれでもなおGが食い下がろうとするのを、本当は止めるべきなのだろう。しかしまだ頭が混乱していた。きょうだいへの親愛として、キスはこれといって珍しいものではない――それが家族へ向ける愛情ならば。だがアラウディがマリーノに与えたのにはもっと、それ以上の何かを感じた。Gもそう受け取ったからこそ、問いたださずにはいられなかったに違いない。
アラウディは部屋を振り返る。正確には、ランポウが危なっかしい手つきで林檎の皮を剥くのを緊張しながら見守るマリーノを。
「僕にはあの子だけだ」
それだけを、ぽつりとつぶやいて。
あまりにも短く、低く、理解されようなどとまるで考えていない、その中にすべての想いをねじ込んだことば。それを聞いてしまった今――間違っている、などとはとても思えなかった。そのようなことが本当にあったのかどうかは置いておくとして、今アラウディ自身が口にしたのは一般的には忌むべき行いなのだろう。しかし彼はマリーノを心の底から愛している。マリーノだって、今日のような機会でもなければ会えない兄が訪れるのをいつでも心待ちにしている。
ふたりは互いを想い合っていると、傍から見ていてもわかった。それがきょうだいへの愛情なのか――恋人に向けるものなのか、はっきりさせる必要はないし口を挟むべきことではない。
「お前は、マリーノが大切なんだな」
それだけが確かなら、ふたりが幸せなら今はそれでいい。Gがそれを察したようにちらと視線を寄越すのがわかった。ふたりがいつも隣に居続けられない理由の一端はこの場所にある。その張本人たる自分たちは、外野からお決まりの正論を投げつける資格などないのだから。
アラウディは部屋の中の方を向いたまま頷いた。マリーノの楽しそうな笑い声に目を細めて。
「愛してるよ」
