05

 すずめちゃんが言いつけを守らないことがある。それを目の当たりにするのはこれが初めてだ。

「まだちょっと痛いんだよね? それって元気じゃないんだよ。だからいつもみたいに動いたらだめなんだからね、お医者さんも言ってたもん。おつかいなら任せて、ぼくお買いものもできるようになったからね。林檎だって切れるんだから」

 少なくない口数がさらに増えてもいる。ここぞとばかりに世話を焼きたがるのは被保護者の無意識な反動なのかもしれない。

 実際ほとんどの期間は痛みを通り越して無感覚の境地だったが、黙ってベッドで大人しくしている。横にパイプ椅子を据えたすずめちゃんが監視の姿勢を崩さなかったせいで。

 あの騒動の後、面倒なことに病院へ押し込まれた。すずめちゃんへは毎日見舞いに来なくてもいいと伝えたが、三度言ったあたりで諦めた。

 ひと足早く退院した草壁の直訴のせいもある。学校へは休まずに出てくるものの、すずめちゃんは見事にしょげ返っているという。口を開けば「みんないつ元気になるかな?」「哲さんはほんとに大丈夫なの?」「いつ会えるかな?」と不安がっている――普段冷静なあの男がそう形容するのはなかなか説得力があった。

 みんな、の中にはもちろんツナたちも含まれている。

 黒曜、もとい骸の件は完全にマフィア絡み。風紀委員たちをはじめとした負傷者のほとんどはただ巻き込まれただけだ。そんな話を持ち病室へ見舞いとともに謝罪に来たツナは、すずめちゃんまでもが渦中にいたことをここで知った。

「君に謝られてもどうにもならないよ」

 そうは言ったものの、今日の彼はとくに群れてはいないので追い出すことをしない。そんな気力もないのか、はたまた本当にどうでもいいのかを判別するのも怠い。そもそもマフィアだのと彼らはよく口にするがどこまで本気なのか。

 すずめちゃんがほかの病室へ出かけていったことで、長く微妙な沈黙が降りる。それを嫌ってか、ツナはそれは言いにくそうに切り出した。

「あの……すずめちゃん、どうしてあいつに狙われたんですか?」
「知らない……いや、きっと僕への嫌がらせさ。僕らのことを知ってたらしいね」
「そんなことのために?」
「笹川了平に化けてたそうだよ。信じられないけど、六道骸っていうのはそんなことができるの」

 語られる話は荒唐無稽に等しかったが、その顔は真剣そのものだった。なおさら咬み殺したくなる。骸との再戦が待ち遠しい、などと口にしたらすずめちゃんはひっくり返るだろうか。

 ***

 すずめちゃんはひとつの負傷もしていなかった。というのはあの部屋で再会したときの話で、実際は黒曜ランドから脱出する際に二度転んで両膝を擦りむいている。

 今は絆創膏も取れて、傷痕はほとんど消えていた。こうして何度も指先でなぞっても違和感はない。うさぎの飾り切りの林檎を持っていたすずめちゃんは、くすぐったいと笑った勢いで赤い皮の耳を折った。

「この分なら綺麗に治るね」
「うん。キョーヤもすぐ元気になれるよ」
「そう思うかい」
「だって、キョーヤは強いもん」

 仕方ないからと自分で林檎を頬張るのを眺めていると、しゃりしゃりと小気味いい音がする。

 擦り傷が痛かったとすずめちゃんは言いたがらない。いい加減に比較対象を変えるべきだと勧めるべきだろうか。たかだか消毒液で涙目になっていては雲雀恭弥には並べない。

 並べなくたって、いつでも後ろにいて構わないのに。

「そういえば、聞いたよ」

 膝上に巻いていたジャージを戻しながら、多少事実をぼかしてかまをかけるようにする。

「なぁに?」
「君、あの日泣いてたって」

 あれは聞き捨てならないひとことだったが、しょせん骸の幻覚の上でのできごとだ。実際、すずめちゃんは骸と対面した次の瞬間にはあの部屋で目を覚ましていたという。

 気を失ったところをそのまま閉じ込められたのだろう。そんな想いの通り、すずめちゃんは目を丸くして驚く。

「何それ? ぼく泣いてないよ」
「……そう。それならいいよ」
「ニセモノなんかに負けてないもん」

 椅子から立ち上がりかねない勢いで、すずめちゃんは心外だと頬を膨らませた。まだツナがここにいたら凝視していただろう、そのくらい貴重な表情。すずめちゃんの感情が怒りの方向を示すのは多くない。

「……あんなの平気だよ」

 怖かったけど、とうつむいて小声で本音をこぼさずにいられない正直さはいつものことだったが。

 それでよかった。あれほどの悪意に直面するのは初めてだっただろうが、すずめちゃんは変わらない。どうにもならない現実を前にしても、それを跳ねのけようとする。

 そして、それができるかどうかは別問題だ。気概はあっても、実現できる力がまだないのだから。目の届くところに置いておこうが同じことだ。

 避けられないことなら、せめてそばにいたい。また手を引きたい。抱きしめたい。

 すずめちゃんが変わらなくてもいいように。あんな、泣き出しそうな表情を二度と目にしなくてもいいように。

「おいで」

 手招きし、ベッドの空いたところへ呼び寄せる。ろくなことばもなく、しかし意図はすでに伝わっていた。広くはない余白へ腰かけたすずめちゃんの頭を撫でると、ようやく笑みがこぼれる。

「よくがんばったね」
「ありがとう。キョーヤも、がんばったよ。えらいえらい」

 温かな、柔らかい指が髪に触れる。包帯にかからないようにと遠慮がちなのが残念だが、熱を感じるには十分だった。

「……君の言ってたこと、わかったよ。君にこうされるのは好きだ」
「ね、気持ちいいでしょ」
「そうだね」

 このまま横になりたくなるほどの穏やかさだった。窓からやってくる昼下がりの陽気、微かな風、少し抑えた声。すべてが体内に染み渡るころには、ごまかせない眠気が全身を覆い始めている。

 ――ふわ、と小さなふたつの欠伸はほとんど同時に聞こえた。

「眠いの」
「眠たいけど、まだキョーヤにあーんしてない」
「しなくていい」

 またどこから仕入れた知識なのか、すずめちゃんはうさぎを是が非でも食べさせようとする。それを避けて仰向けになると、狙い通り追撃は止んだ。

「そう?」
「……今日は僕も寝たい。また今度ね」
「はぁい。覚えとこっと」

 ベッドを降りようとするのを引き留める。袖を引くと、元から頑丈ではない体は簡単に傾いた。小さな頭が僕の胸に乗って、すずめちゃんは奇妙に横転する。

「キョーヤ、重いでしょ? 枕になんてできないよ、ぼく退くよ」
「枕になったつもりはないけど、僕はこれがいいんだよ」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、いっか」

 ふにゃりと笑って、すずめちゃんは大人しく体重を預けてきた。乗り上げる上半身は見た目より軽く、頼りない。

「何だか、音がする」
「心臓の音だね」
「こんな音なんだ。絵でしか見たことなかったから……」

 うとうとと瞼が重くなっていくのにつられそうだ。身を任せてしまえばすぐに流れていける眠りに、ふたりとも逆らうことはなかった。

「ぼくのも、こんな音かなぁ」
「……きっと同じだよ」

 瞼の向こうで、ことばにならない返事が聞こえる。本人は何かを言ったのだろうが伝わらなかった。それでもいい。続きは目を覚ませばいくらでも聞ける。