04

崩れた壁、暗い部屋、差し込む外光。一見、先ほど骸と相対した部屋と何ら変わりはなかった。

目の前ですずめちゃんが眠る以外は。

「……」

這いつくばったまま顔だけ上げるが、声が出せない。ほとんど感覚のなくなった体では、それが痛みか渇きか、吐いた血なのか、どれのせいなのか判別できなかった。

だから、脳は軽い混乱の処理の方を優先する。考えうる中で、最もここが似つかわしくない存在。そして、最もいてほしくない人間がここにいた。

あのときかき消した最悪の想定が頭をよぎる。しかもそれは、今まさに自分が置かれている現実と同じだ。ままならない体を一方的に抉った暴力は未だに全身に食い込んで消えない。

――すずめちゃんが直面したなら、きっと悲鳴も上げられないだろう。

しかし見る限りでは、すずめちゃんに外傷はなかった。着ているジャージにも土の汚れ以外は見当たらない。埃っぽいソファーに、ひとりでいる。そのことにすらいちいち安堵する精神状態が憎かった。

すずめちゃんが約束を破るより遥かに可能性が高いことがある。ここで意識を飛ばしていた間に、彼らがすずめちゃんを連れ去ってきたということだ。

「どうですか、犬?」

――思考が屈辱に溺れ始めたころ、あの声が再び響いた。なぜ気づかなかったのか、すずめちゃんの隣に骸が脚を組んで腰かけている。というより、突然現れたといった方が正しかった。意識の隙から潜り込んできたように。

赤と青の目が覗き込むのは、幸いなことに苦痛の色が見えない寝顔だ。その足元では、金髪の男が座り込んで唸りながらすずめちゃんを見上げている。鼻を鳴らして、まるで犬が匂いを確かめるのを連想させた。

「勘違いれした。こいつからはあの研究所の匂い全然しないびょん」
「ならばよかった。無駄な殺しをせずに済みましたね」

まったくそう思っていない骸の口調に、傍らの壁に寄りかかる白い帽子の男がちらと視線をやる。先日、すずめちゃんといるところへ通りがかった方だ。

「おっかしーなー、動物の匂いはほんの少しあるのに」
「それじゃあ、本当にただの人間なんだよ」
「そーいやこいつ、ぴーぴー泣いてたんれしょ? 情けねーヤロー」
「……女の子じゃないの?」
「んぁ? そーかぁ?」
「まぁ、どちらでも構いません」

喉の奥で低く笑い、骸は手袋に包まれた指ですずめちゃんの頬に触れた。親指が、動かない唇をたどって這い回る。

その瞬間、嫌悪だけが頭を埋め尽くした。すずめちゃんが攫われた。触れられた。泣かされた? 一撃を入れて注意をそらすこともできずに、ただありのままの光景を受け取るばかりの状況が歯がゆい。

それにしても、先ほどから彼らはこちらなど見向きもしなかった。嘲られているのとは違う。見えていない――または、これ自体が目を覚ます前のまどろみの中で生まれた夢なのだろうか。

「彼が後生大事にしているというから、どんな才女か気の強い美女かと思ったら。お馬鹿さんではないがてんで弱々しい」

そんなことに興味はない。大事なのはすずめちゃんだからだ。それなのに彼らの手に落ちている。夢ならそれでいい、現実なら一刻も早くこんなところから逃がさなければ。

「君の目の前で遊んであげたらどんな顔が見られるんでしょうね?」

――ぞっと、周囲の温度が下がった。

三人が、一斉にこちらを向いた。興味がなさそうに、怪訝そうに――楽しそうに。

すずめちゃんは目を覚まさない。

「ねぇ、ヒバリくん」

馴れ馴れしく、骸が両手を上げて揶揄する。いっとき解放されたすずめちゃんは、小さく咳き込んだ。

その口の端から、人体から流れ出るにはあまりにも黒い血が細く、一筋こぼれる。

「……」

声が、出ない。

***

額に触れる指があった。

ほぼ反射だった。相手が反応できないうちに手首を鷲掴み、驚いて身を引く動きを利用して硬い床に押し倒す。全力で体重をかけずとも、拘束の抜け方をまるでわかっていない相手を押さえ込むのは容易かった。

後は、空いた片手で首を決めればいい。ここで長いことよそごとに構ってはいられなかった。早く抜け出してすずめちゃんを探すことだけ考え……だからこそ、このやけにウェイトも上背もない相手が誰なのかなんて気にもしなかった。

「待って……」

――聞き慣れた、しかし酷く掠れた声を聞くまでは。

仰向けに倒され、大きな目を軽く見開いて。白い喉元を押し潰そうとする腕は自分のものだ。ここに至って初めて、仕留めようとしているのが助けたい相手だとようやく理解した。

怪我もなく、あのとき別れたそのままの姿。

「すずめちゃん」

ほとんど音にならない声で呼びかけることしかできない。それでもことばが通じたのがわかり、凍りついていた表情は一気にほころんだ。ここにあるのが間違いだとすぐにわかる、温かな笑み。

「うん」

倒れたすずめちゃんの指が伸べられ、何度も梳くように髪を撫でていく。恐らくは出血であちこち汚れて固まっているだろうに、気にもせず。

「怖くないよ」

それはすずめちゃん自身のことを言っているわけではないと、数拍遅れて理解した。今、自分がどんな表情でそれを甘んじて受けているのかまるでわからない。

慰められているのだとわかってしまった。どこかで聞いた、頭を撫でられるのが気持ちいいという話。確かに、いたわりだけが伝う指に触れられるのは場違いなほど心地よく、安心感がある。こんな状況でなければ何分でも味わっていただろう。

しかしそれは、自分だって怖い思いをして、きっと助けを求めていて、それなのに今まさに絞め落とされそうになったすずめちゃんのものだ。そんな相手からの慈悲は受け取り難くて仕方なかった。

子どもらしく怖がるべきなのに。いきなりこんなことをされて、泣いたっていいのに。

何より保護者に対してよりによってこの慰め――丸っきりお門違いの感情は、多分反発心だ。

何もかもがない混ぜになって、そして敵襲に備えて一気に高まったはずの緊張が解けた反動も合わさる。そんな雑然とした胸中が選んだのは。

「ひぇっ?」

額同士をぶつけることだった。

「いたた……何で?」
「生意気だよ。気にくわないな……僕に怖いものなんてない」

あると指摘されたならそれは「許せないこと」の間違いだ。こんなことになって、ようやく実感として脳裏に刻まれる。

ついてくるよう脅されたのか、力づくで攫われたのかはわからない。どちらにせよ、すずめちゃんには毒でしかないはずだった。

「怖がるなら君の方だ」
「……うん」

すずめちゃんに手を出されることが許せない。少しだけ不安に歪む、涙をこらえる表情をさせる何もかもが許せなかった。

「無事でよかった」

助け起こすことさえ忘れて、そのまま胸に抱き寄せた。簡単に収まる小さな体は大人しく受け止めてくれる。あの雨の夜と違うのは、すずめちゃんに覆い被さってしまっていることくらいだ。

「……ぼくは大丈夫」
「うん」
「怖かったけど、もう平気だよ」

涙声が、ほんの微かに届く。少し冷えた頬が、胸に触れる。結局床に押さえつける形になっても構わなかった。すずめちゃんが元気でいることを、最悪の想像が外れたことを確かめられるから。

「キョーヤ、苦しいよ。ずっとこのままじゃやだ……」

――さすがにそう言われては引っ込めざるを得ないが。

***

「助けを呼んできて」

連絡手段をポケットの中に持っているすずめちゃんに対してわざわざ、そして心にもないことを頼んだ。誰が来ようと、ここを根城にする男は止められない。

ここがどんな部屋かは知らないが、出られそうなところは天井近くの通気孔しかない。瓦礫の撤去作業のために残してあったのだろう。散乱する棚や机を踏み台にすれば、身軽なすずめちゃんなら抜けられる。

体にダメージが残りすぎている今は、ついていくことはできない。「キョーヤふたり分くらい運べるもん」と強がりをのたまう口はとりあえず塞いだ。

「出口には高くて大きな看板がある。君の脚なら誰にも捕まらずに行けるよ」
「……うん。がんばるね」

すずめちゃんがことばを飲み込んで頷くのを、初めて目にした。

今言いつけたのはつまり、雲雀恭弥を見捨てていけということだ。通気孔に膝まで乗り上げたまま、不安げな目が振り返る。

自分が残していくのが重傷の人間だと、すずめちゃんにだってわかっていた。次に襲われたら今度こそ終わりだということも、本当は自分が人間ひとり担いでいける力がないことも。

「今回のこと、必ず片づけて帰る」
「約束?」
「約束だよ」

――痛みの表情とともに、すずめちゃんは外へ飛び降りた。軽い足音はどんどん離れていく。

「待て! まっ……あいつかなりスピードあるぞ!?」

追っ手を振り切っていくのが、音だけでわかる。

これでいい。すずめちゃんを引き離した今、心置きなく首謀者とやり合える。並盛を脅かしたこと、あの子を巻き込んだこと、ついでに悪趣味な幻を見せられたことの落とし前をつけさせる。

――それまで、ここで待つ必要があった。今どこで偉そうにしているかわからないあの男が自らここに来るまで。そうでなくても、体が少しでも感覚を取り戻すまで。

その光景をすずめちゃんが目にする必要はない。こんなこととは、いちばん遠い場所にいるべきだ。