03

「隣町に行ってくる」

 当然のようにすずめちゃんはついて行きたがったが、当然のように止めた。ワイシャツの袖口を摘む丸い指は、まだ離れないまま。

 応接室の外では、校区内での待機を命じた委員たちがばらけ始めている。目撃した生徒たちが逃げを打つような威圧感は、漠然とした困惑となって校内を取り囲んでいた。

「すぐに済む用事だよ。だからここに……いや」
「学校で待ってればいいの? じゃあ、また哲さんたちのお手伝いしてようかな」
「それでいい。けど、学校の敷地の外には出たらだめだよ」

 どうして、とすずめちゃんが聞くことはなかった。並盛町全体の事情に詳しくはない人間にも感じ取れるほど、ここ最近の不穏さは留まることを知らない。

 それに、すずめちゃんは笹川了平が大怪我を負ったことをすでに聞き及んでいた。それが黒曜中の生徒の仕業だ、とまではさすがに伝わってはいないようだが。

「でもキョーヤもそうだよ。危ないんでしょ、危ないよ」
「僕の並盛に手を出したんだ。ただで済ませるわけにはいかないよ」

 ――このところ、不安げな顔を見ることが増えた。それは急激に広がっていく本人の視野もとい世界のせいだったり、今日のような外敵のせいだったりする。こうして誰かの心配をするときも。

 眉を下げて、唇を引き結んで、今にも泣き出しそうな。
 
 あまり、見たいものではない。

「誰に誘われても、絶対に出て行かない。約束できるでしょ」
「うん」
「いい子だね」

 頭を撫でると、すずめちゃんはやっと安堵して頷く。この前くすぐったいと笑っていたこともある、きっとこうされるのが気に入ったのだろう。

 これくらい、戻ってからいくらでもできる。案外と心地いい手触りだ――そう延々と撫で回す気はないが。

「キョーヤが帰ってくるまで待ってる」
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい!」

 今日は珍しく、すずめちゃんが見送る側だ。そしてそれは、おかえりを聞けるということ。

「なぁ」

 思案にふけりながら階段を降りる最中、背後から追いかけてくる足音がある。とくに気にもせず進むが、彼は数段飛ばしで隣へ並んできた。

「なぁって、隣町へ行くってほんとか?」
「君には関係ないよ」
「あるって! オレだって今回のことは心配だからな」

 常に表にあるといっても過言ではない笑顔をわずかに沈め、山本は「それよりさ」とあっさり話題を切り替えた。本題ではなかったのか。

「扉、開けっ放しだっただろ。聞こえたよ、すずめちゃんと仲いいんだな」
「だったら何」
「いや、よかったなーって。オレたち散々お前にボコボコにされただろ?」

 覚えがあるようなないようなことを挙げるのを流し聞く。彼自身にとっては結構なことのはずだが、それでも話す声に笑みが混じるのはそういう癖なのかもしれない。

「だから、すずめちゃんのこといじめてんじゃねーかって少し、ほんの少し疑ってたんだけど。大丈夫そーな」
「そんなことする理由がないよ」
「だよな。というかそれ通り越してめちゃくちゃ可愛がってるように見えるぜ」
「僕が?」
「そ、お前が。明らかに対応が違うだろ、あの子相手だと。友だち……には違いないんだけどそーじゃなくて……」

 何のかんのと考え始める彼は置いて、傍目にはそう見えるのかと新たな発見をする。可愛がるなどと部外者に形容されるのは癪だが、事実なので否定はしなかった。事実だから、ここに留めておきたい。

 彼らが何の目的で並盛の生徒を襲っているのかは知らない。つまり次に誰が狙われるか検討がつけられないということだ。それは自分だったり、すずめちゃんだったりする。

 腕に覚えのある生徒がああまでやられたのだ、あの子が手を出されたらひとたまりもないだろう。

 引き裂かれて、刺されて、歯を抜かれて、その他多数の外傷を負った生徒たち。包帯の下の赤黒い、痛々しいそれらを引き連れる暴力。

 そこから先は想像する必要はなかった。すずめちゃんがそんなものに晒される前に、すべてを終わらせるだけでいい。

 何より、想像したくもない。

 ***

「行かないよ」

 そう答える表情は、驚きのあまり無表情に近かった。あどけない、ふっくらとした頬にはあまりに不釣り合いで、思わず興味深く観察してしまう。

 なぜ彼がこの子を囲うのかは全くわからない。しかし個人的には納得だった。何もかもが一切不明という、可愛らしいイレギュラー。暇潰しに手元に置きたくなるのは頷けた。飽きたら捨てればいい、手慰みの玩具。

「キョーヤが言ってたんだもん。学校から出ちゃだめなんだよ」
「しかし、もうこんな時間だぞ」

 背後を、暗くなっていく空を見るよう指し示しても、すずめちゃんの目はそらされない。一人前に警戒しているのだ――見た目不相応な挙動は、やはり雲雀恭弥に似たのだろうか。

 手にしたトンボを芝生に横たえ、せっかく整えたであろうグラウンドの上を後ずさるジャージ越しの脚は、まるで力が入っていない。逃げようとしてできない、戸惑いをあらわにしたちぐはぐな反応はむしろ望むところだった。

 これからのことがやりやすくなる。

「オレが送っていってやる! ヒバリの用がもっと長引くこともあるだろうしな!」
「だって、了平くん……怪我はいいの? とっても酷かったって」
「あの程度、何も問題ない! さぁ、ヒバリの家までいっしょに行くぞ! 案内してくれ!」

 差し出す手に応えず――はっきりと、すずめちゃんは息を呑んだ。

「……了平くん、何回もキョーヤのおうちに来たことあるって言ってたよ」

 目の前に立つ男の後ろを覗き見るように、すずめちゃんは首を傾ける。気を張るばかりに、逆に微かに注意を散らす仕草が甘さの表れだ。

「君は誰」
「……やはり付け焼き刃では完璧とは言えませんね」

 質問に答える必要はなかった。薄い肩は片手で簡単に捕まえられる。本当なら腰を抜かしてもおかしくはないだろう。笹川了平の外見が霧と化して消えていくのだから。

 そこから、見ず知らずの男が現れたのだから。

「初めまして、並盛の正体不明な人物ランキング第二位のすずめちゃん。僕は六道骸といいます」

 ちなみに第一位は君の保護者ですよ、そう笑顔でつけ加えてもすずめちゃんはことばを失ったままだ。

 生身の体に幻覚を被せた姿は、ただの幻よりは完成度が高いはずだった。しかし、了平のことは写真と、犬から伝わった情報の上でしか知らない。いつ見破られてもおかしくない、単なる時間稼ぎに過ぎなかった。
 
 そしてそれは十分に機能した。

「嘘をついてすみません。でも、僕は君を雲雀恭弥の居場所に連れて行ってあげられる。これは本当ですよ」
「……先生……」

 何とか校舎を振り向き小さく叫ぶようにした唇を、後ろから手のひらで塞ぐ。垣間見た、恐怖を隠しきれなくなる目がぞくぞくするほど綺麗だった。片腕で抱き込むようにすれば、すずめちゃんはもう逃げられない。だというのに非力なりにもがくのがいじらしくて、笑みが浮かぶのを止められなかった。

「こんな時間で、こんなに暗くて。ここに君がいるなんて誰にもわかりませんよ」
「……」
「風紀委員たちも大忙しだ。誰も君を助けてくれませんよ……雲雀恭弥もね」

 すずめちゃんの抵抗が、見る間に弱々しくなっていく。マインドコントロールの一種だ。一方的にことばを聞くだけで拒絶できない今なら容易い。

 こうして並盛に乗り込んだのは単なる興味、そして自分の目的のためだ。

 犬曰く「オレたちと同じ匂いがする」という人間。彼が処理した了平とのつながりをたどれば、そのすずめちゃんの存在は労せず把握できた。ここに自分たちに縁のある者などいるはずがない。しかし、もしあの忌まわしいファミリーと関連性があるのなら、調べ上げた上で徹底的に消すべきだ。

 そうでなくてもマフィアどもを潰すのに使えるなら、少しは利用価値がある。千種の言うところでは、雲雀の関係者でもあるらしい。試しに持って帰るのも一興と足を向けてみれば、呆れるくらい上手くことが進んだ。

 現に、驚くほど速く催眠が効き始めている。

「僕と来なさい。彼に会いたいでしょう?」

 君の知る無敵の風紀委員長の影も形もないが。そう嘲るより前に、小さな体は完全に意識を失う。