「先生たちがいっぱい運ぶんだって」
何を、と問えばこんなの、と両手を広げて四角をした大きさだけを示される。何もわからない。
屋上のコンクリートにぺたりと座り込む姿は、どこから調達したのか上下ジャージで統一されている。埃っぽいところに行くのならそれが適切だろうけれど。
「あ、思い出した。教材って言うんだった」
「手伝いに行くのかい」
「うん。ぼくと、ツナくんと、あとひとり。ツナくんと同じクラスの子が来てくれるよ」
「そう」
「行ってきまーす」
「うん」
すずめちゃんは足取り軽く出ていくが、ほかのふたりはそこまで楽しげにはしないはずだ。大方、補習のついでとばかりに教師に押しつけられたのだろう。ツナの学業が芳しくないことは伝え聞いている。頭に思い浮かぶもう片方も似たようなものじゃないかと半ば決めつけた。
「……雨か」
寝転がっていると、雲の流れがよくわかる。灰色の雲が空を覆い始め、降り始める前の濡れた匂いが降りてくる。新聞の天気予報では、それほど長くは続かないとされていたが。
それにしても、放っておけばどんどん交友関係が広まっていくらしい。すずめちゃんが毎日嬉しそうに話すのを流し聞きしていたが、問題はとくに起こっていないようだ。
というのも、風紀委員は何かと恨みを買いやすい。直接手は出されずとも不満の種はそこかしこに転がっているだろう。もしすずめちゃんがそれに出会ってしまったら、万が一にも危害を加えられそうになったら――相手を叩き潰すだけだ。そういった校内の芽は摘み取るに越したことはない。
***
――と、考えていた矢先にこれだ。
すずめちゃんが帰ってこない。
登校はともかく、下校はいつもいっしょだ。その時間までにはいつも応接室に戻ってきていたというのに、今日は何の音沙汰もない。
草壁にたずねても知らないという。窓の外から覗いてみても、ちょこまかと走り回るあの姿はどこにも見当たらない。校内を歩いても、三人のうちの誰とも鉢合わせしない。
職員室を当たると、教材はつい先ほど資料室に運び終わったという。片づけは三人に任せて、鍵を預けたところで詳細は途絶えていた。
あの集団はさぞ人目を引くだろうに。人間の神経を逆撫でするほど陽気な男、脅しがいのありそうな気弱な男。
そして、容易く捻じ伏せられそうな小柄な――。
「……?」
どん、と腹に響くような轟音が耳をつんざいた。まだ校内に残っていたらしい女子の悲鳴が上がるのと同時に、一斉に落ちる光源。窓の外を見れば、真っ黒い雲からバケツをひっくり返したような豪雨が降り注いでいる。どうやら、落雷で一時的に停電したようだ。
ざあざあと耳障りな雨音。それに混じって聞こえる、ぶつぶつとした小声に気づく。すずめちゃんの声が聞こえはしないかと耳を澄ませていなければ絶対に聞きそびれていた。
「またかよ……オレのせいで……何でこんなのが壊れるんだよおかしーだろ……」
階段を上がりきった先は目的の資料室だった。そのすぐ手前で、三角座りになって微動だにしない男がいる。ロンシャンとかいう、すずめちゃんが挙げていた生徒だ。
「何してんの」
「……あー、あんときの、どもっす……沢田ちゃんは職員室戻ったッスよ……はぁ」
目が合わない、そしてまるで会話にならない。苛立ちのままトンファーを構えようとしたとき、ロンシャンは脱力した手で扉を指し示した。資料室は所蔵品の日焼けを防ぐため、常に厚いカーテンがかけられている。小窓からは暗がりで何も見えない。
「鍵壊れちまってさ……すずめちゃん中に閉じ込められて……」
――話が早かった。不届き者に狙われるより数倍マシな事情だったらしい。扉を蹴倒そうと一撃入れたが、なかなかしぶとい。レールから外れることもなかった。
「あの子、停電してから何も返事してくんないんスよ……絶対嫌われた……お先真っ黒コゲ」
ツナがいない理由は察した。こうなった男より遠くの大人に助力を求めた方が手っ取り早いだろう。だがこれを壊す方が遥かに手短だ。小窓をトンファーで叩き割り、妙な引っかかり方をしていた内鍵を捻じ曲げてこじ開けた。古い型のせいで単純な作りだが、こうして外からの解錠を妨げる誤動作を起こすことがある。すずめちゃんにはわからないだろうし、途中からは完全な暗闇だ。結局、その場にいた誰にも開けられなかったことになる。
すずめちゃんの反応がない、それは確からしい。現に先ほど蹴りを入れたときも、今も、大げさな音がしたというのに何も返ってこなかったのだから。
思い浮かぶのは、停電の存在を知らないが故のパニックだ。身動きできず、声も上げられないほどの。
「ねぇ、出てきなよ」
彼は捨て置き、踏み入る。広くはない部屋だから、呼ぶ声が聞こえないはずはなかったがやはり返事はない。窓辺へ固定されたカーテンを引きちぎると、申し訳程度の光が曇り空から注いだ。当然これだけでは資料室全体を見渡すことはできない。
あの姿を見つけることも。
「すずめちゃん」
――初めて、名前を呼んだ気がした。最後に屋上で話した元気な様子ばかりが印象に残るが、その実あまりにもものごとを知らない子どもだ。右も左もわからない、そんなレベルから一歩踏み出したばかりの。何がどれほど怖いのかなんて、実際にそれに直面しないとすずめちゃんには理解できない。
「話せないなら、何か合図して……」
言いかけたとたん、奥の方で軽い物音がした。ちょうど、机から鉛筆を落としたときそのものの、ともすれば環境音として脳が聞き流しそうなほどささいなもの。
「キョーヤ?」
それは掠れた、およそ呼びかけとは思えない弱々しいものだった。暗がりへ慣れてきた目をこらすと、並ぶ机の影からふらふらと立ち上がる白いシャツがある。ジャージ姿のすずめちゃんだ。
「どこ? よく見えない……いたた」
「動かないで。僕が行く」
思いっきり足をぶつけるのは、よほど慌てているからだろう。早足で歩み寄るとそれは確信に変わる。縮こまって、きかない夜目で頼りなげに辺りを見渡す様は明らかに、怯えていた。緊張した肩に触れると、やっと見上げる目と視線がかち合う。
「怖かったの?」
緩く首を横に振るのは、嘘をついているわけではない。顔が強張っているのは、気のせいではない。
「びっくりしちゃって」
学ランの裾を摘んで、ようやくそれだけ言える。停電と落雷のふたつはすずめちゃんを思考停止させるのに十分だった。いつもの調子を完全に崩され、ことばが出せない。
どこかで、この子なら問題ないとタカを括っていた。自分の特異な境遇に足踏みすることのないパワーがあると。だが現実は違った。すずめちゃんにだって、どうしようもないほど怖いものがある。人間が相手かどうかなど関係なく。
「出よう」
学ランから外した小さな手を掴む。少し冷たいそれは、しっかりと握り返してきた。
***
「止んでよかったねぇ」
すっかり日の落ちた帰り道を、すずめちゃんは手を繋いだままついてくる。多少は元気を取り戻し、水たまりを軽やかに避けながら夜空を見上げて。
後片づけを押しつけたツナとロンシャンは、手間を背負わされたことよりすずめちゃんが出てこられたのを喜ぶことに専念していた。リボーンも合流するとなれば、上手くやるだろう。
「来てくれてよかった。ありがと」
「うん」
「あのね、キョーヤが来てくれて嬉しかったよ」
「そう」
「それとね」
何かの反動のようにすずめちゃんはよく喋る。上機嫌に振られる手は振り回されるようになるけれど、解こうとは思わない。
カーテンも裂けない、硝子も割れない、そもそもそんなことを思いつかない非力な子。拾ったのはそんな、見た目以上にひ弱な生きものだったらしい。怪我ひとつしていなかったのは幸いだった。この、一見のんびりとした笑顔があれ以上曇るのは本意ではない。
「忘れてたよ。君は本当に小さいんだね」
「身長のこと?」
「何もかも」
とくに解説する気も起きないまま、意図が汲めずにきょとんとするすずめちゃんの手を引く。
――あのとき扉を破壊したのは効率半分、残りは衝動だった。すぐ向こうにすずめちゃんが座り込んでいたかもしれないことを完全に失念して。
とにかく、早く確かめたかった。すずめちゃんが無事に帰ってこられることを。
