08

 すずめちゃんがわけもわからず持っていた、通信の形跡がない携帯。あまりにも怪しいので、そのまま電源を落としておくことにした。

 代わりに渡したのは、型落ちが過ぎてところどころ水色の塗装が削れた小型機。PHSと呼ぶのだと草壁が詳しい機能とともに得意気に話す。とはいえ、通話とメールくらいにしか使えないのだが。

「ちっちゃくて可愛いね。だいぶ古いみたい?」
「あぁ。オレが最後に見たのもずっと前だな」
「へー、何十年前?」
「……すずめちゃん、オレも中学生だ……」

 すずめちゃんには理解できないところで草壁が落ち込むのは置いておき、やたらと自分の番号を教えて回るのは禁止した。

***

「もしもし!」
「何」
「ぼくはすずめちゃんです! あなたはキョーヤさんですか?」

 その結果がこれだった。『キョーヤ』『哲さん』、ふたつだけ番号を渡されたすずめちゃんは、さっそく練習と称して電話をかけ始めた。

 ちなみにこれで六回目。草壁は不定期に襲い来る着信に戦々恐々としつつ出かけていった。律儀に全て受けなくてもいいだろうに。

「切るよ」
「はぁい」

 目の前に座っている相手と顔を合わせながら通話することに、ここまで違和感を覚えるものだとは知らなかった。別に知らなくていい情報だけれど。最後に見回りを終えたこの三年生の教室はがらんどうで、ふたりが適当に席に着くのを目にする生徒はいない。

「普通に話せば聞こえるよ。わざわざ気合を入れなくても」
「不思議だね、すごいね、離れてるのに」

 こちらと手元を見比べるのは輝く目だ。たとえ共感を求められているのだとしても、その技術を当然のものとして受け止めている身としては難しい。

 すずめちゃんが見るもの感じるもののほとんどが、初めてだ。対して、この差は何だろうか。

 この子を拾うまでは日常に飽いていた。リボーンと初めて出会ったとき、あんなにも気分が高揚したのはそのせいだ。

 ぬるま湯の「普通」が崩れ去る感覚。すずめちゃんを連れて行くことにしたのは、それを求めていたからでもある。

 その瞬間の、ぞくぞくするような爽快感は一種の劇薬だ。摂りすぎれば精神が疲れ果てる類のもの。

 すずめちゃんは毎日それに晒されている。過度なストレスは気分をハイにするときもあるらしいが、あの元気さはもしかするとこれに当てはまるのかもしれない。ストレスが何なのかを知らないだろう今は、とくに。

「そろそろ行くよ」
「あ、ちょっとだけ後で追いかけるね」
「またかけるつもりなの」
「待っててね」
「考えておくよ」

 決定事項ですと言わんばかりの笑みに断りを入れる気にもならず、さっさと教室を後にした。こうしてひとりきりにして、クールダウンさせる時間も必要になるのかもしれない。思えば、こうしていっしょに行動するときは毎秒背中にくっついて回られていた気がする。

「……静かだ」

 思わずそうこぼしてしまうのは、生徒のさわめく声が遠いからでもある。

 まだ夕焼けの見えない時刻。うっすらと青が褪せつつある空は、あまり雲がかからない晴れ。少し横になるにはうってつけの空気だろう。

 屋上の扉を開けると、やはり誰もいない。ここは風紀委員長のテリトリーだと宣伝した覚えはないが、生徒が屋上に上がるとしたら向かいの棟と慣例ができ始めている。こちらへ訪れるのは草壁とすずめちゃん、あとは殴り込みのテンションで現れるボクシング部の主将だけだ。

 もともとは、こんな静寂が当たり前だった。そうでなければ職務を全うして、それでおしまい。

 それが、リボーンたちの騒動に巻き込まれ始め、さらにすずめちゃんの出現。一気に環境が変わり始めていた。煩わしさはあまり感じない。むしろ、心が躍るような予感が常に芽吹いている。

 ――これが、すずめちゃんが抱える感覚の一端なのかもしれない。

「あれ? これでいいのかな、もしもし、すずめちゃんです」
「うん、聞こえる」

 座り込んで、こちらから通話を繋げたのは、ふと聞きたくなったからだ。いつでも楽しそうにしているすずめちゃんの声を。

「今屋上にいるよ。気が済んだらおいで」
「今から行く! すぐそばの階段だよね」
「その前に教えて。今何を見てたの」

 がたがたと騒がしいのは、急いで立ち上がったからだろう。走らなくても何分もかからないというのに。せっかちさがおかしくて、唇が笑みの形に綻ぶのを感じた。

「今? えっとね、窓の外を見てたよ。空が綺麗だなって」
「それと、今何を考えてたの」
「何だかぼくみたい。今日のキョーヤは知りたいことがいっぱいだね」

 くすくすと笑うのが、ざらざらとしたノイズ混じりになる。音質はよくないが、その表情まで鮮明に届いた。

「嬉しいなぁって思ってたんだよ」
「何かあったのかい」
「今日は、キョーヤと哲さんと電話できて楽しくて」

 あとね、と継ぐことばが弾む。きっとこちらへ歩いてくる足取りと同じなのだろう。すずめちゃんの歩みはいつでも踊るように軽やかだ。

「京子ちゃんたちに名前をもらってから、いろんなひとがぼくのこと呼んでくれるんだよ。ぼくはぼくが誰かわからないのに、すごいと思うんだ」
「……その答えはもう出てる。君はすずめちゃんだよ」
「うん、そうだね。キョーヤに名前呼んでもらうの、ぼく大好き」

 青空に一筋、飛行機雲が横切っていく。遠い場所のことだというのに、遮るものがないここでは距離感が掴めなくなる。こうして手を伸ばしたら届くのではないかと錯覚しそうになるほど。

「キョーヤ、ぼくにここにいていいって言ってくれたよね。すっごく嬉かったんだよ」
「……そう」
「うん。そういうこと、たくさん考えてたの」

 自分は雲雀恭弥だ。断言できる。できて当然。その当然を、すずめちゃんは持っていなかった。それを手に入れた今、すずめちゃんはこの通り幸せそうに話している。

 片方の気まぐれから生まれた関係だとしても、その柔らかな声色は得難いものだと思った。

 もっと聞いていたいと。

「はじめから話してよ」
「え?」

 ちょうど屋上へ追いついたすずめちゃんへ要求しても、やはりぽかんとするばかり。何のこと、と聞き返しながら隣へ腰を下ろすのを、仰向けに寝転がりながら見上げた。

「君が嬉しいって思ったこと。また聞かせて」
「うん。たくさんあるんだよ」

 にっこりと頷くその続きを、瞼を閉じて受け取った。すずめちゃんはそばにいる。手を伸ばせば届くところにいる。見つめていなくても逃げていったりしないのだから。