夕方のこの時間、早く帰らないとモンスターが怖いな。歩き疲れて、ついでに戦い疲れた頭でぼうっと考えていると、背後で休んでいたふたりの声が不意に鮮明に届いた。
「ムチャするからそういうことになるんだっての」
「ごめんってば」
「へーへー」
なんてやりとりをしていたのはトニ先輩とレーネ先輩。採取先でばったり出会ったときには、レーネ先輩の方は少し沈んだ顔をして、水辺の手頃な岩に寄りかかっていた。
「大丈夫ですか? あ、わたしリヒュールポットの余りが……」
「あー、いーわよ。トニに運んでもらうから」
「運ぶ?」
そこまで話した先輩は、何となく嬉しそうな表情を輝かせる。さっきのが嘘みたい。離れたところから帰ってきたトニ先輩は、対照的に難しい顔。
「これで何回目だよ」
「おーねーがーい」
返事はない。でも、トニ先輩は……えっ、ほっぺたが赤い。えっ?
「あ、あの」
「ノルン、後ろからついてこいよ。雑魚は任せていいか?」
言いながら、トニ先輩はレーネ先輩のそばに膝をつく。そうして腕を伸べて、
「あ……」
軽々とした、お姫さま抱っこ。先輩たちの様子の意味がわかって、わたしの頬もほんの少し、熱くなる。
***
その日から、お菓子が喉を通らない。あんなに好きだったチョコもクッキーも例外なく。それはロクシスに、目玉が生えてるような意味不明なものを食べるなって怒られてたやつ。
そう告げると、ロクシスは「いい傾向だ」と喜ぶ……ことはなかった。驚愕に声を震わせて、ほとんど背後の本棚に追いつめるようにわたしに迫ってくる。
「なぜだノルン、何があった?」
「えっ」
「体調が悪いのか? なら寮で休んでいろ……いや、何か悩みがあるのか? 旧校舎の不良が絡んできたのか?」
「えっ」
大きな手に肩を掴まれて、矢継ぎ早に聞かれて……少し高いところから降る真剣な視線に射抜かれたようになっちゃう。
「あの……」
いつの間にかアトリエの隅っこに避難していたニケに、目だけで「助けてください」と訴えてみる。
結果、「ファイト!」と、無言かつ満面の笑みがガッツポーズとともに返ってくる。酷い。ファイトできる状況じゃないのに。
「おいノルン、聞いているのか」
「……」
観念するしかない。
「ロクシス、誰にも言わないって約束してくれますか……?」
少し声を落としてたずねる。一瞬口を閉じるロクシス――そこから遠く、階下の釜の付近ではニケが目を輝かせてわたしたちを見守っている。あの様子だと、もう察してるのかもしれない。わたしがお菓子を食べられなくなった理由。
「あぁ。約束する」
「えぇと……」
思わずきょろきょろと周りを見回す。壁に耳あり障子に目あり。とくにパメラの。うん、オールグリーン。大丈夫。
「ないしょですよ」
「わかった」
真摯に頷くのを確かめてから、ちょっと背伸びして、ロクシスの耳元に唇を寄せた。
「な」
ロクシスの肩が微かに跳ねる。彼が動揺してる隙に(わたしだってどきどきしてるけど)、一気に言い切った。だってほんとは知られたくなかったことだから。
「わたし、お姫さま抱っこに憧れてるんです」
「……」
「いつか……が来るかはわかりませんけど、もし、もしも……そんなときが来ても平気でいたいんです」
「……」
酷く曖昧な願いごと。でもあの日、見ちゃったんだから仕方ない。あの先輩たちの姿は、紛れもなく素敵だった。
勝手な憧れ。
わたしが、もしも、もしかして、天地がひっくり返って、ロクシスにお姫さま抱っこしてもらえたら……そんなことを思いついたとたん、お菓子に伸びる手は引っ込めるしかなかった。お姫さまになるには、抱き上げてもらえるような華奢な女の子にならなくちゃ、って。
でも、ロクシスはそんなことを知る由もない。「心配させるな」なんて怒られても文句は言えない。実際、とっても心配してくれていたんだから……。
ロクシスは黙っている。その反応が予想通りすぎて、逆に顔が見られない。背伸びのままじっとタイミングをうかがっていたせいで爪先が痙攣する。痺れる痺れる。
「ノルン」
「ひゃいっ?」
そんなときに唐突に呼ばれて、うっかり噛んじゃう。よろけたわたしの背中を抱きとめてくれたロクシスは、そのまま胸元にぎゅ、とわたしを抱え込むようにする。
「え」
きゅう、と胸が痛んだ気がした。優しい腕に包まれたせいで、ロクシスの案外高い体温とか、案外速い鼓動とか、そんなものがわたしに溶けていくようで。
「事情はわかった。私も腕を磨こう」
「……?」
「君をしっかり抱き上げられるように」
――不意に、耳元に囁かれるようなことば。思わず息を呑むと、わたしをずうっと抱きしめていたロクシスはゆっくりと腕を解いた。
「この件は内密だ。誰にも言わないでくれ」
「……」
「……ないしょ、だ」
眼鏡ごしの視線がそらされたのを合図にしたように、わたしはこくこくと頷いていた。
声が出ない。だってあんまりびっくりして。好きな男の子に抱きしめられたと思ったら、わたしを抱っこしてくれるって言ってもらえて。
夢だったらどうしよう。いや夢かもしれない。ほら今だって、ニケが鼻歌交じりにお赤飯を炊き始めてる。なんて不条理。
「なぜ赤飯なんだ?」
「ふたりの門出を祝してるのよ」
「私たちがいつ祝われるようなことをした」
「だーって、いきなりアンタがノルンを抱きしめて『愛してるノルン、君を一生離さない』だなんて言うからー」
「捏造を止めろぉ!」
ニケの言いたい放題に、ほとんど発狂しかけたロクシスが振り向いて釜めがけて飛び降りようとする。放っておけばアトリエはおろか学園中に捏造が広まるのだから当然の反応だった。
でも、今はニケに感謝するばかり。あのままロクシスの目の前にいたら、緊張と嬉しさで卒倒してたかもしれないから。愉快そうに揺れる尻尾と、それを追うロクシスの足音をないまぜに眺めながら、わたしはいつからか止めていた息をゆっくり、ゆっくり吐き出した。
このとき確かに、天地がひっくり返った。
