ポーチから口紅を取り出した手を捕まえたことがある。簡単にねじ伏せられる華奢なそれは、しかし危惧した動きをなぞることはなかった。呆気にとられた彼女は、すぐに意味を察すると頷いて笑うのみで。
「キスオブデス?」
「少しだけ疑ったよ」
解放されるとすぐ、鏡へ向き直って蓋を開け始める。そこには、銃に近づくことさえ怖がっていた女の子の面影は欠片もなかった。
***
部屋に上がると、彼女はベッドに横になっていた。後ろ手に鍵を閉める微かな金属の軋みにも反応しないほど、深く眠っているらしい。
その手前の机に、薔薇の花束が放置されているのを見る。以前僕が同じような花束を贈ったときには急いで花瓶を引っ張り出してきたのに。
何の気なしにそれを手に取り――理解した。異様な重み。元に戻して覗き込むと、やはり真っ黒な小箱が茎を押しやるように詰め込まれていた。既に爆発物は処理され、その名残か本棚の足元に工具箱が放置されている。
危険物のすぐそばでこうまで熟睡できるのは、決して慣れではない。彼女がとうに諦めているからだ。報復の手が迫るのも、自ら死地に赴くのも。少しずつおかしくなる感覚を、彼女は自覚できていない。
でなければ、こうして泣きながら寝入るわけがなかった。
「苦しい、悲しい、痛い、怖い……全部かな」
ベッドの大きな余白に腰を下ろして、彼女の頬を指先で拭う。
こんな世界に彼女を引きずり込んだ張本人はここにいる。手の届くところにいてほしい、知らないところで傷ついてほしくないと、そんな浅はかな本音を事務的なもの言いで隠して。
その僕はといえば、それが最善とあらば大切な彼女を撃てるし、見捨てられる。軍人だからだ。私情に流される者は命を落とすし、その前例はいくらでもあると割り切っている――そのはずだった。
そんな非情を気取った考えこそが甘さだと、目の前の寝顔に思い知らされる。こんな顔をさせたくない、いつも笑っていてほしい。失いたくない。けれど、悲しませた挙げ句失ってしまうかもしれない。そんな状況を作り出したのは僕だ。明らかに矛盾して、倒錯している。
――それでも、それが嬉しい。
「おめでとう」
彼女が、僕と同じ場所で静かに歪んでいくことが嬉しかった。
それが聞こえたのか、はたまた伝わったのか。彼女の濡れた唇に触れた瞬間に、真珠のような色の歯が軽く立てられた。
「仔犬の甘噛みだ」
「……いいえ。可哀想にお腹を空かせてる、あなたの手下ですよ」
「機嫌が悪いのはそのせいか」
「寝顔を見られたからです」
彼女が寝ぼけ顔のまま跳ね起きると、近くで向き合う形になる。ひとの目を真っ直ぐ見るのはいつも通りだ。そんなことをするから、気づかなくていいことに気づいてしまうのに。
「……アラウディ? 何を、考えてたんです」
「君のことがとても大事だ、と。真っ当ではない方向でもね」
あながち嘘ではないことを、彼女は見抜いているだろう。生返事をしつつもそれ以上の追及はなかった。上官を、恋人を当たり前に信じるが故の盲目じみた反応。
「……あとひとつ。何がおめでとうなんです」
「聞こえていたの」
「何となく」
言う気にはならなかった。僕と同じになってしまうのを祝っていたことは。聡い彼女相手には事実でごまかすしかない。
「角の店。今から行ったらティータイムの枠だと思ったんだよ」
「……ガトーショコラとダージリン」
「店長に言うことだ」
「すぐ支度します!」
彼女は喜色満面、部屋の奥へ引っ込んでいく。切り替えの早さはまるで小さな子のようだ。僕に手を引かれるままもう引き返せないところへついて来てしまった、可哀想な子ども。
「口紅や武器より、スプーンやフォークが似合う手なのにね」
フォークにはナイフでしょう、笑い混じりのそんな声が遠い。
涙が伝っていた唇が、せめて今日は大好きなクリームで彩られるように。誰にともなく祈りながら、陽の光が差す窓のカーテンを閉じた。
