ずっと昔、家の電話口がとんでもない音量だったことを思い出す。確か友だちが駅から携帯電話で連絡を取ってきた日のことだった。こちらの設定がよくなかったところに、あの子のはきはきとした声、さらに通過していく特急電車の車輪が酷く振動する地獄のような三重苦。
耳から頭へ、鋭い針が駆け抜けたような衝撃。そこへじわりと残り続ける鈍痛。未だに短くも苦い思い出として刻まれている。
――わたしたちが本当に気楽になれるのは何年も後の話なのかもしれない。
今、あの瞬間の何十倍ものダメージがキョーヤに飛んできたに違いなかった。
「……大丈夫だよ」
硬くなる表情は、内側を蝕むもののせいだろうか。あの日と同じようにわたしの上に覆いかぶさっているのに纏う雰囲気は全く違う。頬から血の気が失われていかないように、両手を伸ばした。包んで、温めて、この気持ちが届くように。
今度はわたしの番だ。怖い、怖いとしか言えなかったわたしを守ってくれたキョーヤを守る番。このままゾーンに落ちることだけは止めてみせる。二度と戻ってこられない場所へ落ちてしまうことは。
「キョーヤは大丈夫。すぐよくなるよ。呼吸を止めないで……」
乱れる息は浅い。到底十分ではないのだとここにいるだけでわかる。
視線だけが、キョーヤの意識の実在を証明していた。
「わたしの声だけ聞いて。ほかのことなんて考えないで。キョーヤ……」
「……みどり」
喉奥から搾り取るような涸れた声が落ちる。
「みどり」
そうっと、唇に唇が触れた。余裕のない吐息が、ずっと後から掠れて消えていく。
「足りない。君が……みどり、手を」
繋がれた右手が、いっそ焦りさえ覚えるほど優しく握り込まれる。キョーヤはわたしのしてほしいことを忘れないでいてくれた。
この状況で。
「……キョーヤ、いいんだよ」
ここにはあの子がいない。わたしとキョーヤの間には何も。だから何を介すこともなく、繋がれたところから直接流れ込んでくる。
それは虚無だった。自分が欠けていく感覚と、キョーヤがいつか形容していたもの。
自分が立っている場所が抜け落ちて永遠に沈んでいくような深い虚ろ。ゾーンに落ちることは、文字通りそこから帰ってこられなくなることと同じだった。
怖いもの。
そこからキョーヤを引き離せるなら、何だってできる。そんな、思い上がりもいいところの全能感があった。
そして同時に、それが本当にただの思い上がりだと、ガイドゆえの思い込みだとわかっている。きっと、キョーヤも。
「わたしなら、どれだけでもあげるよ。キョーヤが苦しくなくなるまで、いっぱいあげるのに」
「……みどり。気でも触れたのかい」
キョーヤが少しだけ怒ったように眉を寄せる理由がわかる。わたしのことを本当に、本当に大切にしてくれる手が、唇が、そんなことをできるはずがないから。いざそうなったとき、わたしが耐えられるはずがないことをわかっているから。
「でもね、本気なんだよ。だって、わたしにはわからない……」
触れるだけのキスで、ことばが塞がれる。
「黙って」
ガイディングそのものを拒絶しかねない、鋭さで。
「その通りだ。君にゾーンが理解できるわけがない。一生わからなくていい、こんなことは」
「キョーヤ」
辛うじて体を支えていた肘が一瞬だけ崩れ、額が触れそうなほどに近くなる。左手でそうっと黒髪を撫でるのは、痛みではない辛さをなんとか和らげたかったから。
見開かれた目が、いっとき耐えることを止めた透明な感情を見せた。
「……足りない」
――もっと痛くて、食べられそうになるほどのキスをされるのかと思った。それなのにわたしに突き立てられたのは、そうして性急に入ってきたのは柔らかな熱。
努めて静けさを保つ目が、わたしを見ていた。
「……ん……っ」
「……みどり……」
舌が絡められる、濡れた音がする。呼吸の仕方を忘れそうになるのはわたしの方だった。頭がぽうっと、ふわふわに熱されるのを止めたくて冷たい空気を求めても、ゆっくり侵入する熱が許さない。
少しだけ苦しい。けれどこのくらいなら耐えられる。キョーヤに比べたら、こんなことは。
身じろいだわたしを抑えようとしたのか、キョーヤの左手がお腹に触れた。
繋いだ手を解いて。
「逃げるな。みどり、まだ……」
――張りつめた糸が切れるようにあっさりと、何かがへし折れるのがわかった。
わたしたちの輪郭がひとつ、分かたれて。
「……やだ……キョーヤ、やだ、離しちゃ嫌だよ……」
時折ことばを飲み込まれながら、それでも言わずにはいられない。
優しいキスではだめだった。優しくお腹を撫でる仕草でも。
手を握っていてくれなければ。
そうでなくては、わたしの中には自分の苦しさしかなくなる。キョーヤの苦しさも、わたしが引き受けなくてはいけないのに。
左手はいつしか、そのしっかりとした背中にしがみつくためのものに成り下がって。
半ばパニックになる頭でも、体の表面のことは把握できてしまう。ブラウスのボタンを外して、インナーの下に入り込んで、素肌を伝っていく手のひらが酷く熱いことは。あの痕をなぞる指が、いつまでたっても止めてくれないことは。
「お腹、熱い……熱い、キョーヤ……」
ここにはあの子がいない。わたしとキョーヤの間には何も。
こんなに触れられているのに。キョーヤは自分自身を差し置いてわたしを傷つけないようにしてくれるのに。
わたしの右手は空になっている。
再び差し伸べることは、できない。
そんなことをしないようにシーツを固く握りしめた。なるべく、キョーヤの視界の外になるように。
「みどり」
キョーヤを助けると決めたはずの人間の名前。
それは苦さを抑え込んでわずかに歪みながらも、大事なものに向ける笑顔で呼ばれた。
「君は、僕のみどり。そうでしょ」
ここにいるのはガイドのみどりではない、雲雀恭弥のみどりだと。
「……うん」
――ここで安心していいのは、安心するべきなのはキョーヤなのに。
「……ごめんね……」
熱い唇が頬に、喉に、胸骨に、お腹に降りていくのを感じながら、ひとつだけこぼれる涙を止められなかった。
キョーヤの両手は、どちらもキョーヤのものだ。それも、今はキョーヤを助けるための状況で。
弱虫のわたしが駄々をこねて繋いでいいものではない。
