方舟より

 大波小波、と楽しく歌える状況ではなかった。座ってもいられないほどの揺れに、体は客船の壁から壁へと振り回される。真っ暗な空からは刺すように鋭い雨が降り注ぎ、ダメ押しに凍てつくほどの暴風がひっきりなしに吹きつけていた。

 まともに呼吸もできない。

 ほとんど、溺れているかのよう。

「……どこ……?」

 あてなく呼びかけても、何度目を凝らしてもあの姿はどこにもない。

 こんなに怖くて、どうしようもなくて、体もろとも心がばらばらになってしまいそうなことがわたしに降りかかるはずがないのだ。わたしには、絶対に助けに来てくれるし、絶対に守ってくれるひとがいるから。

 同時に、わたしがそうすると決めているひとが。

 そうしているうちに船体は真っ二つに裂け、すがる先がない手は空を掻いて、あの名前を呼ぶこともできないまま荒波の中にあっけなく放り出され。

 ――なんて、袋小路にもほどがある夢から覚めた。

「……冷たい」

 思わずひとりごとがこぼれるほどには、この館は相変わらずひんやりとしている。それが海を連想させたのかもしれない。心臓は、手を当てて確かめる必要がないほどうるさく鳴って落ち着きそうになかった。

 キョーヤは平気だろうか。わたしのいないところでわたしを探し回って、そのまま海に落ちていないか心配になる――そう、ふたりで同じ夢を見ていたという奇妙な確信があった。けれどキョーヤはわたしよりずっと強いから、飛び起きるなんてことにはなっていない気もする。

 四つある個室のうち、合宿の間は調べ終わった二部屋を寝泊まりに使うことにしていた。キョーヤはひとつ隣、いちばん奥の部屋にいる。

 だからすぐに訪ねることができた。

「起きてる……?」
「眠れないのかい」

 ノックより早く返ったことばに驚いている隙に、その扉は開かれた。ラフな部屋着の胸ポケットに文庫本が収まっている出で立ちからするに、夜ふかしするうちにいつの間にか寝入っていたのかもしれない。いつも通りなスタイルに安心して、気づけば肩の力がすっと抜けていた。

「えっとね、今日。今夜だけ、いっしょに寝てもいいかな……」

 直後、わたしの手を引いてくれるのが答えだった。ほのかな星明りのような笑みは、この暗がりの中で灯る照明よりも温かく迎えてくれる。

「みどりとこうするのは初めてじゃないでしょ。いつでも来たらいいのに」
「ありがと」
「酷い夢を?」

 断定に近い問いかけに頷きながら、後ろ手に扉を閉めた。

 蝶番の軋みは、揺さぶられた船の悲鳴に似ている。

「……キョーヤがいなかったの。だから怖かった」
「そう。だったら、これからはそんなことは起こらない」

 襟からわずかに覗く痕を指でなぞりつつ、キョーヤはベッドへ上げてくれた。

「みどり」

 言い含めるような、口調。二段ベッドの上にいるのだからと三角座りになるわたしを止めて、寝かせて、キョーヤはすぐ隣へ横になってくれる。

「ここでは、君はひとりではいられないんだね」
「どうして……?」
「普通とは違う場所だから。それを敏感に感じ取ってしまう」

 橙の光は目に柔らかく、その下にいるキョーヤの頬を穏やかに照らしている。何度も、何度も緩やかに髪を撫でられるわたしはそこへ指を伸ばそうとして咎められた。長くて綺麗な指が絡められて、そうっと手を繋がれて。

「今のみどりには新しい夢を見る役目が残ってる」
「はぁい。キョーヤがいてくれるから、きっといい夢だよね……」

 大好きな手を両手で包むと、体温をより感じられる。そんな行動も何もかも見守ってくれる視線を前に瞼を閉じるのがもったいなく思うのすら、キョーヤは許してくれない。

「ずうっと、こうしててね。あ、キョーヤもわたしの夢に来てね。ふたりで楽しい夢を見るんだから」
「欲張り」
「お願いー」
「善処するよ」

 これ以上ないほど優しく抱きしめられながら、きっとここは世界でいちばんよく眠れる場所なんだと思い至った。こんなに温かくて、大好きな腕に包まれているのだから。

 形のない、心音が響いて。

 ――よく晴れた砂浜で聞く、遠く静かな波の音が聞こえた気がした。

 ***

 わたしは去年のものから。キョーヤはいちばん古いものから。こんな分担で生徒の名簿を調べ終えるまでに三日が経った。吹奏楽部の合奏と蝉の声を除けば、極端にひとの数が少ない校舎は静かで集中するにはうってつけだった。とくにキョーヤにとっては。

 ひとり目の平野臣は、比較的創立に近い七十年代に在籍していたからすぐに見つかった。そこから数年ごとに、ノートに名前のあった彼らが全員登場している。全員、並盛中の生徒だったということはわかった。しかしこれといった特記事項はない。

 納得はできる。自分たちに起こった異変を、誰にも理解されないものだと――それどころか拒絶されるものだと考えていたなら。歳の離れた教師たち大人に対してはなおさらだ。

 きっと、本人たちだけの秘密だったのだろう。キョーヤにとっては、自分とわたしだけの。

「これ以上、有用な情報はないだろうね」

 そう結論づけたキョーヤは同時に「気になることがある」と、色褪せた名簿を開いて見せてくれた。指先が一点を示す。

「ここ。ひとり目の平野臣と同級生の男子が六月に転入して、三ヶ月でもといた学校に戻っていってる」
「ずいぶん急だね? 家族のお仕事の関係かな……」
「そうかもしれない。けれどまず、彼をどう思う」

 一年生の項目、平野臣と同じクラスの欄の一番上にその名前はあった。

 大江七緒。

「おおえななお……」
「みどりが当たっていた方の名簿にこういった名字の生徒はいたかい」
「ううん、いなかったはず。このひとのこと気になるの?」
「彼自身というより、その行き先に」

 特記の項目には、転校先の所在地が書かれている。

 この季節にはよくテレビ番組で特集が組まれるような、海辺の綺麗な町の名前がそこにはあった。

 ***

 キョーヤが鹿鳴館で聞くという波の音。平野臣の同級生が去っていった、海が見える町。

 ただの偶然だと考える方が自然だった。けれど、今のところ点と線が繋がっている唯一の手がかりでもあるから手放しがたい。

 ノートの表紙に貼り直した大きな付箋には、センチネルだと思われる彼らの名前を並べてある。そのいちばん上に大江七緒の名前を書き足し、ひたすら眺めても答えは出なかった。ロフトベッドのはしごを降りてきたキョーヤは床に座り込んだわたしのそばへ膝をつく。

 この三つ目の個室でも、芳しい成果は見出せずにいた。

「名前が気になるの」
「うん。もしセンチネルが遺伝するんだとしたら、このひとたちは親戚同士なのかもって……」

 答えながら、それはありえないと考えてもいた。名字や住所、進路に法則性が掴めないからだ。委員会も部活も、何もかも。

 ここがはっきりしたら、キョーヤがセンチネルになった要因が掴めるかもしれない。

 あんなにも、前触れなく訪れたできごとのことを。

「……キョーヤは、嫌だった? センチネルになったこと」
「不便極まりないよ」

 唐突なことを投げかけたわたしへの答えに揺るぎはない。しばし交差した視線にも。

「でも、悪いことばかりでもない。僕の対が君なら、君だったから」

 ほとんど不意打ちのキスは、悪戯に頬へ触れてすぐに離れていく。

「もう」
「それに、これまで以上にきみがくっついて回るようになった。役得と言うのかもね」
「キョーヤってポジティブ」
「みどりも」
「そうかも?」

 笑ってがら空きの胸にもたれかかったのは、キョーヤが抱き返してくれるとわかっていたから。こうして触れることがキョーヤの安定に繋がるから――なんて大義名分は後回しだ。ここまでの難題を前にしたなら、少し気楽なくらいがちょうどいいのかもしれない。

 本当はキョーヤだって同じくらいわたしを離したがらないのだけど、これは言わぬが花。

 気を抜けば眠気すら感じる穏やかな鼓動に身を任せてしばらくのんびりしていると、ふと抱きしめる腕が硬直した。

 わたしには気づけない何かに対して。

「……キョーヤ……?」

 明らかに、空気が張り詰めていく。その理由がわからなくて、ただ目の前に広がる光景を眺めるしかなかった。

 ここは、三つめの個室だ。その事実に変わりはない。

 胸の中でキョーヤを見上げると、すでにその注意は部屋の外へ向けられつつあった。

「……みどりにも聞こえたかい。いつもより大きく響いてきた」
「……何も、海の音も聞こえない……でも、何か違うのはわかるよ」

 声を落とす。キョーヤはわたしを放すとゆっくり立ち上がり、足音を潜めて隣の四つめの個室へ慎重に歩いていった。ここで話しかけるのは集中を乱しかねない。

 念の為に靴も脱いで後を追うと、キョーヤは部屋の真ん中で天井を仰いでいた。そこには、今までの部屋にあったはずのロフトベッドのはしごが立っていない。代わりに火かき棒のような細い金属が床に転がされ、壁に貼りつけるようにして普通のベッドが置かれている。

 背の低い棚の上には固定電話。壁にかけられたカレンダー。ここにだけ、他とは違う雰囲気があった。

 異質なものへの戸惑い。思わず入口で立ち止まるわたしに気づいたキョーヤは、静かに頷くと手を差し伸べてくれた。その助けがあってようやくそばに踏み込める。

 それにしても、天井に何があるんだろう。ならって同じように見上げた。

 その瞬間に、来た。

「わ……?」

 ざらりとした砂の感覚の後、尾を引く高い金属音。学校の放送設備に電源が入るのに似た耳障りなノイズ。

 それが大音量で鼓膜を突き刺した。

 思わず両手で耳を塞ぎ、そうして気づく。

 この静寂で、加えて耳を澄ませていて、わたしよりずっとずっと聞こえのいい人間がいる。

 ワイシャツの長身が倒れていくのを、わたしの両手だけで支えることはできなかった。

「……みどり」

 背中から倒れ込んだにしては、やけに軽い衝撃が走る。

 キョーヤはわたしを真上から見つめていた。微かな動揺の滲む、午後の影を纏った瞳。