平野臣。
木島美冬。
村田佑真。
西園茉奈。
紘永名雪。
ほぼ等間隔に頁が破られたノートの中に確認できたのは五人の名前だった。ひとりでひとつの頁を独占して、まるで声を大にして自分の存在を主張するように紙面いっぱいに。ひとりめの彼が記したようなメッセージを入れる隙間もないほどだ。
鉛筆で。薄墨で。水色のチョークで強引に。思い思いの手段が広がるのは見開きの左側。
右側は、決まって破り取られている。その理由はわからない。
***
「ひらのおみ、きじまみふゆ、むらたゆうま、にしぞのまな、ひろながなゆき……」
「諳んじられるの」
「何回も読んだから」
目を覚ませば、ソファーにいるのはわたしだけだった。答えながらゆっくり体を起こすと、キョーヤは窓辺にいる。
もしかしたら星が瞬く音も、その耳に届いているのかもしれない。
「熱い……」
「だろうね。顔が赤い」
お互い、冷房が効いたこの部屋の話はしていなかった。立ち上がれないままぼんやりとするわたしの隣へ、キョーヤはそっと腰を下ろす。額に触れる手は相変わらず冷たいけれど、それが心地よかった。何より、危なげない動作に安心する。
「キョーヤ、もう苦しくない?」
「何ともない。負担が残ってるのはみどりの方でしょ」
「そんなのないよ」
「嘘つき。体が辛いはずだ」
ふっと笑って指摘される通り。抱きしめてくれる腕から抜け出せないくらい、体に力が入らなかった。それでもガイディングを負担だと思っていないのは本当だ。キョーヤの苦しい時間を少しでも引き受けられたのだから。それに、いつもよりたくさん甘えられる。
「キョーヤがぎゅーってしてくれるからすぐ治るよ」
「そのようだね」
キョーヤは余裕でわたしを腕の中に閉じ込めてしまえる。こうして頬を寄せてくれるのが、優しく背に触れてくれるのが大好きだ。くすぐったくて、どきどきして、止められなくなる緩みっぱなしの笑顔を隠したくてワイシャツの胸に額を埋めた。
この季節にもくっついていられるのだから、エアコンに感謝といったところ。あまり新しくない機械は微かに歪んだ音を立てて、それを聞いたキョーヤはふっと思い出したようにつぶやいた。
「……もう少ししたら、学校に業者が入る。老朽化した設備を交換するそうだよ」
「そのエアコンとか?」
「うん。あとはプールの水道周りだったかな」
「そっか、よかった」
「何のことだい」
「鹿鳴館のこと。あのね」
本当に、あの場所はわたしたち以外には認識されていないらしい。それは好都合だった。
明後日からは夏休み。
ちょうどいい提案がある。
「部活じゃなくて、委員会で合宿はできないかな?」
***
「君は委員でも部員でもない。だから僕が常についておかないとね」
監督人の欄に堂々と「雲雀恭弥」と記名した申請用紙は名目上のものだという。どの先生にも提出することなく折りたたまれて帳簿のファイルに収まったのを見届けて――夏休み開始早々の合宿は幕を開けた。目的は鹿鳴館の調査、宿泊場所も同じく。
そして、わたしたちはまたこの場所に立っている。
「どうして急に」
「ずっとここにいられたら、キョーヤが落ち着けるんじゃないかなって」
「そういうこと」
少しだけ声が落とされ、キョーヤの視線は遠くを、階段を上がった先を見つめた。まだ調べていないふたつの個室は、扉を開けたままにしてある。
そこまでの間に横たわる空気に、あの海の音は響いているのだろうか。
「思いつかなかったよ。ここに泊まり込めばいいだなんて」
「それに、ここからなら校舎の資料室も近いしね」
あのノートに書かれていた人名をまとめてあたるには並盛中の過去の在籍者を調べるべきだ。名簿の場所はキョーヤが知っているから、そちらの調査も進められる。
「……どうして僕がセンチネルになったのか、元には戻らないのか、ここは何なのか。全てはっきりさせないとね。とりあえず」
「? なぁに?」
談話室の窓を開けながら、キョーヤは「ちゃんとわかってるのかい」と確かめてくる。
「ここには僕と君しかいないよ」
「もちろんわかってるよ。お泊まりだなんて久しぶり、わくわくしちゃう」
胸を張って答えるのを、キョーヤは笑って見ていた。
――その意味がほんの少しだけ理解できたのは夜も遅くになってから。
損壊も汚れもない分掃除も簡単だった浴室の前、木の香りが気持ちいい脱衣室のど真ん中に立ち尽くしてあのことばを思い返していた。気分よく小声で歌っていられたのはここまでで。
もしかしたら、これはとても、存分に、かなり、大変な事態なのかもしれない。何が、という具体的なものはひとつとして出てこないけれど――夕食後の回らない頭でのろのろとブラウスを脱ごうとして停滞が一気に吹き飛んだ。
大きな鏡の前でしばし思考は停止して。
「……まだ、ある……」
ボタンを全ては外さないままのブラウスの裾を引っ張って、少しだけ覗いたお腹を隠す。
おへその横には「うっかり引っかいてしまった傷」とはとても言えない、小さくてもはっきりとした赤い痕が浮かび上がっている。水仙のような、緩く開いた花の形。
あの日から、キョーヤとボンディングした日から一向に消える気配がない。
「どうしよう……」
「どうもしないよ」
「ひえっ」
擦りガラスの向こうにいつの間にか人影が立ちはだかっている。まだ脱いでいなくて本当によかった。わたしの返事の後に脱衣室に入ってきたキョーヤの表情は、わたしが何のことを口にしたのかをわかっているようだった。視線の先はどうしたってわかってしまう。
「痛むのかい」
「ううん、大丈夫。キョーヤは知ってたの? ボンディングの後はこうなるって」
「いや、知らなかったよ。痛まないならいい……そこなら、服で隠れるでしょ」
そうっとブラウス越しに触れられて、そのときになってやっと気づいた。わたしを見下ろすキョーヤの鎖骨のあたりにも、同じような痕がある。
「……わたしは何でお腹なんだろう……」
「僕がたくさん、したからかもね」
意図的にぼかされたことばに、一気に頬に熱が集まった。この笑顔で、キョーヤはわたしのお腹にキスをしてくれたんだっけ。ほとんど意識がなかったわけだから断言はできないけれど。
「君の方はいっぱいいっぱいだったから、ここだけにしかできなかった。これからに期待だ」
「あんまり、触っちゃやだ……」
「どうして。みどりのお腹は好きだよ。柔らかくてほどほどに筋肉がついてる」
「くすぐったいよー」
くるくると撫で回されると、わき腹をくすぐられるのとそう変わらない。ぞわぞわとした感覚に思わず大きく笑ってしまうのを、キョーヤも微笑んで見つめる。
きっとあの日もずっと、こうやって優しい目でわたしのことを見ていてくれたはずだ。最後まで綿を扱うような、穏やかな指で触れてくれたのを心のどこかで覚えている。
「ね、キョーヤ。手、繋いでてほしいの」
「うん」
こつり、と、額同士がかち合った。伏せられたまつ毛が近くなると、微かな呼吸の音もよく聞こえる。
「君はいつも甘えたがりだ。可愛い」
「キョーヤとくっついてるの好きなんだもん」
「知ってるよ。とてもね」
大きな片手が、手を取ってくれる。手の甲まで包む長い指がはっきりと感じられて、胸が高鳴った気がした。苦しくなりそうな心拍数が聞かれそうで少しだけ恥ずかしい。キョーヤなら、それだけでわたしの全てを読み取ることくらい簡単だろうから。
「ところで」
ふと、黒々と綺麗な目が開かれる。
「脱がないのかい」
「キョーヤが出てってくれないと……」
「やだ。ここで見てるよ」
「ばかばか」
背伸びで額を押し返すのを、喉の奥で笑いながら受け止められてほんの少し悔しい。長い間お腹をくすぐられて力が入らなかったことにしておこうと思う。
