図書室には、なんとか庁から配られたパンフレットが数部置いてある。
「センチネルとガイドについて」
当時はニュースで大々的に報じられた直後だというのに、周知活動が下火になっていた時期もある。ほとんどが他人事だと思っていたから。けれどこの裏面に書いてある文言どおりの事態がそんな認識を覆した。
「発現は後天性のケースも認められています」
宝くじで特等を当てるような天文学的確率よりも、現実味のある数値とともに。
センチネルは、ガイドと精神的につながり心身を安定させるためにボンディングをする。ここまで説明されてはいても、そのボンディングが具体的に何をすることなのかは書かれていなかった。A4の裏表に必須事項を載せるには、省かざるを得なかったのかもしれない。
***
「いつからなのか、はっきりとしたきっかけに心当たりはない。センチネルが常に不安定であるとは限らないからね」
平野臣。この、誰を示すのかわからない名前が書かれたノートを見つけた部屋を再び訪れたのは数日後のこと。キョーヤは隣の部屋を覗き込むと先に踏み込み、わたしを手招いた。その手にノートを携えて。
「あのフェンスの裂け目にも最近まで気づかなかった。あの日突然、目に入ったんだ。やけに蝉が耳障りで、どこからか海の音がやってきた日」
窓を開け放つと、優しい風が流れ込んでくる。夏とはいえここには木陰の涼しさが満ちている。そしてきっと、わたしには聞こえない音も。
「海の音って、波のことでしょ? どんな風に聞こえるの」
「はっきりしてるわけじゃない。砂浜から離れたところに届くような、微かな大きさだよ」
机に寄りかかってぱらぱらと頁を開いていく指を眺めながら、そっと窓の外へ視線を向ける。
その光景が目に浮かぶようだった。キョーヤは人混みが嫌いで、積極的に海に入ることもないだろう。だとしたら、小高い場所を陣取って水平線を見渡すこともあるのかもしれない。誰にも邪魔されない、静かな時間。
「わたしも行きたい」
ふと、思ったことがそのまま喉からこぼれていた。返ってくる呆れたような視線は、見た目と同じ感情を乗せてはいない。
「わかった。約束だよ」
「うん。約束」
おうむ返ししたことばには、この状況を解決するという課題が立ちはだかっている。その壁を表すように、キョーヤはひとつの見開きをわたしに向けた。
今度は青のクレヨンで、左の一頁を丸々埋め尽くすほどの数文字。
「き、しま、み、ふゆ」
「女生徒だろうね。並中の名簿をたどってみることにしようか」
「年代が絞れると楽になるね。この前の平野臣ってひとも……」
このひとたちのことを調べることが、現状打破につながる決定打になるとは限らない。ただ、手がかりが少なすぎた。彼らの正体も、ここに名前を書き残した意味も、貴重なパズルのピースに等しい。
「……ひとつだけ推測できるのは、彼らもセンチネルだということだ」
「えっ、どうして?」
「校内でここが唯一、心休まる場所だろうからね。僕と同じ力を持っていたなら」
部屋の入り口を振り返ると、キョーヤの黒髪が風に揺れる。
聴覚。
ほかの感覚と同様に、塞ぎようのないものだった。生徒のざわめきはおろか先生の板書の音すら精神を擦り減らしていくことがあったのかもしれない。だとしたら、逃げ込める場所があることがどれほど救いになるだろう。何もわからないまま、もしかしたらガイドのいないまま全身を蝕む苦痛を和らげる、青い音色が響く館。
「……ここにも何もなさそうだ」
ため息交じりのひとことを聞いて、窓をぴったり閉じる。そろそろ風紀委員会の集まりの時間だ。キョーヤはあの日からわたしを校内でひとりきりにしたがらない。
「また今度だね。次はもうひとつ手前の部屋……」
言いかけて、止めた。窓ガラスに映るわたしのすぐ後ろに、いつの間にかキョーヤが立ち尽くしている。眠るようにそっと閉じていた目を、ゆっくり開くことすら子細に確かめられる距離。
「キョーヤ? どこか苦しいの……」
「……それ、頷きたくない質問だね」
言外に肯定しながら、お腹に腕が回される。ほんの少しだけ窓に押しつけられるように体重がかかると、微かな呼吸が聞き取れた。不自由になる両手は、キョーヤの頬に触れたくてもできない。
なぜだか、酷く冷たいのだと思った。
「みどり、苦しいかい」
「ううん、平気。ずっとこうしてていいよ」
「……僕は、君の声だけ聞けたらいい」
後ろでまとめていた髪に、唇が触れる。
「だけど、たまに失敗する。あの音の出どころを探そうと耳を澄ましすぎる」
「キョーヤに悪さするのは、どんな痛みなの」
「痛いわけじゃない、なくなるだけだ。僕が欠ける感覚」
軽く俯いて、キョーヤはわたしをさらに抱き寄せる。
「みどりに触れると、取り戻せる。そんな気がするんだ」
欠ける。その意味をわたしが知ることは難しい。それでも、抱く腕が優しいことが嬉しかった。わたしの要素、そのどれかがキョーヤを癒せているのがわかって。
窓越しに、目が合った。顔を上げた瞬間の少しだけあいまいで、そしてわたしだけを見つめる温かな視線。
「僕が満足するまで。いいでしょ」
耳元に落ちてくる声に、思わずくすりと笑ってしまう。くすぐったかったし、答えは決まり切っていたから。
***
風紀委員会が終わるまで、図書室で宿題を進めるのが習慣になっていた。そんな事情を知る花ちゃんは、今日はここにはいない。
カウンター脇の棚のてっぺんには例のパンフレットが陣取っている。それを眺めながら奥まった席に鞄を置いた。先輩数人が本やノートを広げる以外には、受付の委員しかいない静かな空間。
静かなのは、騒がしいよりもいいことだとわたしも思う。ざわめきの中では、意識がぼんやりするような気がする。まるで音のつぶてがわたしという個を次第にぺしゃんこにして押し流していくようで。
そんなことを考えながら教科書を取り出した。明日教科書でさらう範囲の英単語とその意味をノートに書き取るだけ。単純な半面、面白くはない。子どものころに聞いたABCの歌はあんなに楽しかったのに、勉強とはなんて難しい生きものなんだろう。
長くはない人生の最初の方を思い起こしながら内心肩を落とす。
そんなことに夢中になっていたから聞き逃していた。
「玖珂、だよな?」
――聞き慣れない声で呼ばれる、わたしの苗字だった。同学年の男子ではない。
「少し、いいか」
向かいの椅子が静かに引かれ、彼は重々しく腰かけた。
窓辺から見下ろした、横たわるがっしりとした学生服姿。
わたしの記憶が正しければ、あの日センターに搬送されていったセンチネルの生徒そのひとだった。
