ブドウ糖

 

 ここまでのあらすじ

 妖精のいたずらのせいで寝込んだジャック。お見舞いに来たユウが、果物といっしょに絵本を一冊持ってきた。

 あらすじおわり

 切ってもらったリンゴをほとんど食べ終えるころになっても、ユウはこちらをじっと見つめていた。ベッドの横に持ってきた椅子から動こうとしない。

「もう平気だ、熱も下がり始めてる」

 申告に若干のごまかしを入れたのをうすうす気づいているのだろう。目ざとい。彼女に一枚足された毛布のおかげか本当に寒気は引いたが、昼下がりの今となっては暑い気もする。呼吸のたびに、喉を通っていく空気が相対的に冷えているのを思い知らされた。

「お水、寮に置いてきちゃった。ごめんね」
「まだあるから大丈夫だ……リンゴ、うまかった。ありがとな」

 ほっとして頷くユウの残りの持ちものは、図書室から借りてきたという絵本だけだった。相当急いで来てくれたらしい。鞄から出てきた大判は薄く、彼女の片手でも簡単に持ち上げられる。

「おまじないの絵本なんだって。妖精さんの……魔法? 呪い? をすぐ解く方法もきっとあるよ」

 四隅が剥げ、描かれた動物たちのイラストがうっすら浮かぶ表紙。絵本なら、ここの言語や文化に触れる教材としても適切だろう。

 けれど今の自分ではその半分も読めない気がする。集中するには気力が削られすぎた。なにせ、眠りが訪れるごとに極彩色の花柄が瞼の裏を埋め尽くしていくから。誰彼構わず花を贈りたがる妖精の好意、かつ暴挙。それも、よく冷えたリンゴ五切れで回復が始まりつつある。

 ユウの、意図して抑えた静かな声も。

 同室のひとりと入れ替わるようにしてやってきた姿を見て、最初はベッドから立ってでも追い返すつもりだった。熱に浸りきった全身へ水を注ぐように、涼やかな「ジャック、よく眠れた?」を聞くまでは。

 リンゴも毛布も、ことばも。ユウに手渡されたものは舌の上が甘くなる。休日がつぶれた残念さを中和するほどに。

「昔、むかしの巫女さんは、こんなふうに王様たちを看病していました」

 まだ文字を流せるまでには読解に慣れないユウの、ゆったりとした音。柔らかい曲線をした指にめくられる頁は、久しぶりに開かれるかのようにぱきりと硬く鳴った。

 総じて耳に心地いい。目を閉じて横になっていれば、まともな睡眠に入れる予感がする。手始めに全身から力を抜こうと胸で大きく息を吸った。

「まず服を脱ぎます」

 ***

 少し後にやってきたレオナ先輩は、固まるユウの手からあっさりと絵本を抜き取った。かすれたタイトルに、背表紙に目を通すと小さく頷いてすぐそばの机に放り出す。俺だってそうしたかった。感想はひとつ、なんださっきのは。

「知らねぇのか。古文書の翻訳版だぞ」
「古文書? ジョーク本じゃないのか?」
「原典のほうを読んだことがある。まともな歴史書だ、そっちは子ども向けにされちゃいるが」

 どこがまともで子ども向けなのかは大いに疑問だが、レオナ先輩が知識として頭の片隅に留めているからには事実なのだろう。絵本の出自も、かつて存在した文化も。

 衣服をまとわない巫女が、病人と共寝することでその症状を癒す、などといったまじないも。

「じゃあ……この通りにすれば元気になるのも、ほんとですか?」

 動揺から立ち直ったユウは、気を取り直して絵本を読み直そうと手を伸ばしている。挿絵自体は可愛らしいイラストだ。例の見開きではウサギの親子が寄り添って眠っていた。だからこそタチが悪い。

「効果はともかく、この系統の治療自体は実在する。魔力じゃなく生命力を他人に分け与える形だ」
「それは大丈夫なのか……?」
「どこのご家庭でもできる民間療法。お前の家なら、風邪の日にハチミツを飲まされたことくらいあるだろ。あれと同じだ」

 女性と添い寝することが? と口に出すことすらためらった。なにせ、ユウの手はあれから一頁たりとも進んでいない。

 もうひとつの問題は、そんな彼女をそばで見守るレオナ先輩がどこか楽しげなことで。

「とりあえず三日だな。うちのジャックを頼んだぜ、ユウ」

 すぐに解決したと同時に三倍ほど大きくなって跳ね返ってきた。この状況でユウになにを頼むのかなど決まり切っている。残念なことに彼女もその意味をわかってしまっていた。声がひっくり返るのがその証拠。

「わ、わ、わたし」
「ユウ、まともに受け取るな。レオナ先輩も引っかき回さないでくれ」
「なんだ。同室のやつらは他の部屋に退避させたのによ」

 なかなか彼らが帰ってこないと思ったらこれ。すでに根回しが済んでいる。普段面倒がるくせに、こういったたぐいの手配がとてつもなくうまい男だった。そして人心掌握も。

「ちょうど、お前なら見立ての条件も揃ってんだ。巫女の要件は」

 壁に寄りかかり、先輩はふとことばを切ってユウを見下ろした。どこか考え込むような無言が降りる。

「あー……未婚の女だ」
「じゃあ、わたし大丈夫です! ね、ジャック」
「ね、じゃねぇ! 待て、落ち着け、お前には十分してもらった」
「でも早くよくなってほしいし、魔法じゃなくても力になれるし……」

 あわてて上体を起こすが、熱がぶり返したのか頭がくらくらしてくる。腕ずくで阻止すること以外の手がまともに浮かんでこない。そして、肩を落として言いつのるユウを押さえ込めるイメージもまた。

 すぐそこで、口の端が上がっているのを隠そうともしない男に掴みかかる図ならスムーズに思い描けるのに。その当人は、唐突にベッドに歩み寄ると長身をふたつに折るようにして俺に耳打ちし始めた。怪訝そうなユウには聞かせずに。

「間違ってもこいつに手ェ出すなよ」

 これまでの表情から一転した、低く、真摯な口調。

「このまじないは処女にしか扱えないからな」

 ――ことばの意味を呑み込むまでに、いくらか時間が必要だった。その間に「まぁお前なら心配ないだろ」と結論づけて、レオナ先輩はさっさと出ていってしまう。机の端にいつの間にか置かれていた栄養ドリンクに気づいたときには、部屋のドアはぱたりと閉じられ。

「……いや、そもそもしねぇからな!」

 背中を向けて手を振りさえしていた彼に叫んでも後の祭り。

 全身が熱い。

 心配はともかく、平気なわけはなかった。意識するに決まっている。それはもう盛大に。相手はユウ。あの赤い頬に触れたいのをさっきからずっと我慢していたところだ。そんな彼女が三日間、すぐ隣で、服もなしに、それから? そこからの想像はほとんど霧の中。理性がブレーキをかけるから。

 そのユウはといえば、妖精の力にいにしえの秘術で立ち向かおうとしている。俺のために。だから肝心なことがもう頭から抜け落ちたのだろうか。一晩中、尋常ではない格好で、男のそばへぴったりと寄り添っていなければならないことが。

 はたまた――ユウはそういう行動をためらいなくできるタイプか。吹っ切れてしまえば、という条件下ならその可能性も否定できない。もしそうならなんとしても突っぱねようと、おそるおそる椅子の方を振り返ってみた。

「あの、あの、ジャック」

 待ち構えていたのは潤んだ目。

「やっぱり一枚くらい、シャツとか着てたらダメかな……?」

 巫女役に徹する前提の、けれど恥ずかしさに震えた声で。まさか症状が移ったかと思わせるほど、具体的にはブラウスから覗く首筋まで朱に染めて。

 その後ろではウサギの耳をしたリンゴがひと切れ、皿の上でこちらを見つめている。

 

ランダム単語ガチャ No.1834「ブドウ糖」