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 よく晴れた、陸上部への仮入部一日目。課題の百メートル走を三本終えたところで先輩がたからは早速評価をもらった。

「へろへろ」
「めちゃくちゃ」
「錆びたリアカーみてーだ」

 つまり。

「ジャック! この子そもそも練習するための体力がない!」

 こうしてわたしの仮入部はすぐに保留、見学に切り替わった。テスト不合格のさらに手前、単純に体調を心配されて。

「そこまで……?」

 今日のメニューを終えたジャックが、わたしたち三人がいるこの木陰に来て開口一番放ったのがこれ。呆れたとまでは言わずとも、へにゃりと下がったふわふわの耳は雄弁だった。芝生に伸びてそれを聞いていたグリムは反対に耳をぴんと立てる。呼吸を整えるのに忙しい子分の前で体を大きく見せるように。

「ユウは魔力も筋肉もねーけど根性があるんだゾ!」
「グリム!」
「あ、練習つき合ってんだから夕飯はツナ缶増量な」
「グリ坊?」
「あまり困らせるなグリム。親分なんだろ、お前」

 ボトルをひとくちあおって、ジャックはすぐそばにおもむろに腰を下ろした。そうして両脚を畳んだというのに、やっぱりわたしたちよりずっと大きく見える。

「ユウも柔軟しとけよ。後で筋肉痛になる」
「うん。今日はありがとね、連れてきてくれて」

 頷きながら肩口で汗を拭うその仕草ひとつとっても、がっしりとした腕がよく映えた。わたしが伸ばす、なんの変哲もないそれとは大違い。

 もしものすごい悪者がやって来ても返り討ちにしてしまえるだろう。つい先日までのわたしには到底、縁のなかったシチュエーション。

 ***

「お前は自分で自分も守れてない」

 ジャックに痛いところを突かれたのは、オンボロ寮への帰りを送ってもらうある日の道中だった。うとうと眠たそうなグリムをなんとか抱えて歩くわたしの隣で、夕焼けのさらに先へ沈む周囲を見回しながら。

「ガタイがねえ。あとパワー。あぁ、あと腕っぷし」
「えぇ……」

 このあたりに寄ることはなかったからと、彩度の低い景色をながめて。そんなふうに、なんてことない表情でさらりと告げられるにはそぐわない、かなり深刻な話なのに。ぜんぶ攻撃力のことだった気もするけど。

 あるいは、だからこそ、かもしれなかった。ジャックなりの。

「ガタイは、まぁともかく。わたしそんなに弱っちく見える?」
「さっき、校舎で絡んできたやつらを撒けてなかっただろ」

 単純明快な答えは、こうして三人でいる理由につながっている。

「だからせめてまともに走れるようになった方がいい。ユウ」

 一歩、踏み出したところでジャックは足を止めてわたしに向き直った。雪のように柔らかい色のしっぽが大きく揺れる。制服や夜の黒と対極なきれいな白。

 その目は鋭くわたしを見据えていた。思わず背筋が伸びるようなまっすぐさで。

「そうすれば安全なところに逃げられるからな」

 オンボロ寮の明かりは近い。わたしの家の蛍光灯よりはオレンジ寄りの、温かい光のランプ。

 それなのに気づけば視線は斜め下、鈍い色の地面に落ちている。

 足跡もつかない乾いた道へ。

「それって、どこ?」
「俺がいるところ」

 ――それはほとんど被せるように、前のめりなタイミングだった。何とはなしにぽつりと聞いたのが申し訳なくなるくらいに。高いところを見上げると、ジャックはなぜか寒さをこらえるのに似た強張りを押し隠そうとしていた。

「……とか。なんて顔してんだよ」

 そのうえで、こんなことを。

「どんな顔?」
「弱っちい顔だ」
「ひどい」

 ついむくれてしまうのを、ジャックはようやく笑ってみせる。むにゃむにゃと身じろいだグリムを片手で支えながら。

 ジャックがどこにいても、きっと見つけられる。そう思うくらい真昼の笑顔だった。

「……あと先生たちに、エースやデュースもいるだろ。こいつも」
「親分なんだゾー……」
「あぁ、そうだな」
「ありがとう」

 ゆっくりと歩き出したジャックを、グリムを抱き直して追いかけた。

 いつもより、ずっと足が軽い。

「……すっごく嬉しい」
「そうか」
「ほんとだよ」
「……そうか」
「うん」

 ぽかぽかの体を抱えていると、大きな背中を見つめていると、なぜだか力がわいてくる心地がする。広い足音を踏みしめるように歩幅を思い切り伸ばして、考えてみた。多分、わたしはこの学園の誰よりも走れない。

「それってつまり」

 みんなのところへ飛んで行くためにはもっと上を目指すべきだ。

「わたし、学園最速のスプリンターに……!」
「そこまでは言ってねえ」

 ***

 体力はともかく気力は十分だった。あの日のことを思い出すだけで。

「ジャック、わたしスタミナつけるよ。がんばるよ!」
「よく言った。それにしても」

 芝生に投げ出した脚を軽くほぐしながら、ジャックは首を傾げる。

「なんで仮入部まで?」
「みんな楽しそうだもん。それに」

 例えば、部活の間のデュースはいつも気合いが入っている。たった今グリムが走っていったのを運動場の外周で迎えた彼は、軽く両手を振るとグリムの柔軟を手伝ってあげている。そのすぐそばでは、いいタイムが出せたのか先輩たちが大声で何かを言い合っていた。

 そして、目の前で不思議そうにしているのは。

「ジャックがかっこよかったから」
「俺? 練習見てたのか?」
「ん……」

 当たらずも遠からずな疑問に答えあぐねて、つい話をそらしてしまう。

「ジャックこそなんで?」
「何がだよ」
「いっしょに練習してくれるでしょ」
「オレにも聞かせてもらいたいもんだな」

 背後から唐突に、わたしを覆い隠すように低い声が追ってくる。「あいつらに用がある」と言ったきり、そばの木にもたれて陸上部の練習をじっと見つめていたレオナ先輩のものだった。無言を保ったままだった静観の先には、サバナクロー生の部員がふたり。デュースたちのそばにいる先輩たちだ。

 そんな観察をふと切り上げて、レオナ先輩は愉快そうに片眉を上げた。ターゲットは一時的にジャックへ切り替わったらしい。

「こいつに最近やたらとくっついてるじゃねぇか」
「俺はユウに責任があるんで」

 ――わたしから補足するべき何もかもが浮かばないまま飲み込んでしまう。

 生真面目に返したジャックのことばはおおいに省略が入っていた。レオナ先輩はわずかに目を見張って耳をぴくりとさせる。

「……したのか? 婚約とか」
「はぁ?」
「あー、お前はそういうやつだ」

 そうしてわたしへ「お前も苦労するな」と視線を送る。多分、哀れみの。どうとも応えようがないそれはジャックのほうへ受け流しておいた。無言のトライアングル。

 ***

 グリムのふくふくした手や足を指先で揉むのは一日の終わりの癒し。

 お腹を出してベッドに寝転ぶグリムのあちこちをマッサージしてあげる間、温泉で溶けるうなり声のような「ふなー……」が楽しめる。お風呂上がりだからいい香りがして、なおさら柔らかい。いつも自信に満ちあふれた彼との落差が可愛くてつい頬が緩んでしまう。カーテンの向こうは真っ暗でも、わたしたちがいっしょならなんてことはなかった。ゴーストたちだって、そろそろ帰ってきてくれる。

 隣へ横になって、もごもごしている頬をながめてみた。こんなにほっこりと丸いのに、いざとなれば激しい炎を作り出せるなんて。最近は、小さな両手のあたりにお湯を作り出せるようになった。がんばって勉強してきた成果。

 わたしには到底できっこないこと。

「グリ坊ー」

 抑えきれない憧れを知ってか知らずか、グリムはくたりとわたしのほうへ寝返りをうつ。

 子分の思いつきを聞いてほしかったから、ちょうどいい。

「最近ゴーストのおっさんがうつってんだゾ。なんだー?」
「石って、わたしでも食べられる?」