スローダウン

 

 二度噛まれた。

「いや」

 そう言い募る唇に触れようとして指先を一度。何しやがるこいつと真上から口をふさごうとした手のひらの側面を一度。右手にはシアの噛み跡がふたつ残った。連合には鷹だの鷲だの呼ばれたエースパイロットがいたらしいが、ならば彼女は子犬か怪獣か。

 とにかく、暗い部屋の中でようやく起き上がった小さな猛獣は乏しい明かりの下で枕やシーツを整え始める。こちらなど知らないとばかりに。

「お前」

 そこそこの痛みより遥かにいら立ちが勝る。文句をつけたいところだが、彼女からしてみれば寝込みを襲おうとした男に書いて字のごとく歯向かっただけともいえた。今も、向き直って不満げににらみつけてくる。力ではてんで敵わないくせに訳のわからない抵抗をするものだ。雰囲気もなにもあったものではない。二段ベッドの下段というロケーションにとどめを刺すも同然の。

「もっとこう……あるだろ。まともな嫌がり方」
「だめなの」

 端的。端的すぎて何が嫌でだめなのかまるで会話が成立しない。行くところまで行けば手が出て足も出るのがシアだというのに(それで俺に勝てるかはともかく)、ことばを探しあぐねでもしているのか出てくるのは拒絶ばかり。

 ここに来たのは触れたかったからだ。

 忍耐にも限界があった。

「シャニは今から、動いちゃだめ」

 このひとことがなければ。

 ――それきり、ベッドから出て行くことも禁じられて受け取るばかりになる。

 ただ、キスだけを。

「……ん」

 頬へ。唇の端へ。少し伸びをするようにして目元へ。

 シアはシーツにぺたりと座り込んだまま、軽く触れては離れるだけのキスを繰り返した。その両手は、こちらの両手を取り、指を絡め、緩く戒める。暗に振りほどけと言われているのではないか、そう邪推できるほどに力なく。

 崩した両脚の間にこぢんまりと収まるこの女は、それだけで完封できた気でいるらしい。

 腹立たしいのはまったくその通りだという事実が目の前にあること。

「シア」

 呼べば、掬い上げた俺の手の甲に口づけたままちらりと上目遣いの視線が返るだけ。決定的な刺激をはぐらかされ続けているようなむずがゆさがまたしても積もっていく。なめらかな手のひら、そこからたどれる手首も腕も今は許されずに。

 押し倒すのも、シャツを剥いでやるのも簡単で、できなかった。きっと次は本格的に牙を剥かれる。例えば俺の上をたどって遊ぶ唇に舌をねじ込んだら噛みちぎられそうな。

 子犬よりは怪獣寄りのそんな女は、いつもは俺に押し倒されてシャツを剥がれてほんの少し泣く側だ。だからこんな、毒にも薬にもならない戯れじみた接触よりもっと深いことだって知っている――思い知らされている。

「なぁ」

 問いかけは一度、柔らかい体温でふさがれ。避けられていた唇に押し当てられた温度は一瞬だけ胸を突き、だから続く文句が遅れた。

 決して、見つめる真摯な目に射抜かれたからでは。

「なんでこんなことしてんの」

 この体勢では上にも横にも窮屈だ。それも相まってか自分の声が恨みがましく響く。いつもより若干きつい猫背を強いられるせいでシアが見上げるのが近く。

「キスは、好きどうしですることだもの」

 答えもすぐに喉に飛び込んできた。

 飲み込めるかはまた別の話。

「好き」
「違うの?」

 好き。

 多分、俺がシアを。シアが俺を。そういうことを言っている。

「考えたこともねーよ」

 嫌いと断言できる人間なら何人もいる。顔は忘れたが。どう痛めつけてやろうかと闇討ちの方法を練ってみたことだってある。実行したことはないが。そんな者たちを並べた列にシアを置いてみると違和感ばかりがあった。それなら。

 こうして向かい合って手をつないでいることが何よりの根拠。離したいか、その自問への答えは決まっていた。

「嫌いじゃない」

 だからそういう結論になる。

「気に入ってはいる」

 自分がここに留まっている理由を思えば、これもきっと正しい。少しいじめると怒って泣いて怖がって忙しいのをながめるのは楽しいから。たまに今日みたいな反撃が来るが。

「うん」

 シアはほのかに顔をほころばせて、頷く。

 楽しい表情の対極にあるもの。

「わたしシャニが好きだよ。こうしてるのも好き」

 こんな、子どものじゃれ合いじみた生ぬるいことを心底大切そうに言い切って。

 手だけで、このつながりだけでこちらが満足できるとでも思ったのだろうか。引いたはずの右手のちりちりとした痛みとともに再発したのは飢えだった。

 シアのように噛みつくことでは、満たされないもの。

 だから仕返しをした。

 身を乗り出して、すぐに。完全に油断している彼女の前髪へ。その向こうの額へ。

 こんな単純なことがキスなのだろうか。

「……シャニは動いちゃだめなのに」

 耐えきれなかったかのようにシアが相好を崩す。軽やかに、密やかに耳をくすぐる小さな声が腹に落ちるたびに胸の底の方がゆっくりと焦がされていきそうに痛むのが、好き、なのだろうか。

 

ランダム単語ガチャ No.3648「スローダウン」