※流血注意
やや荒々しく閉じられた応接室のドアの手前には苦虫を噛み潰したような表情がある。のんびり靴を脱いで腰かけていた姿勢を正してしまうくらいにはびっくりして、とっさにことばが出てこない。
「今度は諸悪の根源を咬み殺してきた」
吉報とは裏腹に地を這うような声色はつまり「先手は取られた」ということで。その証拠に、ため息をつく唇からはいつかのわたしのように二本の牙。
「わぁ、わぁ……」
ソファーから身を乗り出してまじまじ見つめようとするのを慌てて自制する。心底不服そうな顔から察するに不本意極まりない外見らしい。わたしからすればかっこいいとか、強そうとか、正直言ってかなり似合う部類の変化だけど。ついでに、羽織った学ランが黒マントに見えなくもないところが妙にマッチしている。
「キョーヤがヒバリンになっちゃった」
「珍妙なあだ名つけないでくれる」
後ろ手に扉へ鍵をかけてキョーヤは隣に腰を下ろした。ひとつ息をつくとだいぶ普段の調子を取り戻したように見える。そうして距離が縮むと、牙の鋭さや厚さを目の当たりにしてしまう。これで噛まれたらとても酷いことになりそう。
「みどり」
そしてその予想が的中することは必然で。
「治る条件は君のときといっしょだ」
「うん、待ってね……」
返事は上の空、キョーヤの真剣な表情よりもその視線の先が気になって仕方ない。どうひいき目に見てもわたしの喉元や首筋に注がれている。わたしの血をたくさん飲めばキョーヤの症状も治る。だったらすぐにでも、そうして制服のリボンを外したその指がかじかんだようにぶれるのに気づいたのはこのときだった。丸いボタンに指先を引っかけても力が入らずころころと滑ってしまう。
「あれ……あれ? 何で……」
こんなことになる理由なんてひとつしかない。なのにどうしても直視できない。できなくて、この場でいちばん困っているキョーヤに甘えるしかなかった。わたしが弱っていい場面じゃないのに。
「キョーヤが、して? 何だかうまく外せなくて」
「いいの」
「うん。キョーヤなら、いい」
数拍の間の後、長くて骨張った指が伸ばされる。片手であっけなく開かれていくブラウス、ボタンひとつ分の隙間から流れ込む空気が鎖骨に触れた途端に跳ねそうになる肩を気合いで押さえ込んだ。視線が、沈黙が痛い。これからもっと痛いことが待っているのに。手鏡でまじまじと眺めた自分の牙ですら恐ろしかったのに、目の前にはもっと力強いそれが突きつけられている。
だめだった。キョーヤが手加減もせず噛みつくわけがないのにこれ以上眺めていたら体が勝手に逃げ出してしまいそう。そんなことにはしたくない。
「あの……あのね、先に言わせてね。わたしきっと痛いとか、止めてとか騒いじゃうけど気にしないで」
「……何その予告」
訝しげに覗き込まれるのが思いのほか至近距離でつい目を伏せてしまう。襟元を緩めていく指が動かなくなったのを感じてほっとするということは、やっぱりそういうことだ。気づけばお腹の前で両手をぐっと握り込んでいるのもキョーヤは多分わかっていて、わたしの代わりにことばにしてくれる。
「痛いと、こう、挫けちゃうというか……」
「……怖いんだね」
「うん、うん。でも、キョーヤだってわたしのために痛いの我慢してくれたんだもん。わたしも頑張る、ちゃんとするから」
「強がり」
「そそそそんなことない……」
「どの口が言うの」
自分の声なのにどんどん制御が効かなくなっていく。わたしのわがままとキョーヤの症状、ここでどちらを優先すべきかは明らかなのに決心が揺らいだ。けれどこれ以上引き伸ばしたら、キョーヤのことだから止めるなんて言いかねない。そんなことはさせられないとぎゅっと目を閉じた。
「いっそひと思いに!」
「わかった」
少し冷たい手に肩を掴まれ――次の瞬間にはソファーに押し倒されていた。てっきりブラウスを避けて首筋を晒されるものと半ば覚悟していたのを肩透かしを食った気分。座面に膝をついて真上から見下ろすキョーヤはうっすらと楽しそうな笑みを浮かべていて、ますますわからなくなる。例えばこの体勢の意味とか。
「何で、どうして」
「これがいい」
背中を抱きしめられても困惑が紛れるはずもなく。投げ出していた左手を取ったのはキョーヤの右手だった。丁寧に人差し指をなぞる爪がくすぐったくて、それがこの状況と酷いミスマッチを起こして頭がくらくらしてくる。
そこに飛んでくる唐突な質問がとどめだった。
「みどり、血を吸われるのは悪いことばかりじゃないらしい。何のことだかわかるかい」
「え? えーっとえーっと、体重が軽くなる……っ?」
答えた途端、指にちくりと痺れがあった。
「……え……?」
手慰みのように遊ばれていた人差し指、そこには牙が埋め込まれていた。切っ先をわずかに皮膚の向こうへ突き立てて。それはちょうど、お裁縫の最中にうっかり針を刺したようなほんのささいな痛みだった。
そしてそれは、わたしにとっては結構な不都合で。
「だめだよ、そんなの……!」
あんなにも覚悟を固めたのに、という恨みではない。あの日、わたしが元の体に戻るまでにはキョーヤの血を泣きたくなるほどたくさんもらわなくてはいけなかった。それが、ストローよりも細いこんな傷だけを使ったら。
「こんなペースじゃ何日かかっても終わらないよ……」
「僕はそれでもいい。君、まさか僕がその程度のことにこだわるとでも思ってたの」
「そういう問題じゃ」
ちゅ、と、リップノイズに似た響きで指先を舐め上げられる。ぬるりとした動きに驚いてことばを飲み込んでしまったわたしを至近距離で見下ろしながら、キョーヤはそのまま指を口に含んで。
「な、な、な、ななな何を」
「往生際が悪い」
舌っ足らずな声を聞いたところで何が起こっているのかわからない。なぜか押し倒されながら指を銜えられている。ぱくぱくと開いた口が塞がらないのを面白がるような笑みはだんだんと深くなっていく。一秒だって見逃さないと目を輝かせて。
キョーヤがわざわざこんなポジションを取った理由はこれだった。何がどう転んでもわたしはここから抜け出せない。いつもみたいに優しい顔をしておいて初めから逃がすつもりなんてなかった、そう気づかされる。
――その事実がなぜだか酷く胸に突き立てられて甘く疼いた。
「うそ、うそ……」
「何」
「……だめ、キョーヤしゃべらないで、わたしおかしい……」
こぼれるのは脈絡のないことば。濡れた体温がわたしの傷口を這うたびに全身から力が抜ける。膝が震える。痛みは、あった。けれど小さなそれを圧倒的な大きさで塗りつぶすのは紛れもなく、腕を伝ってくる気持ちいいという感覚。
「ん、んーっ」
「声、抑えてるの」
「だって変だもん、こんなこと気持ちいいなんて……」
「そう。みどりは気持ちいいんだ」
小首を傾げるのが妙にわざとらしい。自分が大変な状況なのを脇に置いてわたしの反応を楽しんでいるのが見え見えだ。こんなところで鋼のメンタルを発動するなんて。これは酷い。
酷いのに反撃する力も出なくて。
「あっ、違う違う! ないない、よくない、気持ちよくない……」
「ふぅん。でも僕のためにその気持ちよくないことを頑張ってくれるんでしょ」
「ひ、ぅ」
「我慢せずに素直に泣いたらいいのに。だから言ったでしょ、血を吸われるのは悪いことばかりじゃない。おかしくなるほどの快感が伴う、それがさっきの質問の答えだ」
「嫌です、無理です、冗談じゃない……」
背中に回されていた手で、まとめていた髪を解かれることにすらぽうっとしてしまうほど声がとろける。ぞっとするほど甘ったるいその響きが自分のものだなんて認めたくなくて、声を上げたくなくて、その反動で呼吸が乱れていく。指先に軽く歯を立てられて、吸われて、何度も舐められて、たったそれだけだと自分に言い聞かせる思考にさえ白い靄がかかって。
キョーヤはあのときこんなのを耐えていたなんて。全然顔に出ていなかったどころか痛いとすら口にしなかった。けれどそれはそれ、キョーヤが平気でもわたしは耐えられない。気持ちいいのが大きいと怖くなるだなんて、知らない。
「やだ、やだよ、もう止めてよ……キョーヤ、お願い」
「……止めない」
「そんな、そんなぁ」
「君が言ったんだ……でも、そうじゃなくても止められなかったかもしれないね」
申し訳程度に体温の戻った左手が髪を撫でてくれる。小さい子を宥めるのと変わらないそれが今は嬉しくてほっとするのに、右手が間違いなくわたしを捕まえているのを思うといよいよ訳がわからない。
「こんな体勢で、こんなことをして、みどりが弱ってるのを見ると……何かいけないことをしてる気分になる」
まるで見せつけるようにぺろりと舌でなぞられるのは出血の止まりかけた傷。
――ぞくりと背筋を滑っていったのが「寂しい」だなんて、認めたくない。
「……やだな、何かやらしい……」
「茶化せるなんてまだ余裕だね」
「そんなことないもん! もっと豪快に吸ってくれなきゃだめ!」
「やっぱり余裕じゃないか」
やけになって騒いで、ふと自分で言ったことを思い返して――血の気が引いた。豪快に吸ってくれないと困る。
こんなペースじゃ何日かかっても終わらない。
どこか遠くで、チャイムが鳴った気がする。
