君はドラキュリーナ

※流血注意

 朝から授業そっちのけで保健室に閉じこもったのをどこから察知したのかやはり追手は現れた。カーテンを閉め切った内側へ躊躇いなく侵入してきた彼は両手で死守している口元のハンカチをいともたやすく剥ぎ取って。

「……犬」
「違いますー!」

 猿ぐつわを半端に噛んでいるように自分の発話が不安定になる。ベッドの上で三角座り、お腹を圧迫している姿勢のせいではなく。それもそのはず、わたしの犬歯は引き結んだ唇からも飛び出すほど長く鋭く発達していた。そればかりか日差しが焼けるように目に滲みて痛んで仕方ない。

 さながら吸血鬼のように。

「……心当たりは」
「見ないで、見ないでったら」

 自分の豹変よりも、気持ち悪いと言われるのが怖くて籠城していたのにそんな事情もつゆ知らずキョーヤはまじまじとわたしの二本の牙を覗き込んだ。顔を背けてもわざわざ膝でベッドに乗り上げて追いかけてくる。執拗すぎやしないか……その答えはイエス。その目は真剣そのもので、この状況を子細まで把握しようとしてくれていた。

「昨夜、変な針を持ってる蚊に刺されたの。窓から逃げてったけど……それしか思い浮かばないよ」
「ふぅん」
「キョーヤこそ、心当たりあるの?」
「それを操る男を知ってるよ。咬み殺そうとしたら逃げられた」

 誰を、とはあえて聞かないでおく。ジャージを毛布代わりに頭から被り直すと、ちょうど一時限目のチャイムが響いた。本当なら教室でこの音を聞いていたはずなのに。登校中に口元の違和感が気になって手鏡を覗いたらいつの間にかこんなことになっていた。パニックになって家へ引き返す選択肢も吹き飛んで結局はここで縮こまっているしかない自分が情けない。治す方法すら思い浮かばない現状が涙が出るほど心細かった。というよりもう涙目になっている自覚はある。

「ずっとこのままだったらどうしよう」

 それよりもキョーヤに気味悪がられる方がずっと嫌だった。今はただ興味深げにしていても明日は、一週間後は――。

「事情はその彼から聞いたよ。すぐに治せる」

 ――ベッドから転げ落ちるかと思った。

「ほんと!? ね、どうすればいいの」

 悠然と正面に座り込むキョーヤが頼もしすぎて思わず身を乗り出してしまう。わたしの頭を撫でるのも表情の変化が少ないのもいつも通りに、キョーヤはおもむろにわたしを指し示した。正確にはわたしの牙を。

「好いた相手の血を大量に摂取すると完治するそうだよ。みどりの場合は僕だね」
「血……」
「都合がいい。今の君なら余裕でできる」

 できる。何のことかはよくわかっているつもりだ。キョーヤはわたしに血を吸えと言っている。

「やだ」

 できるはずがなかった。不思議そうに首を傾げる、その喉元から意図して目をそらして適当にサイドテーブルに置かれた時計を見つめることにする。チャイムからまだ五分と経っていない。

「キョーヤに怪我させるくらいならずっとこのままでいいもん……」

 収まっていた涙がまたこみ上げてくる。想像するだけで寒気がする光景だった。わたしがキョーヤに牙を突き刺して血を啜るなんて、そんな痛々しいことを強いるわけにはいかない。それに比べたら多少歯が伸びていることくらいどうってことなかった――二度と気楽に出かけられなかったり唇にキスしてもらえなくなるのは少し悲しいけど。

「そう」

 視界の端でキョーヤは軽く頷いている。最悪の事態は回避できたようでほっとしていると、その手がわたしの制服のポケットからボールペンを探り出すのを見た。

 何のためらいもなく自分の手首に振り下ろすのも。

「まっ……」

 待って、と言い切るのも煩わしくてとっさに枕をペン先にぶつけて阻止していた。あまりの行動にことばを失うわたしをキョーヤは涼しい表情で見つめ返す。自分が傷つくことを何とも思っていないのが手に取るようにわかる凪いだ目。

「君が泣くからだよ」
「……今は別の意味で泣いてるの」

 わたしの目元を拭う指先はボールペンをシーツに放り出す。そうして胸に抱き寄せてくれる腕が顔を隠すとどうしても耐えきれなくて、せめて声だけは抑えようと喉がひとりでに締まった。呼吸が苦しくなるのを、キョーヤの大きな手が背中を撫でて宥めてくれる。キョーヤが自分の行動を曲げることはないとわかっているのに安心してしまうのは、それら全てがわたしに向けられた好意だから。

「僕はこのままでも構わないけど、君がそんな顔をするなら手出しする。二度とキスできないとかそんなことを考えそうだ」
「……何で当てちゃうの……」
「みどりのことだからね」

 穏やかに降りる声で続けるより先に、キョーヤはワイシャツのボタンをふたつ緩めた。片腕の中から抜け出せずにそれを眺めるしかないわたしの目の前に白い首筋が晒される。

 なぜだか、それが酷く甘いのだと思った。

「君に止められても僕にはいくらでも手がある。それが嫌ならその牙でここを狙いなよ」

 加減を知らないキョーヤが自傷するよりもわたしが手を下す方がよほど穏便に済みそう。なんて考えてしまうのは正当化なのかもしれなかった。辛うじて理性的なそんな思考をどろどろに溶かすほどの温度が、薄い皮膚の下で脈打っている。突き破ったら出血だけでは片づかない、それ以上の痛みがあるはずなのにそんなことも些事だと投げ捨てかねない欲求が喉を鳴らした。

 ありえない。キョーヤに噛みつきたいだなんて。

「どうしたの」
「……あんまり、おいしそうで」

 ふっとこぼされる吐息に笑みが混じる。キョーヤの手がわたしの髪を撫で、そのまま頭を自分の首へ導いた。まるでその瞬間を期待しているかのようにあっさりと。

「……キョーヤは怖いとか、嫌だとか、ないの? こんなの、変だもん。普通の人間じゃないよ」
「僕を誰だと思ってるの」

 低く笑って伸べられる指がわたしの唇をこじ開けた。親指と人差し指でゆっくりと牙の形を確かめる動きがもどかしいのは、間違って傷つけるのが怖いからだけではないような気がした。わたしの輪郭をたどられて確かめられるほどに、頬が熱くなってくる。じいっと見つめられるのがどこであろうと関係ない。

 恥ずかしい。それなのに、もっと触っていてほしい。

「こんな小さい牙で僕をどうこうできるとでも」

 耳に直接流し込まれるように囁かれた途端――箍が外れたように牙をその喉元に押し当てていた。自分でも制御できない衝動に突き動かされるまま切っ先を突き立てるのを寸前で押し留めるのに必死で、今何が起きたのか自分でもわからない。

 嫌なのに、だめなのに、キョーヤの血がほしかった。手を伸ばせば簡単に手に入るものを前にして、喉が渇いて胸が痛んでなお踏み留まらくてはいけない板挟みがわたしの選択を狭めていく。

「やだ、やだよ……」
「みどり。君はいい子だから素直になれるでしょ」

 ――煽ってる。キョーヤはわたしを優しく抱きしめるのと同じ手で邪道に引きずり込もうとしている。

「お腹が空いたからお菓子を食べるのと同じだ、いつもしてることなのに。それに今回のこれは、君が元に戻るために必要なことだ」
「もう話さないで」
「みどり」

 大好きな声が笑みを含んで、とどめを刺した。

「僕は君に食われたい」

 わずかな皮膚の抵抗の後、ぷつり、と、薄いそれをあっけなく突き破る感覚はおぞましさよりも気持ちよさが勝った。お預けされていたのをようやく許された――我慢するのを放り出した後ろめたい快感。欲望に負けた結末は、鉄の香りがする。

「……ごめんね。キョーヤ、ごめんね。痛いのに」

 キョーヤに噛みつきながら、離れられない。舌先に伝う血の味が、温もりが、着実に罪悪感を膨らませていく。それなのにキョーヤは身じろぎひとつしなかった。むしろ嬉しそうに息をついて、わたしの肩を抱きしめて。

「いくらでもあげるよ。ほら、もっと飲んで」
「飲むって、どうやって……?」
「一滴もこぼさないように、そう考えたら自然とできるよ」

 牙に穿たれた空洞から止めどなく血液が溢れてくるのが舌先だけでもわかった。慌てて掬って飲み込むと、口にするのもはばかられるほど恥ずかしい濡れた音がカーテンの内側に響いた。あんまり驚いて離れると、喉の奥でこらえきれない笑い声を飲み込むこともせずにキョーヤはわたしを至近距離で見下ろして。

「へぇ。みどりはそうやって吸血するのかい」
「……いけない?」
「いいや、いいも悪いもない。吸血鬼に襲われるのは初めてだからね」

 意地悪にはぐらかしてはいてもわたしを逃がすことだけはしない。わたしのためだからだ――表向きは。この状況を楽しんでいるのだと、半ば錯乱しているわたしにもようやくわかった。薄く弧を描く唇の上で舌なめずりする様はまさしく獲物を前にしたしなやかな猛獣のよう。

 混沌そのものだ。どちらが食べられているのかわからない。

「……みどり。啜ってごらん」
「そんなの……」
「恥ずかしい? けど、もたついてたらいつまで経っても終わらないよ」

 温かい首筋に再び誘われながら、震える歯を立てる。ちゅう、と、耳を塞ぎたくなる水音を意識して無視して滲む血を飲み下すことを繰り返した。早く、早く元通りになるように。

 それなのに、こうして狂気の沙汰のただ中に頭の先から沈められているのは怖いだけではなかった。柔らかくわたしを捕まえる手が、唇に伝う体温が、こうしてくっついている状況が。

「……気持ちいい……」
「……うん」

 どこか恍惚と、キョーヤは応えた。髪を梳く指が優しいのが嬉しくて、それだけがわたしを正気につなぎ留めているような錯覚。

 秒針が進む音すら気づけなくなるほどに夢中でキョーヤの血を奪う行為に溺れていくことは知らぬふりで、しばし人間から外れ続けた。

「……可愛い」

 どちらもまともではない時間は、いつ終わるともわからない。