さくらとよもぎと

 

 その手はわたしの髪にくっついていた、桜を取ってくれたのだという。

「……風流なことをするね」

 あいまいな返事しかできなかった記憶がある。そのときは遅刻寸前の焦りと、唐突に立ちはだかった長身への驚きで冷静ではなかったから。後から聞かされたのは、それが泣く子も黙る並盛最強狙った獲物は逃さない風紀委員長だということで。

 世の中、案外見当違いな噂が流れるものだと感心してしまった。わたしから見たあのひとは大きくて威圧感があるけど、視線や手つきはあの日の日差しのように柔らかくて。

「あったかいひと」

 ***

 などという勝手極まる思い込みを彼女がしているというのは小耳に挟んだ。校内はおろか、校区じゅうへ散ることのある風紀委員たちへ臆せずあいさつする一年生がそうらしい。新入生、とりわけ女子は彼らの風貌にしばらくは警戒心を隠せないというのに。あの日のやりとりが全てなのだと、彼らを見る目も変わったのか。

「舐められているわけではありませんよ」

 かけらほどには考慮していたことを重ねて肯定される。それはそうだろう、あの顔はそんな概念など持たない平和な人格を捏ねて作ったとしか思えない。

 意見を述べた草壁へ頷いて返し、退出させる。新年度早々やることは山積みだった。まるで髪飾りのように、桜のよく似合っていた彼女のことはひとまず頭の隅に置いておく。

 行事計画は学校そのものではなく部活動にも必要となる。四方から提出される申請届出その他諸々が机に積み上がっていく光景は、音を上げるほどではないが辟易するものだといえた。今もまた、吹奏楽部のふたりが出て行ったところだ。

 そして、入れ替わりにやってくる者がひとり。しかし部屋に入ってくるでもなく、入口あたりでこちらの様子を伺うばかりで。

「何」

 えっと、と、女子の声色で歯切れの悪い返答があった。受け取った届書から顔を上げ――促そうとすることばを飲み込む。

 噂をすれば、ということだろうか。草壁との話に上っていた姿がそこにはあった。ふわりと柔らかい曲線を描く頬は、やはり少しだけ色づいている。そして同級生たちの中でもひときわ小柄。悪目立ちする彼女のことはあの日すぐにあらかた把握した。

「……入ってよ」

 肌寒い廊下に向かって声をかけた。しかし名前を呼べない。彼女を象る音がとっさに浮かばなかったからだ。

 やたらとややこしい名字だった気がする。だから覚えやすい名前の方がなおのこと際立っていた。どちらも彼女の名なのだからと結局はそちらで呼ぶことにする。

 確か、桜の季節の次に芽吹く色を思わせるもの。

「みどり」

 ***

 それがわたしの名前だと数拍遅れて気づいた。このところ、男の子の声で呼ばれることはほとんどなくなったもの。その分くすぐったくて、返事をするのにいくらか時間がかかってしまった。

 何よりとても穏やかな、深い音が心地よくて。

「委員長……ヒバリ先輩?」
「うん」

 何の用かと問う視線に答えることばは持っていない。不意を突かれたからではなく大した用がないからだ。とっくに部活や委員会を決めてしまった友だちと別れてしまえば、放課後に残るのは暇なわたしだけ。

「あんまり風紀委員のひとが忙しそうだったから、どんなことしてるのかなって」
「そう。でも見学は受けつけないよ」

 単純明快なもの言いの理由はすぐにわかった。次々に紙を持った生徒が訪れては帰っていく。とても新入生の相手なんてしている時間はなかった。こうして部屋の隅に立って眺めているだけでカウントは六組に達して。

 ところで。

 わたしの横をすり抜けていく風紀委員たちは彼を「委員長」と呼んだ。さっき来てすぐに出て行った野球部の一年生は「これよろしくなヒバリ!」と。そのどちらも当たり前に受け取り作業に戻るのはどういうことだろう。

「ヒバリ先輩って何年生なんですか?」
「僕はいつでも好きな学年だよ」
「えぇ……」

 ヒバリ先輩、同級生説が浮上する。

 書類に目を通してはさらさらと書き込む動きは止まらない。なるべく足音を立てないようにして机に近づくと、綺麗な字が綴られていくのを見ることができた。話し方だって落ち着いているし、どことなく大人っぽい。

「みどり、手は空いてるでしょ」

 ふと、黒々とした瞳が椅子からこちらを見上げた。机に意識をやったままの上目遣いは何となく幼い雰囲気。いろいろ謎だ。歳という概念が掴めない。

「そこと、あっちにいくつかある束。ファイルにまとめておいて」

 ひとを使い慣れているのはちっとも子どもではないけれど。

 示された背後には中身がぎゅうぎゅうに詰まった棚がある。そこからどうにか空のファイルを引っ張り出しながら考えるのは、また黙々とペンを走らせた彼のこと。

 さら、と、乾いた音を立てて、また一枚積み上げられるのを振り返った。

 このひとのことをどう呼ぼうか。三分の二くらいは先輩だけど残りはわからない。やっぱりヒバリ先輩? ヒバリくん……は何となく怒られそう。そういえば、凄まじい威力の拳を持っているという噂もあった気がする。強い。でも委員長と呼び続けるのも何となく堅苦しい感じ。

 考え込みながら何を聞くでもなく作業風景を眺めていると、文字を追っていたはずの目がすっとこちらへ向き。

 ひとつ、瞬く。

「え」

 彼が唐突に席を立った。と同時に椅子を蹴り飛ばす勢いで机を回り込んでこちらへずんずんと歩み寄ってくる。どうしよう、いくら強いからって心を読めるだなんて聞いてない。

「ヒバリくんなんて呼ばないから許してくださーい!」
「邪魔だよ」

 ぎゅっと閉じた目を開いて、金属が打ち据えられる大きな音――後頭部に響いてやまない痺れに似た驚きの出どころを、おそるおそる追う。

 目の前で勢いよく突き出された片腕は、わたしの後ろから雪崩れそうになっていたファイルを軽々と受け止めていた。

「不注意だ。散らかさないで」

 そのまま押し戻す結構な力仕事を何とも思っていない静かな表情が、高いところからわたしを見下ろす。

 鼓動が跳ねたのはアクシデントのせいではなくて。

「ありがとう……」

 このひとのことをどう呼ぼうか。

 その答えは唐突に閃いた。怒られるのかもしれない。けれど、どのみち好きにしろと言われたようなものだからセーフだ。

「助かっちゃいました。ありがとう」

 わたしのことだって、みどりと呼んでくれた。

「キョーヤ先輩」

 ***

 それが自分の名前だと、数拍遅れて気づいた。ここでは呼ばれなくなって久しいもの。彼女の驚きが春の陽気にも似た笑みの中に溶けていくのをしばし眺めていたことに気づかされ、半ば強引に意識を引き戻す。

「うん。続けて」
「はぁい」

 どこか上機嫌に空いたスペースへ去っていくのを見送ったところで、彼女の髪が綺麗にまとめられていることに気づく。さらりとした毛先が歩みに合わせて小さく揺れる。ちょうど、風に吹かれる花のように。

 あの日呼び止めたみどりは、校則に抵触する髪留めかと見紛うほどよく映える桜を頭に載せていた。そのほかにもあちこち花びらを被っていたのを払ってやる間、大人しくしていたのは緊張のためだけだったのだろうか。

 そうではない気がした。なぜなら今日よりももっと深く、あの頬が染まっていたから。

 今は後ろ姿だけがあり、色はうかがい知ることはできないが。手を止めてしばらく彼女があちこち動くのを眺めていると、風紀委員がひとり入ってくる。片手に戴く盆には湯呑みとふたつの三色団子が姿勢よく収まっていた。もうそろそろそんな時間かと壁時計を確かめる傍らで、弾んだ声が彼を迎える。

「いい香りー」
「団子も茶葉も、老舗のものだぞ」

 そうなのかと感心する視線は彼が出ていってからも輝いていた。熱いうちにと湯呑みを手に取ると、視界には団子と彼女が残される。

 ――どうやらより興味を掻き立てられたのはそちらだったらしい。

「片方あげる。そこの椅子使って」
「いいんですか? いただきまーす!」

 予想通りと言うべきか、なんとなくこうだろうと思い浮かべていたものと寸分違わぬ喜色満面を浮かべて、みどりは皿から団子を受け取った。

 急いで校舎に向かう彼女が最後に振り返ったときの表情を、ふと思い出す。

 花がほころぶのと同じ笑顔だった。今目の前にあるような。

「……似てるね」
「似てる? えっと、わたしとお団子?」

 大きく口を開けかけていた彼女が慌てて居住まいを正すと、心当たりは手の中にある菓子しかなかったらしい。そうではないのだがあながち間違ってはいなかったので黙っておく。ついでに面白い。

「そうだね、君の頬。こんな色だよ」

 てっぺんの桜色を指差す。

 次は、いちばん下を。

「あとは、君の名前だ。みどり」

 暖かい、春のようだ――告げた瞬間になぜか、一瞬だけその目が見開かれた。

 そうして、次の瞬間にはとろけるように細められ。

「ほんとだ。わたしがいっぱいですね」

 嬉しそうに桜を味わう頬は、もし触れたならどれだけ柔らかいのだろう。その答えは団子の味の後の後のさらに後くらいに気になることだ。

 それでも、このささやかな茶会が終わっても忘れることはないのだろう。

「おいしい! あ、それじゃあ白は? 真ん中の……」

 好奇心に満ちた目が覗き込む。

 その問いに対する答えは、今のところは持っていない。次にここを訪れる風紀委員にお茶の追加を頼めば時間が稼げるだろうと算段をつける。

「もうひと働きしたら教えてあげる」

 彼女にならってひとつめを口に含んだ。ほのかな甘みが、砂糖よろしく音もなく舌に降りる。

「まずは全部食べるといいよ。僕もそうする」

 元気よく返す声が耳に心地よく響いた。

 砂糖菓子のように軽やかに、甘く。