今日は食べないガーデンバース

★はじめに★

この短編はガーデンバース設定です。pixivで作者様が世界観を説明してくださっています。(ピクシブ百科事典もあり)

 

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 はさみを使わないと、と思った。

 早くしないと死んでしまうかもしれない。焦りで浅くなる呼吸のせいでくらくらする。揺らいだ視線は、早足で通り過ぎようとしていた廊下の窓を捉えた。雨空は晴れよりくっきりと自分が映り込む。

 花。

「……」

 悲鳴を上げるのをこらえたかわりに思いきり後ずさる。

 ブーケ、のイメージを遥かに上回るおびただしい数のオレンジの花が髪のあちこちから咲いていた。数分前よりも確実に増えて、頭を完全に覆ってしまいそう。とっさにむしり取ろうとしてやめたのは、下手に刺激したらもっともっと増えてしまうと考えたからだ。だから、はさみ。

 みんなが帰ってしまった時間で本当によかった。こんなところを見られたらきっと気味悪がられる。ぶれる重みに気が散りながら階段を駆け上り、どうしても考えてしまうことから目をそらそうとした。

 キョーヤがもう触れてはくれない、なんて、悲しいことを。

 ***

 気持ち悪い、近寄らないで。そんなことを言うはずないとわかっている。わたしが困っていたら助けてくれるし、泣いていたら寄り添ってくれるひと。だからこそ、こんなおかしな姿を見られたくなかった。あんなにも優しい彼が少しでも幻滅する瞬間を目の前にするなんて耐えられない。

 なのに、先手を打とうとして出鼻をくじかれたからとっさに口にしてしまった。

「どうしよう」

 今日は誰もいないはずの応接室には、今まさに出かけようとしていた主がいたから。

 ちょうど学ランを脱ごうとしていたキョーヤは微かに目を見開いて、それだけだった。明らかに異常なことになっているわたしへ、むしろ歩を早めて。

「なにがあったの」
「わからない、わかんないけど、こんなふうになっちゃった」

 改めて聞かれると、本当に意味がわからなかった。そんなことが自分の上に降りかかって、できるのはあわてることだけ。

「どうしよう。このまま全身お花になって、死んじゃうかもしれない……」
「そんなことにはならないよ」

 険しい表情。それはわたしのために。もし目からも花が芽吹いたら見られなくなるものだ。入口で突っ立ったままキョーヤの胸に飛び込めずに引き返せもしない脚は、すでに根が張っているのかもしれなかった。今のわたしは彼の道行きを邪魔する木そのものだ。実りもなく、あとは枯れるだけの。

「キョーヤが食べてくれるなら、たくさん咲いてもいいかなって思ってた」

 スカートを握りしめていた手を、ふと濡れた体温が包む。キョーヤの手のひらに、わたしはどんな感覚なんだろう。それを万が一にも読み取りたくなくて目を伏せた。まだ、ざらざらの樹皮ではありませんように。

「でも、こんなのやだ……」
「どうして」
「だって気持ち悪いんだもん」

 返事より先に、返ったのは背中に回された腕だった。目にしなくてもわかる、いつもの、優しいキョーヤのもの。ずっと、何日も欲しかったものがこんな形でやってきたことが悲しくてシャツの胸にうつむいた。その拍子にオレンジがついてきて余計に頭が重たくなる。ついでに、灰色になっていく気持ちも。

 キョーヤが何日も学校を空けることはやっぱりさみしい。これまでは「ただいま」が聞けるのを楽しみにただ待っていられた。それができなくなったのは明らかに、彼とブートニエールになってからだ。いっしょにいられるととても嬉しくて、その反動のようにひとりの時間はとてもゆううつになった。

 早く会いたい。またわたしの花をおいしく食べてほしい。あとは、ほんの少しでいいからキスができたら――そんなことを考えながら眠った日の次の朝は、そんなぐるぐるした頭の中を表すようにたくさんの花が咲く。きれいだと、ごちそうだとほめてもらえると思っていられたのは数日だけだ。だんだんとオレンジは数を増して、朝昼晩いつでも生えてくるようになって、最終的には。

「……みどりはこんなに僕のことを待ってたんだね」

 ひと目で見抜かれるほどだめになってしまった。

「弱気の虫がつくくらい」

 まっすぐわたしを見下ろしているキョーヤにはことさら簡単だっただろう。だから、今日は一度だってオレンジに口づけない。

「やっぱり、ついてるかな……」
「うん。でも、じきにいなくなる」

 指先が、何度も引っかかりながらわたしの髪をすいていく。もしかしたらことば通りの弱虫を追い払ってくれているのかもしれなかった。でもきっと、それでは足りないくらいたくさんの虫がわたしの中にいる。

「枯れる前に、食べられてなくなっちゃうかも」
「君は誰にも渡さないよ」

 くるくると遊ぶように、髪が掬い上げられた。少しくすぐったくて、気持ちよくて眠たくなるほど。キョーヤが頭を撫でてくれるときはいつもこうだった。ほっとして、温かくて、日なたにいるみたい。本当にそんな夢を見そうなほど長い間、キョーヤはそうしてくれた。

 夢じゃなければいいのに。

 そんな望みの上にやってきたことばは紙のにおい。

「だから君は死なないし枯れないし食べられない。みどりは朝刊を読まなかったのかい」
「ちょうかん……新聞? なんで……」

 思いもよらない単語へ飛んだ話に、思わず顔を上げた。

 目を刺したのは光。

「十五時からは晴れだ」

 逆光になる、キョーヤの後ろ。雲間からは天使のはしごが差していた。暗いところからやってきた虫が驚いて逃げていきそうに明るくて、柔らかい白。

「予報通りだね。でも、早く戻ってきてよかった」

 それはオレンジの花と同じ色。

「ただいま。みどり」

 この笑顔と同じ温度。

「……おかえり、おかえりキョーヤ」

 まぶしかったのか安心したのか自分でもあやふやに。とにかく滲んでくる涙を手の甲でさっとごまかした。そのとき、目元にたれ下がるほどだった前髪と、花が視界からすっかりなくなっていることに気づく。くすりと笑って窓辺へ歩いていくキョーヤを追いかけるといよいよ何かがおかしかった。頭にまとわりついていた、外れかけの髪留めのように半端な重みが消えている。

 両脚がこんなにも軽かった。

「きれいだよ」

 ――軽すぎて飛べるかもしれなかった。

 窓に映ったわたしは花冠を戴いていた。ふんわりと編み込まれた髪にオレンジが織られて、まるでお姫さまの髪飾りのよう。後ろ頭でくるりと巻かれたお団子にも、きっと花が咲いているのだろう。

「キョーヤが、してくれたの……? すごい、ありがとう!」

 あんなにぐちゃぐちゃだったわたしはどこかへ行ってしまった。思わず固まってからあわてて振り返ってみると、彼は少し目を細めてこちらを見つめている。光る、真夏の入道雲の下でそうするように。

「いい香りがする」
「食べたい?」
「……明日に」

 緩く首が横に振られる。そのとき、髪から伝ったのか水の粒がぽつりとキョーヤの頬に流れているのに気づいた。

 丸くて、透明な。

 いちばんに伝えようとした「ごめんね、早く着替えないと」が口から出てくる前に体は動いていた。

 つま先立ちになって、その頬へ――きれいなひとしずくに唇を寄せて。

「みどり」

 キョーヤが支えてくれる手は、花に触れるようにそうっとやってくる。

「……おいしいの」

 視線がぶつかる音が聞こえそうなほど間近で、その問いはささやきに似た。

「……味しないよ」
「そうだろうね」

 喉で笑いながらワイシャツのボタンを外しにかかるのを察して急いで目をそらした。ついさっきとはまったく違う意味で。

「たっ、タオルあったっけ?」
「ありがとう。そこの棚だよ」

 低い衣擦れに追いつかれないように急いで離れた。

 それにあの瞬間、なんの味もしなくてよかったなんて思ったことがばれたら怒られてしまうかもしれない。