★はじめに★
この短編はガーデンバース設定です。pixivで作者様が世界観を説明してくださっています。(ピクシブ百科事典もあり)
小さなころは、毎朝お母さんといっしょに数を数えながら摘んでいた。友だちにほめられてからは、一日中髪にくっつけたままでいる日もあった。
これはわたしの花の話。
わたしの髪の先から、ときには髪の途中から芽吹くソメイヨシノはかわいくて、きれいで、いい香りのする素敵な花。たくさんのひとがそう言ってくれた。
そこに「甘い」「おいしい」を追加したひとは、つい先日「僕のもの」もつけ足した。金属音を伴って。
***
朝の夢を見ていた気がする。
カーテン越しの朝日の中で、あの唇がわたしの花をひとつずつ摘んで、そうしてぜんぶ食べてしまった今日の朝の。大きな手が両肩に添えられるのを待っていたのかそれとも避けられなかったのかは、あいまいに霞がかってうまく思い出せなかった。とはいえ、その答えがどちらでも彼はきっと満足そうに笑う気がする。どちらも望みどおりだから。
「キョーヤ」
自分のうわごとで目を覚ますと、壁にかかった時計は夜の七時ぴったりを示していた。部屋を囲う柔らかな木の色がほんの少し暗がりに沈んでいる。どうやら夕方ごろから寝入ってしまったらしい。食べようと思っていた飴は、テーブルの上にぽつりと置かれたキャンディーポットの中にある。透明な体の中には色とりどりの飴が詰まって宝石箱のよう。
ベッドの上から降りたくなくてそのまま手を伸ばす。すると、鈴のように軽やかな音がくいと手首を引っ張った――これが現れてから何日たったのかは忘れたけれど、硬く冷たい感覚には慣れることができない。両手には、ほのかな照明の光を返す手錠がはめられていた。つながれている鎖が枕もとのさらに向こうから伸びているのを、ふくふくのぬいぐるみたちが並んで隠している。
ベッドからあふれそうなほどたくさんの、うさぎとクマと羊と猫、その他。ぜんぶわたしの大好きなキャラクター。うさぎをすくい上げて抱き寄せても、唐突に跳ねた心音を落ち着けることはできなかった。朝には手錠を外してもらったはずだ。ということは、寝ている間にこの部屋に入ってきた誰かがいる。
そんなことをするのはたったひとりだけ。
前触れなく扉を開け放った彼の。
「みどり。よく眠ってた」
キョーヤは部屋に帰ってくるといつも、ほんの少しだけほっとしたように笑う。わたしをこの家に閉じ込めた張本人なのに。外から連れてきた微かな冷気を払うように再び扉が閉じられると、靴がこつこつと床を鳴らした。扉から十一歩、これはキョーヤがベッドに至るまでの歩数。
「また、咲いたね。昨日よりは少し増えたかな」
わたしのすぐそばに腰を下ろして、指で髪をすくのは花がどれだけ生まれたかを確かめるため。朝にすべて摘まれてからも、日差しや体調のよしあし、気の持ちようで花はいくらでも生まれてきた。それをたどる凪いだ視線は、ややあってこちらへ向けられる。
「食べたかい」
「ううん、まだ……」
そう、と返し、キョーヤはポットからオレンジの飴をひとつ取り出すと差し出してくれた。唇にふんわり押し当てられると甘酸っぱい香りがする。口を開けて舌に乗せるとそれはより強くなった。これはいちばんお気に入りの味。
ころりと転がる硬い曲線、そこに覆いかぶさるものがあった。
うさぎを取り上げながら、キョーヤが舌先をそうっと差し込んだから。
「ん、んー……っ」
自分のものとは違う体温にどうしても驚いてしまうわたしとは真逆で、こうするときのキョーヤはいつも冷静だった。まっすぐな目で見つめて、片手で優しく背中を抱いて。引き寄せられるのを突っぱねることだってできるのにそうしないのは、こんなキスなのに嬉しいからだ。オレンジと、もうどちらのものがどれだけなのかわからない唾液が混ざって溶けたとろとろが恥ずかしい水音を立てているのに。
花生みは、花食みの体液をもらうのがいちばんのごちそうになる。そしてキョーヤは花食みで間違いなくわたしの、大好きなブートニエール。けれど、なかなか花体質の関係に踏み込めなかったわたしのためにキョーヤがプレゼントしてくれたのがキャンディーポットだった。非日常を日常に重ねて近づけて、知らなかったキスにいつかは慣れるようにと。
「みどりはこれが好きだよね」
そう言ってくれたときの穏やかな瞳は、今この瞬間にも変わらなかった。ほとんど小さくなった飴をそっちのけに舌で舌をくすぐって、びっくりするわたしを目を細めてからかって、そうして時間をかけてぜんぶを飲み込む喉の一切を見守って。
こういうとき、自分で自分がどうなっているのか知ることはできない。もしかしたら鏡で見たとたん寝込んでしまうほど恥ずかしい顔をしているのかも。呆れられてしまうほど泣きそうになっていたら。その心配ぜんぶがぐちゃぐちゃになっていく。呼吸が乱されて、苦しくなる。
「……や、ん……きょ、や……もう……」
「……ん……」
限界が伝わったのか、唇は静かに離れていった。一瞬、ふたりの間に細く伝うものがあった気がするのを見ないふりして目を閉じると、また髪に触れるものがある。わたしから花が生まれるところ。摘みつくしたり、朝みたいに残さず食べることだってできるのにキョーヤはそうしなかった。肩で息をするわたしが落ち着くのを待っているみたいに。
息をするたびに、オレンジと、木の香りがする。生まれる花は、自分ではすっかり慣れてしまったのか香りを感じることはない。だから鏡の前に立ったり触ってみたりしてようやく咲いているのを実感することがほとんどだった。今は手錠が邪魔をするけれど。
「……もう少ししたら、また花を食べさせて」
連なる鎖を、キョーヤは目を伏せ指ですくった。その仕草でふと思い出したのは、ここに連れられた日に話したこと。この金属音を初めて聞いた日。
「ここはどこ?」
「花体質がひとりもいないところ」
返答は端的に。話はそれでおしまいだった。わかったのは、ここがきっと花体質どころかほかの人間が簡単には来られない場所だということ。そしてわたしの知らない場所。絵本に出てくる小屋みたいだ。七人の小人が住むような、森の中の木でできたおうち。元いたところから放り出されてたどり着く先。
「もう帰れないの……」
そんなことを聞けるはずがなかった。
ここはキョーヤの心配が詰まった箱庭だった。かわいいぬいぐるみも、甘い飴も、鈍色の手錠もすべて彼がわたしのために集めたもの。どこにも行かないように、ほかの誰にも取られないようにと。
「ここにいる間は、つけるんだよ」
始まりのことばはルールになった。わたしがこのベッドで眠るのを、キョーヤは毎晩見届ける。同時に欠かさず手錠をはめられた。硬くて丈夫で、だからこそ怖かった。わたしのブートニエールになってくれたキョーヤがくれるもののなかに、これがあることが。花を摘む指も、キスをくれる唇も温かいのに、これだけが冷たくて。
くくられた手首を見るたびに涙が出るのを止められない。すると決まってキョーヤは目元をぬぐってくれた。
「みどりは花生みでしょ」
指先でたどって、ときには子猫がするみたいにぺろりとなめて、仕方ないと微笑んで優しく頭をなでて。
「涙もくれてやるなんて」
どうして泣いているかを知っていて、そう言う。
こんなのはいや、キョーヤなんて嫌い、いっしょに帰ろう――怒って返すべきことばが本音とは食い違っていることに気づかされるのはこういうときだった。キョーヤの指摘どおり、生まれる花に大きな変化はないしわたしは健康そのもの。花食みからたくさん栄養をもらっているからだ。それはこうしてくっついていられたり、キスをしたり、そのほかもたくさん。感じているはずの不安を上回るくらい満たされている証拠だった。
ひとつとして手放せるはずがないし、もっとほしい。認めるのが怖いだけで、心とは裏腹にこれが正直な気持ちだとわかってしまう。
「キョーヤ、今日もここにいて」
だから毎晩、いっしょに眠ってくれるようにお願いしていた。堂々めぐりの胸の奥が苦しくて、ときには怖い夢を見て。そんな状態から助けてくれるのもキョーヤだけだから。
「そのつもりだよ」
長いキスのあとは、いつも疲れて眠たくなってしまう。瞼が重くなるのを自覚したのと、キョーヤがベッドに横たえてくれるのはほとんど同じタイミングだった。天井の木目の並びを覚えるのも時間の問題だろう、なんて考えていると、座りなおす衣擦れが耳に心地よく響く。
「もうすぐみどりの誕生日だね」
「そうだっけ……」
ここで過ごすことに自分のほとんどを費やして、すっかり忘れていた。キョーヤは小さく笑い、そうして次にはテーブルを壁際に押しやって。キャンディーポットがかたかたと揺れながら離れていくのを横になったままながめていると、すぐ隣へ横になった体が視界をふさいだ。温かい腕の中がなおさら眠気を強くする。
「ケーキを食べたら、そのあとはいろいろと教えるよ。あんな口実なんてなくてもたくさん栄養をあげられる」
「うん、教えて……キョーヤの、もっと」
わたしを好きだとたくさん教えて、と言いたかったのにことばがうまく浮かばなかった。それは思考が横道にそれたから。キスよりも体液を得られることってなんだろう。涙は――キョーヤが泣くところは見たことがないし、悲しそうなのはいやだ。かといって血をもらうなんて、毎回けがをさせることになるからもっといや。
止まりかけた頭ではほかの方法が考えつかない。わたしには到底できっこなさそうなことだったらどうしよう。そんな不安でまた心臓のあたりが苦しくなるのを気づいてくれたのか、シーツを引っかこうとしていた手を取ってつなぐ手がある。
そういえば、同じことをしてくれていたあのうさぎはどこかに行ってしまったんだろう。今さらそこに思い至るほど、わたしにはキョーヤだけだった。
「もう、キスしてくれないの?」
「まさか」
笑って、抱きしめて。わたしが眠ったあとは、朝みたいに花を摘んでいくのかもしれない。そのとき起きていられないのがちょっと残念で、でも眠気のほうが強かったから素直に目を閉じた。
この体温がいちばんの拘束なのにと思いながら。
