昨日彼女に下した命令は「これから一週間、僕相手にごまかすな」。それだけだった。
***
「やった、わたしの勝ちだね!」
「百十何戦のうちの今日だけだよ」
「勝ちは勝ち! 勝者の権利、覚えてる?」
手札を机に広げながら得意げにするのを目の前に、仕方なく頷いた。見紛いようのないフルハウス。ワンペアでは太刀打ちできない。ソファーに並んだ彼女がはしゃぐと、もう古くなったスプリングがほんの微かに軋んだ。
「敗者に何でも命令できる。昨日までは僕がそうしてたでしょ」
「そうそう。今まで散々やられたぶんお返ししなくちゃ」
「嬉しそうだね」
「気持ちはごまかしちゃいけないからね、うん」
おつかいに肩揉みにと数々の苦難を乗り越えてきた彼女は、ひと呼吸つくとふと背筋を伸ばした。このときを心待ちにしてきた人間がするには、少し不自然な真剣さ。
「キョーヤ、わたしに触ってよ」
「……何言ってるの」
一瞬、ふざけているのかと疑った。けれど撤回のことばはない。いたずらっぽく笑うことも。
「何でもいいから。ね」
純粋に、期待に満ちた表情。笑顔ではあるが、どこか緊張を押し殺したものであることはすぐにわかった。これは彼女がポーカーで負け続ける理由のひとつ。
「毎日挑んできたのは、それを言いたかったからなの」
「……そうかも。ううん、そうだよ」
否定しない、いやに素直な口ぶり。昨日下した命令はなんだったか。それは関係あるのだろうか。
「僕に触れられたいのかい」
――きっかり十秒の間があった。
「うん」
頷いて、目を閉じる仕草にはぎこちなさがあった。
何を、不安がっているのだろう。
「ねぇ、命令には絶対服従だよ」
「知ってるよ」
「ふたつ、間違えてる。僕がこうするのは君に言われたからなんかじゃない」
丸い頭に手を置くと、髪の柔らかさが伝ってくる。何度も撫でている内に、全身を強張らせていたのがだんだん軟化していくのがわかった。はっきりと、肩の力が抜けていく。
「あとひとつ。僕の命令はまだ生きてる」
「いつの、だっけ」
「とぼけるのが下手だね。昨日だよ、僕に何も隠すなと言った。君はすぐ照れてないだの泣いてないだの強がるから」
「ほんとのことだよ」
「言ったそばから。今だって」
軽く頬をつつくと、熱でもあるのかと錯覚するくらい熱い。彼女がかたくなに目を開けないのは、もう不安だからではなかった。
「君は僕に触れられるのにもいちいち理由が必要なの」
「……いらない」
「僕もだよ。好きな子に触れるのに理由なんかない」
だから命令違反なんだと、頑なに閉じる目元を適当に指先でほぐしてやれば降参とばかりにようやくこちらを見た。もともとないに等しかった距離だ、まつ毛が震えるのすらよくわかる。
「カードなんて口実でしょ。君は本当はどうしたいの」
「手を、つないで帰りたいなって。この前みたいに」
赤い頬を隠そうとする小さい両手を捕まえても、何の抵抗もない。今の彼女はやることなすことごまかしが混じってしまう。顔に出過ぎる動揺が間近で見られて多少は気分がいい。
「いいよ」
「ほんと?」
「僕がそうしたいからね。ついでに、反故にしたら勝負の意味がない」
そうだね、と、蚊の鳴くような声で応える彼女は、もうすぐいつもの素直な彼女に戻るだろう。ポーカーフェイスがまるで似合わない、元のまま。
「満足した?」
「まだ」
「強欲だね」
「だって、やっと一勝だもん。じゃなくて、キョーヤに触られるの好きだからね」
――嬉しそうにするところに残念な事実がある。触れるという行為にそれほど多くの引き出しを持ってはいないことだ。頭を撫でて、頬をつついて、手をつないで、それ以外に何があるのか。
……あとひとつしか思い浮かばない。
「ねぇ、両腕広げて」
彼女を抱きしめることだけだ。
