羽化と孵化

 扉の隙間から、曲がり角の影から、机の下から。わたしの完璧なスニーキングをキョーヤは全て見破った。放課後の今は、こうして応接室の真ん中に座らされて隠れることもできない。ところでこの座布団はどこから持ってきたんだろう。

「あの館から持ち出したんだ」
「わたしの心を読んだ……!?」
「顔を読んだんだ。この状況で余裕だね、君は」

 窓辺で振り返り、キョーヤはカーテンをぴたりと閉め切った。校庭の喧騒が少しだけ遠ざかる。女バスのランニングはかけ声が元気で好きだ、と明後日の方向に思考を巡らせるのを、キョーヤは目ざとく咎めた。

「今日はどうしたの。僕のことつけ回すなんていい度胸してる」
「だって心配なんだもん」
「……僕がどうにかなるとでも思ってるのかい」
「キョーヤが強いのは知ってるよ。で、わたしのお節介も同じくらい強いってことで」
「そう。それなら堂々と来ればよかったのに」

 みどりなら、と言いつつ手を引いて立ち上がらせてくれる間、キョーヤはいつもの涼しげな表情のまま。
 
あんなことの直後に平静であり続けるのは、わたしには難しいだろう。そう思ったからこそ、授業の合間にキョーヤの様子を盗み見ていた。校則違反の生徒を追い回す足も、風紀委員へ指示を飛ばすことばも、揺らぎはなかった――遠目には。本当はそうではないと、根拠のない直感が告げる。

「どんな風なの? 変わっちゃったの?」
「……何も、おかしなことはないよ」
「ほんと? キョーヤが痛いのとか苦しいのとか、嫌だよ」
「みどりが、僕を保ってるんだ」

 言い募るのを、頬をつつく指が止めた。見下ろす視線に、ごまかしも嘘もないのはいつも通り。

「僕の耳は聞こえがよくなった。異常なほど……だからこそ、ささいな音も拾いすぎて頭が追いつかなくなりそうになる」

 ソファーに落ち着く隣に腰かけると、長身が微かにもたれかかってくる。その重みが嬉しかった。持っている何かを少しだけ任せてくれたみたいで。

「君がそれを止める。乱れたものが元に戻るんだ。みどりに触れて、声を聞くと」

 背から回る腕にそうっと後ろから抱きしめられると、胸が締めつけられるよう。苦しいけど、それはどきどきして落ち着かないから。微かに感じる体温が優しくて、大好きで、わたしもキョーヤにもたれかかった。こうしてさらに引き寄せられると、完全に両脚の間に収まってしまう体勢。

「わたし、これ好きなんだ。背中いっぱいにキョーヤがくっついてくれるの」
「僕は、君の顔が見られなくなる」
「わたしも。でも好きなの」
「……そうだね」

 きゅ、と、少しだけ両腕に力が籠められる。

「僕も好きだ。みどりを捕まえてる気分になる」

 髪に頬が擦り寄せられる感覚がくすぐったくて、気持ちいい。規則正しく呼吸をする喉が、唇が、耳元にある。その音が秒針のように安堵と、わずかな眠気を誘うことすら。

「……ずっと前から、僕たちはこうだね。だから確信が持てない」

 耳に直接注がれる、低くて穏やかで大好きな声がある。キョーヤはどんな顔でわたしを見ているんだろう。大切なものを見つめる視線をしているという絶対の自信はあっても、一度急いで振り返ってまじまじ眺めてみたい。きっとわたしは見とれてしまうけど。

「それでもいいと、今わかったよ。君はきっとガイドなんだ」

 ――突然の指摘。

 わたしの人生観がひっくり返りかねないそれに、さほど動揺はなかった。その理由はキョーヤがすぐに教えてくれる。

「けれど僕たちは何も変わらない。そうでしょ」
「うん。わたしたち、どっちがどうなってもこうするんだもん」

 今度はわたしが、後ろから思いっきり抱き着いてみよう。この前みたいに笑って受け入れてくれるのをわかっていても、楽しい想像は止まらなかった。

 わたしがガイド。それでもよかった。キョーヤをもっと支えてあげられるなら――もとい、もっと触れられるなら。事実に反比例した楽観を知ってか知らずか、キョーヤは長い間わたしを放さなかった。

 ***

 一日経ってみても、やっぱり館はそこにあった。

「君はそう呼んでるのかい。それなら、そうしようか」

 キョーヤ公認で鹿鳴館になったこの場所は、改めて足を踏み入れるとますますわからなくなる。一階には談話室、厨房と食堂、浴場。二階は四つの個室。そのどれもが荒れていない。あちこちにある本棚にある古い紙の香りだけが、ここが現代に建てられたものではないという推測を生むのに。

「調子はどう?」
「……症状は落ち着く。調べがいがあるよ」

 広くはないけどなじみがなさすぎる、見当がつかなさすぎるという意味で手がかかる探索になりそうだった。頷いて辺りを眺めるわたしに、キョーヤは呆れたように声をかける。

「君も混ざるつもりなの」
「もちろん! キョーヤだけじゃ大変でしょ。それに心配だもん」
「そう。それなら、おいで。ひとりで進まないで」

 廊下の突き当りにある個室へ入る背中に、遅れてついていく。視界の端で、シャンデリアのような照明が天井できらめいた。

 中には最低限の家具が残っていた。勉強机と、下の収納スペースが空いたロフトベッド、アイボリーのカーテン。クリーム色の壁紙と相まって、可愛らしい印象だった。その中で、玄関のものと同じ色をした深紅のカーペットが際立って大時代的。

 カーテンと窓を開けるキョーヤとは別に、ベッドに上ってみる。すると、少しだけ色あせたマットレスの上に一冊のノートを見つけた。ブランドも持ち主の名前も書かれていない、まっさらな青の表紙。おかしなものではなかった――途中の数ページが破り取られていること以外は。

「何が書いてあるの」

 後から上ってきたキョーヤといっしょにノートを開くと、そこには筆で殴り書きをしたとしか思えない大きな文字が躍っていた。絶望的に読めないそれに思わず隣へ助けを求めると、キョーヤも首を振っている。

「漢字だとしかわからない。他の頁は」

 ぱらぱらと、間の飛んだ頁をめくる。すると、毛筆から他の筆記具を使い始めたらしく一気に線が細くなった。万年筆を使ったのか、少しだけインクの滲みのようなものがわかる。

「ひとの、名前……?」

 見開きの左側に、数文字の塊がふたつ。ちょうど、苗字と名前の間を少しだけ離すかのよう。キョーヤが覗き込み、無言で視線を滑らせた。

「そうだね。ひらの、おみ……そういう人間の名前らしい」
「知ってるひと?」
「いや。それに、これにも覚えはない」

 指さすのは、「ひらの おみ」と名前のある下の部分だった。薄い罫線に構うことなく右下がりの文章は、ほとんどがめちゃくちゃに塗りつぶされていた。その中で読み取れるものはたったのひとつだけ。

「この別館は俺たちにしか見えないらしい」

 別館。校舎の分館のようなものかもしれない。それが取り壊されないままここにあるなら、キョーヤが知らないということはよほどのことだった。その本人は軽くため息をついている。

「……わからないことだらけだね」
「夏休み中はここに通い詰めになりそうだ」
「連れてってね」
「わかったよ」

 ふと、目が合う。二段ベッドに上るのは初めてで、天井が近いぶんこうして窮屈に座り込む姿勢しか取れない。自然とキョーヤとの距離も縮まっていた。

「……生徒には都合のいい場所だね。こんなところを誰にも気づかれないなんて」
「何だか秘密基地みたい」
「小学生の感想だ」
「秘密基地ってわくわくするでしょー?」
「僕が言いたいのはこっち」

 するりと、長い指がわたしの前髪を梳いた。わたしのことを言っておいて、キョーヤだって楽しそうに笑いながら。

「みどりが僕に何されても逃げられない」

 額に、髪に、瞼に。ゆっくりと降りてくるキス。

 びっくりして跳ねた肩から背中を抱き寄せられると、まるで押し倒されているみたい。吹き込んでくる風だけが、上がっていきそうな体温を引き留めてくれる。

「逃げないよ」
「どうかな。恥ずかしがって離れようとしたことがある」
「そうだっけ……?」
「そうだよ。でもそれを封じられる」

 唇に触れる唇が、熱い。気づけばキョーヤの腕の中に閉じ込められて、熱を受け取るがままになっていた。反撃しようとしても、キョーヤの方が常に先手を取って。

「こんなの、こんなことしてたら、他の場所に行けなくなっちゃう」
「焦ることはないよ。時間はある」

 わたしの頬へ触れた後、そこをたどる視線になぜだかぞくぞくしてしまう。その瞬間思い出したのは昨日のことだった。キョーヤはわたしを、自分だけのものにしたいと考えている。

 今このときも。

「わかってる。みどりも、こんなことをしたいんでしょ」

 反論の余地はなかった。だって、言われたとおりだから。

 わたしの反応を都度楽しみながらの悪戯は、いつ終わるともわからない。