そのまま聞いているといい。
「僕はただ心配しているだけさ」
スプーンでカップの中身をぐるぐるとかき混ぜる手を止めないのは、琵琶坂となるべく目を合わせないためだ。ほのかな湯気が目を温めていくのが気持ちよくて、そのおかげで何とか平静を保てている。
冷静で、物腰柔らかで、博識。額面上は平和そうな相手なのに、こうしてお茶に誘われたときは生きた心地がしなかった。「ふたりで」の部分を強調された瞬間はとくに。カフェのテラスという、ほかの生徒が来ていてもおかしくないこの場所に本当にふたりきり。人払いでもしたのかと疑いたくなる。彼ならやりかねない。
「君が彼の道具にされているんじゃないかとね。最近はことさら」
鼓太郎のことを言っているのは明らかだった。琵琶坂が(珍しいことに)机に放っているスマホにはGossiperの画面が映りっぱなしになっている。そこに例の人助けアカウントが表示されているのだから。隅の通知ランプが控えめに点滅する。
「どういうことですか?」
「君も薄々感じているんじゃないかね」
「心当たりがないです」
「いやに強情じゃないか。らしくない」
喉の奥で笑っているのが、顔を見なくてもわかる。その指先はくるりと一回転したかと思うと画面を示した。
「巴君は誰でもいいから助けたい。その中に君も含まれているということさ」
午後の濃い影が落ちてくる。みるみる冷めていくミルクティーにやっと口をつける気になったのと同時に、店のドアベルががらん、と遠くけたたましく鳴った。
「君はいつも臆病で、腕力がないと嘆いて、選択に時間がかかって」
「そこまで言わなくても……」
けれど全部本当のことだ。
「そんな君は彼の格好の獲物だと思わないか?」
指先を向けられるのを、不快だとは思わない。きっと楽しげにしているだろう相貌を見るのよりはずっと気が楽だった。
「君の傍にいる間、巴君はいくらでも”人助け”ができる。欲求を満たせるんだ。マッチポンプ……とは違うか。何と言うんだったかな」
怖いもの、怖いことを前にして困っていると、差し伸べられる手がある。それは、見ていてくれるひとがいるからだ。彼がいつでもわたしを視界に置いている理由、それを琵琶坂は利己的なものだとしている。そしてそれがわたしにとってよくないものだと。
本当に?
答えは決まっている。
「いいのに」
「……何だって?」
本心が口をついたのを琵琶坂は聞き逃さない。ちらと視線を上げると、少し目を見開いた表情がある。ミルクティーをひと口、その間にかき消えてしまったけれど。
「君は利用されているんだぞ」
「それが本当のことでも、いいんです。わたしは本当に弱くて、部長に選んでもらったのだってきっと偶然で」
鼓太郎にはずいぶん目の敵にされた。それなのに、至らなさすぎる二代目部長に手を貸してくれたのがどれほど嬉しかったか。その思い出は未だはっきりとしている。
「だから、いつでも誰かに助けてもらわないとだめなんですよ。それで鼓太郎と利害が一致するなら、いいじゃないですか」
「わからないな」
琵琶坂の方はずいぶん小さなカップのコーヒーをすでに飲み干している。手持ち無沙汰にして、結局スマホをポケットにしまうのをどこかほっとしながら眺めた。不機嫌そうにしているのは少し怖いけれど。
「部長君、君はずいぶんと巴君に懐いているようだが彼の方は」
不意に琵琶坂の手が掲げられる。一瞬拳が飛んでくるのかと失礼にも身構えたが、その手は頭上から降ってくるトレイを阻んだのみ。
「おい、脅しじゃねえだろうな」
透明の大きなグラスの向こうから低く唸るような声が落ちてくる。琵琶坂の頭にトレイをぶつけようとした人物は、あっさりと諦めて机に落ち着いた(トレイ三つでかなり狭い)。衝撃で再び氷が音を立てるのとともに、琵琶坂はまたあの笑みを浮かべる。
「人聞きの悪い。ただ多忙な部長君を労っていただけさ」
「ほんとかぁ?」
訝しげな顔で訝しげに投げかけてくるのが、むしろ垂れてくる蜘蛛の糸か何かのように見えた。表情とことばが完全に一致するとわかっているやりとりがこんなに安心感のあるものだったなんて。
鼓太郎は眉を寄せてあちらへ、こちらへと視線を巡らせる。何となく焦ったような、よくよく見ればどこか息が上がっているような。そんなに深刻な話はしていないよ、そう伝わるように首を横に振って見せる。
「いつも臆病で、腕力がなくて、判断が遅いって言われた」
「何だほんとのことか」
「酷い」
「相変わらず仲のいいことだ」
呆れたように肩をすくめて、琵琶坂は席を立った。その視線はあからさまに、つまらないと訴えかけてくる。
「巴君、僕はそろそろ行かなくては。代わりにつき合ってやってくれ」
「始めっからそのつもりだっての」
鼓太郎の返事も聞かずに「ではまた誘うよ、部長君」とあまりありがたくないひとこととともに去って行くのに何の違和感もない。まるでこうなることが予想できていたように。
「何でここにいるってわかったの?」
「あー、偶然だ、偶然」
まるで彼と示し合わせたかのように、鼓太郎はスマホを机の角にぞんざいに置いた。隅の通知ランプが控えめに点滅する。
「暇なら来いよってメッセージ送って、それからここに来たらお前らがいたんだよ」
「メッセージ?」
「お前に」
鞄に入れっぱなしだったスマホを取り出してみると、確かに通知が一件。その間、鼓太郎は手のひらのガムシロップを上に放ってはキャッチしてを繰り返した。
「ごめん、気づかなかった」
「ま、結果オーライだろ……あ、いっしょだな」
「何のこと?」
「紅茶。俺レモンティーにしたんだよ、初めて飲むんだよな」
瑞々しい黄色をしたレモンの輪切りが眩しい。その前で鼻歌まじりにストローの包みを破くのを見ていると、いつの間にか濃くなっていた澱が晴れるような気がした。
「意外。鼓太郎ってオレンジジュースのイメージだった」
「好きだけどよ。ほら、こっちのが大人っぽいだろ? 何か、冷静って感じで」
「そうかも」
何でもない話。そのまま冷静でおなじみアオイロレンジャーの話題に移って、今度のイロレンジャー上映会を見に行こうとどんどん飛んで行って――先ほどまで目の前にどんなに暗いものが積もっていたか忘れていくのに時間はかからなかった。
「そうだ、鞠音」
「ん?」
「お前弱っちいんだからさ、ひとりでふらふらすんの止めろよな」
豪快にストローをかき回していた鼓太郎がふと手を止める。氷のぶつかる音がなくなると、辺りは通行人のさわめく声があいまいに散るばかり。
「うん……? いきなりどうしたの?」
「その、何だ、心配っつーか……ほら、いつ楽士が襲ってくるかわかんねえし!」
「うん。わかった」
「絶対だからな。それで、朝一番に映画館が開くのが……」
また、会話の流れがあちらこちら。冷めたはずの紅茶がほんの少しだけ温かくなって、カップを両手で包みながらその忙しさを気持ちよく受け取った。
だから鼓太郎の表情がいっとき強張っていたのはやっぱり気のせいだ。今はこの通り、嬉々として待ち合わせ時間を計算しているのだから。
投げかけられた疑念への答えは、あれ以上ことばにしなければ形にはならない。鼓太郎といっしょにいると楽しい。難しいことは置いておいて、それだけで十分だ。
「あれ? 鼓太郎、何かアプリが開きっぱなしになってない?」
「お……そうだな」
大きな手がスマホを易々と掴み、親指で画面を落とすとそのままポケットに放り込む。ちらりと覗いたのは、シンプルなアイコンの羅列。見慣れた、WIREの通話画面だ。
