一礼して生徒が走り去っていく。それを眺める鼓太郎は満足げに頷いてハイタッチを求めてきた。いつも輝いている瞳が今日はさらに眩しく映るのは、温泉前の広場に飾られた綺麗な照明のせいでもあるかもしれない。
「またひとり救っちまったな!」
「爽快だね」
「おう!」
ぱちんと小気味いい音は、まだ聞き慣れるには足りない。ホコロビに気づいている人数が少ない分、助けを求める声も比例しているのかもしれなかった。
みんなが満ち足りて、幸せなメビウス! そんな理想の中でも、鼓太郎の活動を必要とする生徒はわずかながら存在している。本当なら、困ったひとが出るのはよくないことだ。けれど、こうして鼓太郎と人助けをできる状況がほんの少しだけ楽しくなりつつある。
「お前がいてくれてよかったぜ」
あちこち走り回って体力自慢の鼓太郎も疲れたのか、屈伸を繰り返す。建物へ向かう数人の奇異の視線を気にもせず、しゃがみ込んだところからの視線がこちらを捉えた。
「また来てくれるだろ?」
「もちろん」
「だよな」
本心をそのまま返すと、嬉しそうに目が細められる。面映そうなそれが、たったひとりへのものだと気づいたのがいけなかった。
***
静かな朝だった。登校前の身支度の間、声をかける者は誰もいない。現実でもひとり暮らしだったから違和感はなかった。けれど、高校生という身分でこの状況は珍しい部類に入るのだと気づいたのはほんの数ヶ月前。そのきっかけは言うまでもなく。
帰宅部が好きだ。メンバーも好きだし、現実への帰還に向けて手探りの活動を続けるのも。だからこそ、たまの諍いがとても悲しくなる。
昨日は琵琶坂と彩声の大喧嘩を止めようとして失敗した。確か「これから出ていく偽物の世界に何を遠慮する必要があるんだ」と、「そんな根性が気にくわない」と、そんなことが発端だった気がする。
ふたりのほかには誰もいなかった。この場をどうにかできるのは自分だけ。それなのに間に割って入っておいて「喧嘩はだめ」と、それしか言えなかった。あんまり情けなくて、場違いに涙が滲んだのをむしろ困惑されたところに突如助け舟が突っ込んできたのは不幸中の幸いで。
彩声へ頭を冷やせと一喝し、琵琶坂を強引に部室の外へ引っ張っていく鼓太郎は、最後に目元にくしゃくしゃのハンカチを押しつけて去っていった。
「部長だろ、しゃんとしろよ」
ごもっとも。苛立ちとも呆れともとれるそのことばへのお礼に、ハンカチは洗濯の後アイロンをかけて可愛い小袋に入れておいた。パピコの何とかというお店のものだ。確か、ヘアピンを買ったときの。ピンクの水玉模様をした袋だけ突っ返される未来が見えるけれどそれはそれ、感謝が伝わればOKだ。
最初は乱暴そうな、怖い先輩だと思っていたけど全く違う。自分の正義に則った言動は清々しいほど真っ直ぐで、明るくて、突っ走りがちではあるけれど、その分いろんな壁をぶち破っていけそうな勢いがあって。逆に、本人は隠そうとしているけれどその素直さはとっても可愛い。つまりは何だか頼もしいのに頼りなくて、構いたくなる男の子。先輩だけれど。
今度の出動はいつだろう、そう考えるのが最近の楽しみと化している。誰かの困りごとを求めているのでは当然なく、鼓太郎と出かけられるのが嬉しかった。そんなことを思っていると、今このときのように家の鍵をかけたかどうか忘れてしまう。数歩戻ってドアノブを回して押して引いて、やっと出発できる。
静かな、朝だった。
マンションを出るときも、バス停までの道のりも、誰ともすれ違わなかった。違和感はなかった。いつもより早めに家を出たから、こうなっただけ。
「……」
バスを待つ間も、後ろに並ぶ生徒は現れない。始発でもないのに珍しいこともあるものだ。鞄から音楽プレーヤーを出そうとした手を何となく引っ込める。違和感は……なかった。そんな日もある。
見渡す限り、本当に景色しかない。立ち並ぶマンションや戸建住宅。手入れの行き届いた街路樹。雲ひとつない快晴。動くものはなかった。しばらくしてからゆったりと滑り込んでくるバス以外は。
「……」
聞き慣れたエンジン音とともに車体が揺れる。乗り込んだ中に先客はいなかった。朝の明るい光が射す車内は、静寂ばかり満ちるせいで耳鳴りが聞こえそう。頭上で吊革が揺れるのを、隅の席でぼんやりと眺めた。
「……?」
静寂。いつものアナウンスさえ響かない、無言の車内。
「えっ」
立ち上がって運転席を覗き込む。そこには、ハンドルがひとりでに動く無人の空間がぽかりと口を開けていた。
いい加減に認めないといけなくなる。
今日は違和感しかなかった。
バスが学校に着くのがこれほど待ち遠しかったことはないだろう。定期券をタッチせざるを得ない自分の律義さにやきもきしながらバス停に飛び降りた。
「鼓太郎!」
無人の昇降口を走り抜ける。
「鼓太郎!」
扉が開け放たれた教室を流し見ながら廊下を走る。
「鼓太郎!」
「うるせえ!」
やっと返ってきた大声に、安堵のあまり腰が抜けそうになった。最後の望みとばかりにほとんど蹴破った部室のドアの向こうには、スマホを片手に窓から身を乗り出したまま振り向く鼓太郎の姿だけがある。
バスを飛び降りてからというもの、もうNPCでもいいからと半ば祈るような心持ちでいた。しまいにはデジヘッドでも構わないとヤケになりかかり――こうして見知った顔を探し出したときには緊張の糸が一気に緩んだ。
「おい、何ともないのか!? ケガとかデジヘッドとか楽士とか!」
へたり込みそうなところを支えられたかと思えば、がくがく前後に揺らされて忙しない。いまいち加減を知らないのがいかにも鼓太郎らしくて逆に安心するのはこの非常事態のせいだ。
「うん、うん。わたしは平気。鼓太郎は?」
「俺も大丈夫だ。けど街中も学校もどこにも、誰もいねーんだよ! 校舎三周はしたぞ、確か」
「あ、スマホ! ねぇ、誰かに連絡とれた?」
「いや、さっき充電切れちまった」
けれどきっと、そんなことがなくても誰とも連絡がつかなかった。走りながらメッセージも通話も試したのにひとつの返事も来ないのだから。エラーを吐くでもなく、まるで投げかけるすべてが虚空に消えていくように。
もう何がなんだか、どうしよう。そう弱音を吐きそうになるのをぎりぎり止めた。昨日の今日でそんなことはしたくない。気づかれないように深呼吸、これで切り替えないと。レスキューマン二号はこんなことで動じてはいけないのだ。
いちばん大切な「この状況は何だ?」という疑問にも。
「鼓太郎、探しに行こう!」
「当然だろ! 行くぞ!」
「あ、そうだ昨日のハンカチ。ありがとね」
「おう」
忘れないうちに返す。状況が状況だからかもしれないけれど、袋ごと受け取ってくれてひと安心。
「……で、何を探しにどこに行くんだよ?」
いかにも軽そうなリュックサックを振り回しながら小走りに先を行くのを追いかけながら考える。
早速出発したはいいものの、さっきのは我ながら見切り発車すぎた。誰もいない駅前は寒々しくて、こうして動いていないと怖気づいてしまいそう。コンビニ以外はどこも開店前の状態だ。明かりも落ち、店内の暗闇が道路にまで滲む。
「μに会いに行こう」
「μ? 何でだ?」
「メビウスって、μが維持してるでしょ?」
仮説を組み立てながら、頭では子どもの頃のブロック遊びが浮かぶ。あちらの建物が作れないからと、そちらの建物を崩して材料にするような。
「きっとμに何かあったんだよ。だからギリギリまでリソースを自分に回して、その拍子に視覚情報の再描画に問題が」
「は?」
「えっと、要するにμが原因を知ってるはずってこと」
「あー、なるほどな! けどよ、居場所に心当たりあるか?」
「ない……でも、今まで行ったことがあるところは、どうかな」
様子のおかしいデータを直すのはやはりデータだ。メビウスは生徒たちが、つまりはその存在のデータがないと成り立たない。μも今のわたしたちもデータの塊のようなもの、という何となく悲しくなることばは伏せておく。
「μが来るってわかってるところに、たくさんのひとが集まってたでしょ。その逆もあるんじゃないかな」
「ゲリラライブもそうだったな。んで……学校以外のとこか? そんじゃあ、遊園地じゃねぇか?」
「行ってみよう」
「ちょっと待て、その前に」
鼓太郎が指差したのは最近リニューアルしたばかりのコンビニだ。新装開店記念、ドリンク二十円引きという赤文字の大げさなポップが窓に張り付けてあるのが賑やかで、この状況とのミスマッチ加減が浮き彫りになっている。
「いいか、ここからは長丁場だ。ちゃんと準備しとかねぇと持たないだろ」
「うん、うん」
「何息切れしてんだよ……」
「だってさっきから鼓太郎が足速いから」
「そうかぁ? お前の足が短いんじゃうわ危ねぇな!」
帰宅部最長の男に言われたくない。回し蹴りを外した(これじゃ本当に足が短いみたいで悔しい)ついでに、何の話をしていたのか忘れてしまった。「非常食だよ」と勇んでそして嬉々として、鼓太郎は無人の店内に入っていく。
「非常食って、おにぎりとか? いいのかな」
「いいだろ。あー、セルフレジ? ってヤツがあるし。俺使ってみたかったんだよな!」
「まあ、それなら……」
鮭おにぎり、焼きそばパン、ツナマヨおにぎり、カツサンド。自分では一日かかっても食べきれなさそうな量が選ばれていくのを何となく眺める。これはどう考えても遠足のテンションだ。「おやつは三百円まで。どれにする?」そんな感じ。さっきまで切羽詰まって校内を走っていたのが夢のよう。それもこれも”どうにかする”という目標に向かってブレない鼓太郎の影響を直に受けているからだ。
「鼓太郎って、強いの? 図太いの?」
「喧嘩売ってんのか?」
「だって、全然不安そうに見えない」
「不安だけどよ、今はそうやって止まってられないだろ」
その、止まらないのがとても難しい。この状況は何だろう? どうしてこうなったんだろう? もしどうにもできなかったらどうなるんだろう? 考えても仕方ないことをそうと気づくのは大抵すべてが終わった後、客観視できる余裕ができたころだ。鼓太郎にとっては雑念でしかないこんなことにいちいち躓いてしまうのは、気持ちが弱っているからだろうか。
――なんてことをことばにするのもとても難しい。困って押し黙ってしまうのを、鼓太郎は大体正しく汲んでくれた。呆れたようにため息をつくのは「仕方ねぇな」の代わりだ。今までずっと相棒を務めているんだからよくわかる。
「お前は考えすぎ」
「そうかも」
「無駄に頭いいと不便だな」
「それも、そうかも……えっ、それって」
「あっ、ちげーし! ちげーし! 俺はちょうどいいくらいに頭いいんだよ!」
「まだ何も言ってない」
「いいから出動準備だ!」
ぽいと放られる包装を慌ててキャッチする。チョコチップでテディベアの顔が描かれた、丸いクリームパンだ。ふわふわとしたそれを投げてよこした当人は得意げに断言する。
「それ気に入ってただろ」
「うん、ここのだといちばん好き。よく知ってたね」
「まぁな!」
鼻高々な笑顔が返ってくるのを見ていると、本当にどうにかできてしまいそうな気になる。伊達にレスキューマンのリーダーをやってはいない。
「じゃあ、今日はこれにしよう。あとはお茶かなぁ」
「嘘だろ、それだけか?」
「足りるよ」
「足りねぇよ!」
もうひとつぞんざいに持たされたのは、絶賛放送中の特撮ヒーロー番組とタイアップしたスティックパンだ。一本増量中のお徳用、子どもに嬉しいカルシウム配合……なんて売り文句が懐かしい。昔よく買ってもらっていた。
「後でおまけのシールあげるね」
「いらねー……いや、やっぱいる。サンキュ」
***
太陽神殿、ゼロ。水族館、ゼロ。チケット売り場も閉鎖区画も、どこもかしこも。ここに着いた真昼から早数時間、歩きに歩き続けた足は軽く痛んでくる。
結果から言うと、大ハズレだった。水族館の中心で鼓太郎は大声を張り上げて落ち着かない。
「何でだよ!」
「わかんないよ……」
「お前が人が集まる場所って言ったんだろ!」
「μがいるかもねって話だったでしょ。おいしい」
「そうだけどよ! うまい」
ふたりでお行儀悪くスティックパンを頬張りながら(一本くれとお願いされたのは数分前)、真っ青に染まった通路を歩く。カップルはともかく職員NPCのひとりがいてもいいものだというのに、あるのは綺麗にライティングされた水槽だけだ。丁寧なことに、その中を泳ぐ魚もいない。
「おーい、いねーのかー?」
それなのに、ひとりでいた朝ほど寂しくならない理由は今まさに服を着て隣を歩いている。よく通る大声に答えるものは何もないけれど、それでも。
「鼓太郎、口の端。カツの衣がついてる」
サンキュ、と、ポケットティッシュを丸ごと受け取ることばすら反響する。綺麗に磨かれた水槽の硝子に近づくと、ぽこぽこと空気が送り込まれる音が微かに届いた。二人分の声、二人分の足音、水族館の空気を震わせるのはこれだけだ。
前にここへ来たのは、楽士を探していたときだ。デジヘッドを蹴散らしミレイと交戦し、と、とにかく悪い方向へ賑やかだったことを思い出す。琴乃とミレイの熾烈すぎる舌戦に震え上がった帰宅部のメンバーは鼓太郎だけではないことも。
「何か気味悪いんだよな。大体誰かいただろ、ここ」
「主にデジヘッド」
「熱出して寝込んだときの夢みたいだ」
「そうだね」
理不尽で意味不明な光景、を表すのに的確すぎることばに頷く。そうしていると、廊下を結ぶ中継地点のひとつにたどり着いた。その途端に備えつけのソファーにふらふらと沈み込んでしまった鼓太郎の頬を軽くつねってみる。意外と柔らかい。
「いてててて」
「やっぱり夢じゃないんだよ」
「わかってるっての! 俺で試すんじゃねえ!」
「いたたたた」
お返しに頬を軽く引っ張られる。その勢いを流そうと隣に座り込むのを、鼓太郎は楽しく眺めていたわけではなかった。大笑いの後、思いきり揶揄しようと笑んでいた唇は寒さにかじかんだように凍りつき、本当に微かなことばが零れる。
「ほんとに、これ夢じゃねえよな」
「……うん」
「俺たち以外みんないなくなっちまったんだな」
「まだわからない。心当たりは全部探さなくちゃ」
「お前は、ちゃんとここにいるよな」
「いるよ」
「……そうだよな」
――何かことばを続けようとして止めたのを、見た。揺らがず見つめてくる視線は変わらないまま、滞りを黙って呑み込むのを。その頬が青ざめているのは、辺りに満ちる光のせいだと思いたかった。ゆらゆらと穏やかに揺れる、透明な色。
「鼓太郎」
「何だ?」
「大丈夫だよ。相棒は相棒のそばからいなくならない」
「そこは心配してねぇよ」
強張った表情をようやく崩して、鼓太郎は笑った。
「けどなー、お前強いからってひとりでふらふら離れてくときあるだろ」
「だってスティグマが落ちてるから」
「不意打ちから俺が助けたの昨日で何回目だと思ってんだ?」
「ごめんね反省してる」
もしものときは鼓太郎が来てくれるから安心してつい、なんて本当のことを言ったらこじれそうだから止めておく。積極的に前に出る割には後ろにいる仲間たちのこともちゃんと見えている、助けに入ってくれる、鼓太郎はそういう人間だ。
「わかってんならいいんだよ。その調子で俺から離れんな」
「了解です」
「よし! んじゃ戻るか、仕切り直しだ!」
「おー」
勢いをつけて立ち上がった鼓太郎の後ろをついていく。
「袖を摘めとは言ってねぇ」
***
「鼓太郎……」
「おう……」
思わず腕を掴んでも鼓太郎はほとんど無反応だった。ふたり並んで、ただ呆然と目の前の光景を眺めるばかりで。
日は傾いて、すでにまぶしいほどの夕日が差してきていた。影が長く、濃くなる時間、微かな風の音を掻き消すノイズのように押し寄せてくる波の音。比喩ではない、本当に波。
「嘘だろ」
シーパライソのゲート、その真正面に海水浴場が現れていた。整えられた森に囲まれ、とてもじゃないが遊び場とは呼べなかった(遊べるならそれなりに人が集まっていたはずだ)場所が。それが今では駐車場や更衣室などの施設をコンクリートで縁取り、きちんと整備されたものに変貌している。「海水浴場」と聞いて思い浮かべる人工の海辺がそっくりそのまま、ここにはあった。
「なかっただろこんなもん」
「なかった、絶対なかったよ」
「ありえねー……」
これで仮説は完全にひっくり返った。ひと口に海とはいっても、目の前にあるのは砂浜波打ち際水平線すべてそろった完全体。おまけにパラソルが備えつけられたリゾート仕様。リソースが足りないのならこんなものを急ごしらえすることはできない。μは意図してこの領域を作っている。
「本物か? そう見えるとかじゃなくて」
「多分……ちゃんと波が来てるもん、行ってみよう」
高台になった駐車場から飛び降りて、海に向かって砂浜を歩く。途中に落ちていたビーチボールを拾い上げたところに、遅れて鼓太郎も降りてきた。
後で靴に入り込んだ砂を払わないといけない。そんな細かいことより、今はこの開放感が気持ちよかった。深呼吸すると、夕方の少し冷えた空気が潮の香りと混じっているのがわかる。
後を追ってくる鼓太郎のものが重なり、さくさくとした足音が増える。わたしの分は、すぐ水面に足を取られてばしゃばしゃと騒々しいものになった。波打ち際は透明な泡を浮かべて微かに光を返す。透明なのは海面も同じで、かなり離れたところでさえ砂の色が透けて見えた。傾き具合を見ると、どうやら遠浅ではないらしい。
「うわマジで海なのかよ……って、おい入る気か?」
数歩戻って裸足になった途端、鼓太郎が慌てたように叫んだ。ありえないありえないと、途中で立ち止まりながら辺りを見回していたせいで少し離れたところから。
「海なんて久しぶり。ちょっとそこまで」
後ろ向きに歩きながら大声でそれを言ったときには、揺れる水面に足を取られて動きづらい両脚は膝まで海に浸かっている。そのうえ冷たい海水のせいで余計な体力を消費しているような気がした。それなのに、歩みを止めようとは思わない。まだまだ進める、もっと奥まで行ける。もしかしたら海中も作り込まれているのかも――。
「何でだよ!」
「何でって……」
当然の疑問。鼓太郎の大声は足も思考も立ち止まらせるには十分だった。何でこんな思い切ったことをしたんだっけ。答えられない隙にコンパスの差であっさりと追いつかれ、腕を引かれた。軽く息が上がったわたしに対して、鼓太郎はどこか焦ったような面持ちで息を詰まらせる。恐ろしいものを直視して息を潜めるように。鼓太郎の靴に完全に海水が滲みただろうころ、ようやく声が聞ける。激昂したものだったけれど。
「だめだ、それは……とにかくだめだ、絶対!」
――泳がないから溺れない、そんな話ではないことはすぐにわかった。鼓太郎は本当に怖がっている。得体のしれないものの向こう側にわたしがいなくなること。夕日の明るさか、それ以外のもので目を細めて、泣いているように見えた。そんな彼を置いて、どこに行けるはずもない。
さっき逃したものの正体はこれかもしれない。鼓太郎が恐れるもの。口にはできなくても、如実に表に出てしまうもの。それは引き留めるこの手が物語っていた。
嬉しいと感じるのは、危機的状況に疲れた頭が間違って弾き出した感情ではない。
思いきり海に浸かって少し冷えてきた足で鼓太郎に直面すると、埋まっていたらしい貝殻の丸みがつま先に当たる。涙を拭うにはこの身長は少し高すぎるな、と場違いに思った。
「深いところには行かない。危ないでしょ」
「ほんとか?」
「ほんと」
「……何でこんなことしてんだよ、子どもじゃねえだろ」
ため息交じりの安堵したことば。そう、子どもじゃないからちゃんとした理由を持っているべきだ。それなのに、ここにふたりでいるのは衝動的な行動が原因で。
改めて考える。何でこんな思い切ったことをしたんだっけ。本当に考えなしの軽いものだったか。
そんなことは、ない。けれど、鼓太郎だけには本心を話すわけにはいかなかった。
「鼓太郎と遊びたくて」
だから遠回しにしか伝えられない。
「……はぁ?」
「本当なんだよ、これも」
拍子抜けされたところにたたみかける。ふたりだけで遊ぶことはたくさんあったけれど、それで満足できるほど謙虚な心は持っていない。もっといっしょにいたい。できるなら、ふたりだけで。
そんなことは、言えない。少なくとも今は、そして本人の前では。
「それどころじゃないのはわかってる。でも、お願い」
知らず、ビーチボールを持つ両手に力がこもる。理由のないお願いほど、聞き入れがたいものもないのは知っている。だから、これは拒絶される前提のものだ。わかってはいても、自然と視線が下がるのは不可抗力で。
鼓太郎は黙って、手を伸ばす。
「……何か隠してんだろ? 気に食わねぇ。つーか、こんなときじゃなくてもな」
大きな手がひょいとボールを奪っていく。苦もなく片手で。少し驚いて空になった自分の両手を眺めていると、大股で距離を離す鼓太郎がいる。振り返ったのは呆れ顔で、でもこんな場違いなわがままを許容してくれた笑顔だった。
「いつでも言えよ。お前とならどこへだって遊びに行くっての」
「……うん」
「だからそーいう……何か、一生のお願いみたいな顔やめろよ。ほら行くぞサーブ!」
「わ……っ」
それはスパイクでは、と思うほど勢いのあるボールを何とかレシーブした。加減がない。けれどその鋭さが、いつまでも続きそうな後ろ向きの気持ちをすっぱりと断ち切ってくれた。
「おー、やるな。俺が先制するかと思ったのに」
「わたしだって少しは強くなったでしょ、えい」
「へいへい」
余裕を持ってトスできる絶妙な距離。ボールの動きに注目するから、鼓太郎の顔は見えない。長い腕で、大きな手で危なげなくボールを捉えるのがわかるだけだ。
「なー、ほんとのこと言えって」
「どうやって言ったらいいかわからない」
「じゃあ今からマッハで考えろよ、っと」
「この状況で!? うわわ」
鼓太郎のボールはわたしが返しやすく一点集中しているのに対して、わたしの球筋はブレにブレる。返球に精一杯のところにさらに課題が積まれ、しばらく無言で考えることを余儀なくされた。
鼓太郎は急かすこともなく待っていてくれる。
白状するべきじゃない。だから、考えるのは核心を極限まで希釈した建前だ。それは、完全に明後日の方向に放り投げる嘘をつきたくないから。そしてそれを受け取るのは鼓太郎だ。よりによって。
「……鼓太郎はね、気持ちが折れ線グラフみたいだよね。嬉しいとか、悲しいとか、てっぺんと底辺で線が行ったり来たりする」
「んだよ、いきなり。極端ってことか?」
「うん。でもね」
ぽん、ぽん、小気味いい音を立ててトスは続く。
「たまに、それが真ん中に近くなるんだよ。微妙な変わり具合」
「そうか? 全然わかんねぇ」
「そうなんだよ。わたしにだけね。わたしといるときだけ」
「……」
「嬉しいなって思った。それと、これからもわたしだけのものならいいなって」
――手元が狂って、ボールは鼓太郎に届くことなく水面へ向かって落ちていく。ぱちゃんと海面を叩く音で我に返っても、今起きたことは夢にはならない。
「思った……」
ぷかぷかと気楽に浮かぶそれは、内心と反比例する。同じだ。一度落としたものを落とさなかったことにはできない。
本人に言えないとさっき頭をよぎったばかりなのに! そんな重大な隠しごとがうっかり口をついて出てきたせいだ。止められなかった。
言えない、それは一生伝わらないことと同義だ。それでも幻滅されるくらいなら黙っていた方がよほどマシだったのに。そんな自衛の言い訳は、周りに聞く者のいない今、あっさりと崩れた。
あの日向けてくれた、柔らかい笑顔を見るのはわたしだけがいい。ひとり占めしたい。そのためには、この状況はうってつけだった。現実へ続く手がかりも、仲間たちも、そんな大切なものがなくなってしまったメビウスは。
「ねぇ、このままこうしてようか」
「どういう意味だよ」
「わたしが、いいなって思った通りに。このまま帰って何もしないの。何も変わらない。次の日もその次の日も」
ちゃぷ、と、小さくボールが揺れる。しばらく、鼓太郎はそれを拾い上げる素振りはおろか見下ろすこともなく真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「鞠音」
オレンジ色が目に滲む。黄昏時は、目の前の表情も隠してしまうほど強い光を連れてくる。それでも、その視線が外れていないことはわかった。鼓太郎はわたしを見ている。
「本気で言ってんのか」
上も下もないニュートラルな声色。感情が読めない、低い声。こんなことは怒って当然なのにそうとわからないのが、鼓太郎を相手にすると異質なことに感じた。鼓太郎は気持ちを隠せないし隠さないから。
ひとつ、ふたつ、それだけ近づいた。唇を真一文字に引き結び、微かに眉を寄せた苦い顔が影の向こうから見えてくる。悲しくて、怒鳴りたくて、情けなくて、そんな気持ちをないまぜにした上から無表情で覆ってしまいたくて、それに失敗した表情。
ここで謝るのは間違っている。鼓太郎が聞きたいのはそのことばじゃなく答えの方だ。
したいことと、正しいこと。天秤にかけるまでもなく正解はわかっている。それを選ぶのに、わたしの気持ちを無視することが求められるだけ。
鼓太郎がほしいのはいつだって正しいことの方だ。したいことの方を押し殺すのは慣れている。メビウスでも、現実でも。だから鼓太郎のほしいものをあげられる。少し体のどこかが痛むのを我慢すれば、何の問題もなく。
「本気だよ。でも間違ってる」
「つまり?」
「もう行こう。全部、元の状態に戻さなくちゃ」
砂浜を指差す。鼓太郎は「そっか」とだけ口にして、頷いた。どこか拍子抜けしたような、安心したような、力の抜けた表情で。
***
「何で俺がずぶ濡れかわかるか? あ?」
「ちょっとテンション上がったわたしのせいです……」
「お前のせいだこれは。これだけはお前のせいだ」
「ごめんなさい……」
パラソルの下に運よく放置されていたタオルで水気を取っても、まだ足先が冷える。一方、濡れた靴下は捨てて、素足にシューズ(もちろん乾いていない)という釈然としない組み合わせになってしまった鼓太郎は耳の痛い文句をひと通り投げ出した。色の変わったスラックスの裾を雑に折り曲げて、脛が出ているのがいかにも寒々しい。
シーパライソから駅への直通バスは、ダイヤ通り運行していた。出発ぎりぎりに飛び乗ったステップには透明な足跡が残ったまま。沈みかかった夕日が作る影は長く伸びて、車内を黒く塗り潰す。
「疲れたのか?」
「相手チームの執拗なトスを受け続けて……」
「んだとぉ?」
「冗談」
鼓太郎が言い出したのは、向かいに座るわたしが小さく欠伸をこぼしてしまったからだ。砂浜で、靴がべたべたで気持ち悪いと喚くころには鼓太郎はすっかり元の調子になっていた。とんでもない欲求を聞いてそれでもそう接してくれるのが嬉しくて、それ以上に信じられない。酷い裏切りを食らったようなものなのに。
「何で許してくれたの?」
「秘密だ秘密、教えねー」
尋ねても答えてくれない不満は、バスの揺れとともに深くなる眠気にかき消されていく。瞼が重く、思考が鈍くなるのは目に見えて明らかだったようで。それにしても、いつもの体力なら水族館あたりで電池切れもとい寝入ってもおかしくないのによくここまで保ったものだ。意識してはいなくても、気を張っていたのかもしれない。そして一度肩の力を抜いてしまった今、その誘惑は勢いよく押し寄せて来ている。
「まだかかるし、寝てたらいいだろが」
「何かやだ」
「やだじゃねぇ。つーかほっといても寝るだろ、それは」
「起きてる……」
「そーかよ」
「だから何か話してて」
「俺に振るな!」
その後に「仕方ねーな」が続くのが鼓太郎らしい。うんうん唸る声すら心地よく響いて逆効果になりそうだけれど。
「あー、そうだ。結局見つかんなかったな、μ」
「そうだね」
「これからどうすんだ?」
「駅前を少し回って、帰ろっか……」
そのころにはもう日も暮れて、辺りは街灯頼りの暗闇になっている。そこまで深刻な広さでもないと脳裏にその光景を描いていたのは、鼓太郎の思いも寄らないことばに中断してしまった。
「ふーん。平気なのかよ?」
「平気って?」
「お前、家に行ったらひとりぼっちになるだろ」
「もともとひとり暮らしだから大丈夫」
とは言ったものの、今はこんな異常事態だ。いつもの心持ちで過ごせるかと聞かれたらとんでもない、無理に決まっている。きっと次の日からのことが気になってなにも手に着かないし寝られやしない。ぐるぐると回って止まらない不安がもたらす不眠の威力は身を持って知っている。明かりを落として真っ暗になった部屋の中で、考えること全てが後ろ向きになってお腹に落ちていく様は簡単に思い出せた。
「あー……そうだっけか。もしだめだったら俺んちに来ればって思ったけどよ、あっ家族がいるか! いや今はいないのか」
「やっぱり大丈夫じゃない……」
「あ?」
「鼓太郎といる」
自分でそう口にしたことばには何だか安心感があった。鼓太郎がいてくれるならすぐにでも眠れそうだ。今この瞬間のように。揺れて不安定な床を歩いて鼓太郎の隣に腰かけ、その肩に寄りかかった。枕代わりにしては少し高めだけれど、これなら問題ない。
――少しの間、無音がその場に満ちた。軋むように身じろぐのが伝わって、鼓太郎がこちらを見下ろすのがわかる。衣擦れの音すらぎこちなくて。
「……何してんだ?」
返ってきたのはぽそりとした、平坦な小声だけ。驚きのあまり、といったように反応が薄いのが可愛くて、欠伸を噛み殺すふりで笑いをこらえた。どんな表情をしているのか見られないのが残念なくらい。
「うん。ちょっと考え直した」
「へー……? まぁ……いいや。寝てろよ、見ててやるから。着いたら起こすかんな」
「ん」
そのまま思考停止していてくれますようにと不謹慎に祈りながら目を閉じる。瞼を透かして差し込もうとしてくる日は落ちかけて、ほとんど眩しくない。ごとん、と一度大袈裟に揺れる車体はきつめにカーブして、何色ともつかない塞がれた視界でもだいたいの現在地が把握できた。
こんなにも凪いだ気分でバスに乗った記憶はない。楽士を探しに行くだとか、どこかに遊びに行くだとか、どちらも方向は
どうあれ気分は高揚していた。その点で言うなら、今ほど緊張しておかなくてはいけない場面もないだろう。けれど現状は真逆で、あまりにも許容量の足りない相棒を許してくれるのに甘えている。
何で許してくれたの? 疑問は繰り返す。
「……部長だろ、しゃんとしろよ……」
鼓太郎の手が肩を支えて引き寄せてくれるのを感じる。返事はほとんど声にならなかった。疲れと、それを何百倍も上回る安堵が意識を深く深く沈めていく。
低く唸る空調の稼働音が、とろとろと輪郭を曖昧にしながら全身に溶けた。隣の少し高い体温がそれに混ざって、落ち込んでいた自分と場違いに浮かれている自分とを緩やかに宥めていく。
「……寝たか?」
落としすぎて掠れた声が降りてくる。
(寝てないよ、寝そうだけど)
柔らかい音色が嬉しくて、無心に聞き入った。狸寝入りに気づかないまま、鼓太郎は少しだけ手に力を込める。
「間違ってるけどさ、今くらいいいんじゃねーの」
――あまりに身勝手な願いは叶わなかったけれど、未練はほとんどない。今がその証明だった。バス停に降り立つとともに終わってしまう時間だとしても。
「ん……?」
信号待ちに入った、エンジンの引っかかるような音。それに紛れた小さな声に耳を澄ました途端。
「おい、おい鞠音あれ、あれ!」
容赦のない揺れに目を覚まさざるを得なくなった。もちろんこれは悪路を走り始めたわけではなく、鼓太郎に雑に揺さぶられているからだ。寝ていろと言った張本人の暴挙に抗議しようと目を開けると、指し示される光景がある。
遠い屋上。学校のものだ。夜に沈み始める空を薄ぼんやりと照らす白い光が灯っている。
白、それで連想するものは鼓太郎と一致するはずだ。止まったバスから降りた後どこへ向かうべきかも。
その結果、絶え絶えになる呼吸のせいで大げさなほど喉が痛んだ。屋上の冷たいモルタルの上で耐えきれずに崩れ落ちたところに駆け寄るのは白い爪先。
「どうしてそんなに疲れてるの?」
「全速力で階段上ったから……」
「俺はまだ行けるけどな!」
「体力お化け……」
「お前の訓練不足だろーが!」
膝をついたところを覗き込んで、μは「今日もお疲れさま」と笑った。曇りのない可愛い笑顔を前に、お疲れなのは君を探していたからだよとはとても言えなくなる。
「ねぇ鞠音、どうだった?」
「……本当に楽しかった。ありがとう」
「よかった! やっぱりそうだと思ってたんだ」
今回のことについて、当然μと直接ことばを交わしてはいない。けれど、この反応を見ると何となく察しがつく。
μはわたしたちの目にだけマスキングした。メビウスは変わらずそこにあって、わたしたちとそれ以外の生徒、その相互認識だけが機能しなくなっていた。これなら余分かつ多大なリソースを割く必要はない。その証拠にμはにこにこと元気だ。
「でも、ごめんね。やっぱりわたしたち元の生活に戻りたい」
「……そっか……」
ここばかり明るい中では、μの白はよく映えた。星が瞬き始めた夜空の下で寂しげに俯く仕草ひとつさえ、映画のワンシーンのように絵になる。目の前にいてなおμは至高の存在だった。敵対しているといっても過言ではない立場だというのに、それでも変わらず包み込んでくれる神さま。
「君たちが幸せになれるかと思ったけど、違ったんだね」
「幸せだったよ。それでも……」
「……うん、わかった。ふたりが眠って、目を覚ましたらいつも通りになるよ」
「ありがとな、μ」
「うん」
μは微笑むと、ようやく立ち上がったわたしの手を取った。鼓太郎の手のひらも導いて、重ね合わせる。
優しい目に見つめられると、気持ちをごまかせなくなりそうだ。今はそれでいい。きっとμに嘘は通用しないし、つきたくない。わたしだけに都合のいい世界は暖かくて離れ難いのだと、それでも受け入れることはできないのだと。
「それにしても、君たちは本当に仲良しなんだね。嬉しい!」
「そうだよ。鼓太郎のこと大好き」
「……おう」
上に乗る大きな手が微かに震えたような気がした。
――μはわたしの願いを叶えてくれた。そのためにはこうして鼓太郎を巻き込まないといけなくなる。ひとりの幸せのために、もうひとりに負担を強いるのをμはよしとできるだろうか。その歪みを抱えたままこんなにも無邪気に、μは笑えるだろうか。
この状況に至る経緯に、鼓太郎の意思は全くの無関係だっただろうか。
「鼓太郎」
見上げた先には、あ然とした表情がある。少し目を見開いて、まるで思いがけないものを見つけたような顔を向けている。
「鼓太郎、何か願いごとがあったの」
それは質問の形をしてはいたけれどほとんど確信に近かった。きっと本人は全く意識せずにお腹の奥に隠し持っていたもの。その形が想像とぴったり重なるなら――。
これ以上に喜ぶべきことはないだろう。
「……それは」
「それはね……」
鼓太郎とμの唇は、それぞれ同じことばの輪郭を描いた。
音はない。
***
「どこ行っちゃってたんよ! 丸一日! ふたりで!」
鈴の鳴るような可愛らしい声を張ってアリアは開口一番ぶちまけた。目覚まし時計もかくやのそれは耳に突き刺さって、朝の眠たい頭に毒でもあり薬でもあり。
目を開けた先は自宅の天井だった。まるで何もかもをリセットしたかのように、始まりはよく晴れた気持ちのいい朝で。壁のハンガーにかかった制服の胸ポケットから飛び出してきたアリアに散々責められながら身支度を整えるのも違和感がない。
本当に、あるべき日々に戻ってきてしまったんだ。メビウスの中でこの表現が正しいかはわからないけれど。
「YOUも鼓太郎も、全然連絡つかなかったんよ。まさか楽士に捕まったんじゃないかって大騒ぎ!」
「ほんとだよ。何もなかった」
「無事でよかったぁ……」
「心配かけてごめん」
指先でふくふくの頬を撫でていると、バスは学校前に着く。顔のぼやけた運転手も乗り合わせた生徒も、変わりなくそこにいた。真っ先に向かった部室でたったひとり突っ立っていた鼓太郎も。
「おはよう」
「おう……よかった、ちゃんと帰れてたんだな」
「アンタも! 永至と殴り合ってケガしたんじゃないかってみんな心配してたってば!」
「は? 何だよそれ!?」
鼓太郎はともかく琵琶坂にそんなアグレッシブなイメージはない。――と笑うに笑えないのは、あのふたりの仲違いがなかったことにはならないからだ。今日こそは仲を取り持てるといい……そう考えても自信はない。
「あ、もう来るって!」
「誰のこと?」
「彩声と永至! 呼び出しといたんよ。朝一番に! ここにって!」
その目的は明白だ。何の足音も気配もない廊下へアリアは飛んでいく。一気に静寂に取り残されたこの部屋で、先に口を開いたのは鼓太郎だった。
「あのさ」
「うん」
「……聞こえたか? 昨日俺とμが言ったこと」
「ううん」
「……そっか」
どこか肩の力が抜けたように頷くのを見る。残念ではあり、それを上回って安心でもあった。思い返せば自惚れもいいところの予想図が本人に否定されていたかもしれないのだ。期待を裏切られることへの予防線を張るのに抵抗がないのは悲しむべきことだろうか。
鼓太郎が、わたしだけとそこにありたいと願ってくれた、だなんて。
「いつも通りだな」
「そうだね」
「昨日のこと夢みてーだ」
「夢じゃないよ」
とっさに思いついた悪戯。背伸びして、俯いた頬にぺたりとシールを貼りつけた。スティックパンに同封されていたぺらぺらのヒーロー。跳び上がって驚いた鼓太郎の引きつるそこにつられて、可愛くデフォルメされた決めポーズが縦に横に伸びる伸びる。
「おいどこに貼ってんだ!」
「似合うよ、手鏡貸してあげようか」
「うるせー!」
慌ててそれを剥がしにかかるのを見て、笑った。あまりにも変わらない彼の姿が嬉しくて、少し寂しくて、気づけば目の端に涙が滲むほど。
「ほんと泣き虫だな……」
「泣いてない」
「嘘つけ」
丸まりかけるシールはひとまず手の甲に貼り直された。呆れ顔の鼓太郎はジャケットのポケットを探ると、あのハンカチを取り出す――かと思うと、すぐにしまう。
「いいだろ、泣き虫で。お前ひとりじゃだめだから俺……俺たちがいるんだ」
「うん」
「……それに、俺は今のままでもいい。部長のくせにめちゃくちゃ弱っちいって知ってんのは俺だけだしな」
あのとき重なった大きな手が伸べられて、目元を拭っていった後頭を撫でてくれる。現金だなと自虐しつつ自惚れてもいいんじゃないかとせっかくの予防線を台無しにしてしまう。
もう少し時間と勇気があればすぐにでも聞き出していた。あのときふたりで何を言ったの? それはまた別の機会に回さなくてはいけない。きっともう三人は近くまで来ているから。
「わたし弱いかな」
「おー、そうだ! 俺がいてやんねーとまるでだめ、全っ然だめ。二年だし、ちっこいし、ぼんやりしてるし」
「じゃあ、鼓太郎のそばから離れないようにしなくちゃ」
「は?」
「俺から離れるなって言ってくれたしね」
目の前の長身に遠慮なく抱きついて顔を隠す。当然のように、それこそシールのように引き剥がされるのかと思いきや、抗議の声は途端になくなった。髪に触れる指はそのままに、逆に胸に押しつけるようにされる。
「ヒーローに二言は?」
「……ねーよ」
「だよね」
大人しい。けどあれはこういう意味じゃねぇわかるだろマジでと何やら声がするけれど意識して聞き流す。背中をとんとんと叩かれるのが心地よくて、シャツに頬を押し当てた。これからこの状況を誰に見られてどう思われても構わない。鼓太郎は多分に気にするだろうけど。
「もう離れろよ」
「何かやだ」
「やだじゃねぇ」
わたしは許されている。雲より宇宙より高い望みを持っていたこと、それをふたりに一日中許されていたことを思い知った。そして今は、こうして甘えていることを。あんまり贅沢で、申し訳なくて、嬉しいから、やっぱり離れたくない。
ほのかに温かい腕の中で訪れる眠気は、しかし耐えなくてはいけなかった。部長として果たすべきことは果たさなければ。鼓太郎がいてくれるのだから大丈夫。急かすアリアの声についてくる気配に振り返り、正面から向き合う。
