フロイトがまともな食事をとっているのを見たことは数度だけだが、ある。業務に戻りたい私を引きずって食堂に来たり(長い実証試験期間の打ち上げとの名目)、補給部隊の責任者にあいさつと称して押しつけられた野菜や果物をラスティと分けて食べたり。
「彼は腹が減らないものだと」
年若い彼が屋外で手掴みのトマトにかじりつくのを、どこか呆然とラスティはながめていた。そんなわけがあるかと断言できないのがフロイトだった。彼がいつもクッキータイプの完全栄養食のみで食事を終わらせているのは、ルビコンに駐留している者なら当然知っている事実。コクピットで仮眠をとるのは日常茶飯事、きっと彼の自室には私物がほとんど増えていないのだろう。ここへ来てすぐのフロイトを個室に叩き込んだ日の記憶のまま、殺風景に。
総じて、欲がない。ここでは誰もが温かな食事や寝床を、寒々しい現実を忘れられる娯楽を求めているというのに。我々を絶えず取り囲んでいるのは曇り空と、積もって溶けることのない雪。そして大した脅威でもない解放戦線の抵抗とその残骸たる瓦礫。
彩度の低い景色を、フロイトはいつも無感動にながめていた。
***
大破したロックスミスのイメージは画面から消え失せ、しかしシミュレーションポッドから飛び出してきたフロイトにはダメージのフィードバックなどまるで見受けられない。リノリウムの床を踏みしめる早足は堂々と、むしろ意気揚々とした確信に満ちている。
最終的に決定打でこの模擬戦を終わらせたのがフロイトの方だからだとしても、異様だった。その彼自身が仮想空間でスクラップにしたトゥーシューズのパイロットは、自分で出てくる間もなくフロイトに引きずり出されている。
「猟犬、レイヴン。やってくれた、あんなスコアは久々だ」
細い両手首を掴んで、布団でも運ぶかのようだ。相手は人間で、かつ負傷者同然だというのに。
「あのシールドは一般の流通品で間違いないな? ずいぶん消極的じゃないか、お前ならあんな気休めがなくとも十分戦える」
頭部から思い切り倒れた衝撃は装備越しにも響いて残っているらしく、彼女は震える手でヘルメットを外すのが精いっぱいだった。しかしフロイトの質問攻めは止まらない。自分を苦戦させたパイロットがいるという事実だけが見えていて、その他は認識の外に放り出してしまった。破綻した行動は、そう理由づけでもしなければ飲み込めはしない。
これはまさかと、残りの処理を部下に任せてモニタールームを出た。ガラスの向こうからでも、こうまで離れていても、レイヴンが彼の高揚に戸惑いを通り越して気圧されているのがありありとわかる。
「姿勢安定が第一か。だが向かってくる奴を片っ端から仕留めたほうがお前の仕事もはかどるだろう、この機体なら耐久は十分ある」
レイヴンを小柄とはいえ易々と片腕に抱え込み、フロイトはその首筋に手を伸べパイロットスーツの前を緩めていく。
「フロイト」
図らずもそちらへ向かう足が焦る。
あれが救護だとはどうしても思えなかった。
「……わたしは、無事に帰らなくては」
蚊の鳴くような声が、感覚を強化した聴力でさえもかろうじて届く。対して彼にははっきり聞こえたはずだ。発達途中で成長も治癒能力も潰され、そこから機械の助けを得て治療再生しかけている喉が搾り出すうめき声のような音が紡いだ交戦を好まぬ理由を。
だからこそ、なのか。
「だから……」
「それはハンドラーの教えか」
次ぐことばを拾い上げるつもりなのか、倒れ込むようにしてフロイトが彼女の唇へ耳を寄せる――前にようやく捕捉したその横面を殴り飛ばした。彼の視線が誰とも合わなくなり感じたのは安堵なのだろうか。
きっとそうだ。今、フロイトは普通ではない。
「……作戦外で死体を出すなど前代未聞ですよ」
体幹がびくともしない彼に抱かれたままのレイヴンが揺れる視線だけをこちらに寄越す。この場で唯一ことの次第を何も理解できていない愚か者で、そうであるにふさわしい真っ当な人格。
だがフロイトに近づけてはいけなかったと、後悔する。
「この犬に狂ったか」
レイヴンと相対していた彼の目は、この星では存在感が薄すぎて忘れかけていた太陽を思わせた。直視に耐えかねるほど燃焼し、そばにいるものを塵と残さず消し飛ばさんとする光。それを浴びてなお彼女はここにいる。ふらつきはすれど、少しすれば立ち上がってフロイトを見つめ返しすらするはずだ。
そうとわかっている彼の、あの行動。
装具を取り払った無防備な喉元ごとレイヴンを食い破ろうとする予備動作にしか見えなかった。
しばし黙っていたフロイトはようやくこちらを見上げる。夢から覚めたような、ここに三人目が現れたのを驚くような――とにもかくにも、もし自分に向けられたならおぞましさに震え上がっていただろうほどの食欲をその内に潜めて。
ランダム単語ガチャ No.3070「毒リンゴ」
