デイドリーミング

 
 空気をかき乱していた雷鳴に似た稼働音はふと途切れ、唐突な無音に聴覚が混乱する。開けるのを躊躇っていたドアには微かな隙間があるが指を差し込む気にはなれず、ドアノブを慎重に掴んで引いた。

 きぃ、と軋むのは蝶番で、ぱらぱらと降ってくる埃と木屑がこの部屋がどれだけ放置されてきたかを物語った。外から窺った様子の通り窓にはレースカーテンがかけられ、夜更けの薄明るさの中でぼんやりと白く浮かんで見えた。

 部屋の中央には作業机が据えられている。断線したコードの先には黒いペダルが転がり、机上にある白い塊が足踏みミシンだと辛うじて理解させた。針は錆び、ハンドルは傾き、どうひいき目に見ても朽ちている中で糸だけは無事だった。多少日に焼け色褪せてはいるが、こうして軽く引っ張っても切れることはない。

 からからと乾いた音を立てて回るのがハムスターの滑車のようだ。少し愉快になっていると、使う気もない糸を繰り出しすぎてしまう。仕方なしにそれを、側面の糸切りで切断した。

 もう一度糸を引き出し、切る。

 さらに。

 重ねて一度。

 ――なぜこんなことをしているのか、と自問する意識はあった。しかし体は、この手はインプットされた動作をひたすら機械的になぞり三十センチほどの糸の切れ端を量産し続けた。

 この手。

 これは、本当は誰の視界なのだろう。

 自分のものではないはずだ。そうだと思いたい。

 なぜならこの糸は赤いのだから。

 ***

「それは白昼夢だよ」

 断言するのはいつも通り穏やかな声。藍さんのことばはスピーカーを通してざらつくが、胸の奥の絡まりをゆっくり解いてくれるのは変わらなかった。ベッド脇で座り込んだまま窓の方を振り向いても、厚手のカーテンに視線を遮られて。

「だって、順平くんは今自分の部屋にいるんでしょ?」
「うん。授業から戻ってきて、少し考えごとしてたんだ」

 あなたのことを、という続きは口に出せなかった。そんな、寂しすぎることは。大好きなひとのことを思い浮かべていた先にあったのが、不毛と不安に満ちた小部屋だったなどと。

「寝てるときと同じ。脳が記憶を整理してる最中だったの。順平くんはその光景をうっかり見ちゃったんだよ」
「……僕、疲れてたんだ」

 そこで初めて自覚した。毎日よく眠れるのも、食事がおいしいのも、入浴の時間が待ち遠しいのもすべてそのせいだったのかもしれない。自分が現実の上に立っていられずに夢に落ちていたことにも気づかないほど深刻だとは思いもしない。――あるいは、それでもいいのかもしれなかった。気を抜けば今でも訪れる恐怖やためらいの黒い足音に構っていられなくなるなら。

 そしてその疲れを吹き飛ばそうとするのはそよ風だった。

「わたしはその夢、そんなに悪いものじゃないと思ったな。赤い糸をたくさん作ってくれたんだもん」
「……本当に、僕たちは見えるものが真逆だ。僕と藍さんでバランスがいい」

 ゆっくり片腕で伸びをすると背中が心地よく痛んだ。耳を澄ましているだけであの笑顔までも思い描けるとはいえ、早く会いたい。針を刺したように胸を突くのもやはり痛みで。

「そうだね。一本より十本だ」
「うんうん、そうでしょ」

 ふと、あの古びた部屋が何なのか見当がついた気がした。藍さんが楽しそうに裁縫をする姿に焦がれていた僕そのものかもしれない。

 あるいは藍さんとの間に何百もの繋がりを求めた、僕そのもの。

ランダム単語ガチャ No.6288「デイドリーミング」