コントラストは交われない

 

 街に出てから、電車で数十分。そうするだけでビル群は遥か後方へ遠ざかり、この人工島の大きな広場へたどり着ける。高層マンションとショッピングモールの合間、土地そのものがひと息つくように平坦な海辺が点在する。

 休日の駅の人ごみから逃れてやっと静寂へ抜けたというのに藍さんがわずかにふらついたのはこの暑さのせいだろう。姿は見えないが辺りから注ぐ蝉時雨が日差しと湿気の気怠さに拍車をかけた。

 それでも、躍る心を絡め取るには足りない。何日も前から約束していた外出に浮足立っているのかは自分のことなのに定かではない。何しろ考えるのは彼女のことばかり。

 いつもより軽装の藍さん、リボンのついた可愛らしい帽子を被った藍さん、珍しそうにあちこち目移りする藍さん。車窓の景色よりも最先端のファッションよりも見ていてとても癒される。

 久しぶりに観光地に来られたことよりもこのひとが隣にいる事実の方に感謝したい。毎日がんばってきてよかった。これからもがんばろう。胸の中で大きく頷くのを当然知る由もない声は十歩先を示した。

「あ、日陰できてるよ。行こ」

 観光案内の掲示板を指差すやいなや青いサンダルを纏う白い脚がひらと跳ねる。魚が透明な川で揺蕩っているように涼やかな光景を目にするだけで喉が潤う気がした。ワンピースの裾が風に翻り、その姿もろとも暗所へ呑み込まれていく。

「順平くんも、早く早く。ちょっと休んだらまた歩かなきゃ」
「すぐに建物に入れるよ。カフェならゆっくりできる……」

 効きすぎるほどのエアコンと、何よりスイーツ特集のパンフレットを広げていた輝く笑顔を思いながら顔を上げた。

 藍さんはいない。

 こちらを向くつま先、それに続くたおやかな曲線。脛のあたりから上に濃い影が差していた。そこをばっさりと両断した切り取り線のように。辺りに人間は少ない。その他大勢は涼しい屋内にいるからだ。どこかで間延びする子どもの歓声が何枚もカーテンを隔てたようにあいまいに、熱気に溶けて淡く揺れる。見つめ合っているはずの藍さんの表情がわからないほどに暗い闇が、白い午後の光の中にぽかりと四角い穴を開けていた。

「……だめだ、藍さん。出てきて」

 脚から上のない体へ手を伸べても応える声はない。それともことばが届いていないのか。実際、喉に文字が貼りついて滞る錯覚が拭い去れない程度には急速に喉が渇き始めていた。

 暗闇は、転じて視力の利かないものは恐ろしいものだ。その中に何が潜んでいても窺い知ることができない。ライトで照らせば最後、あちら側にこちらの存在を明確に晒すことになる。捕まったら終わりだった。この身がそうだったように。

 瞬間、背筋が凍った。小柄な体のほとんどを埋める黒。彼女を頭から飲み込もうとする怪物にほかならなかった。

「藍さん!」

 華奢な肩を掴んで――引き寄せることはできない。ここに至ってやっと、僕たちを取り巻く異変が呪霊によるものだという仮説にたどり着いた。だとしたらここで取るべき行動は、ないかもしれない彼らの注意を藍さんに集めることよりも僕が前に立つことで。

 とっさに影に踏み入り藍さんを抱き寄せた。自分の恐れよりもこのひとがどうにかなることの方が怖かった。驚きなのか身じろぎひとつない腕の中が酷く焦りを引き出す。その表情を覗き込むことをためらった。届かない声。響かない鼓動。

 ここにいるのは誰だ?

「怖い」

 ――そのことばは心臓に直接突き立てられた。

「……え?」
「順平くん、怖いの?」

 ふっと、こめかみに触れたのは指先だった。いつの間にか伝っていた冷や汗を拭い去るのはほんの微かなできごと。痛みに耐えて拳を握るのとほとんど同じようにきつく抱いていた背を離すと、泣きそうに潤んだ目と視線が合った。

 呪いにこんな表情はできない。

「ごめん……何でもない」
「何でもない顔じゃないよ」
「……そうだね。夢を見てたみたいだ、白昼夢。あなたがどこかに行ってしまったように見えて」

 頷きだけ返して、藍さんは黙り込んで見上げる。このひとに呪霊は見えない。それでもやはりここには僕たちしかいないのだと確信したのは、その視線が動揺を落ち着かせてくれたからだ。先ほど見たのはただの影で、藍さんを食べようとしたのは自分自身の恐れだと。

 気づけば、どこかへ消えていた蝉の鳴き声がだんだんと勢いを取り戻しつつある。

「少し前に、僕は暗いところが怖くなってしまったから」
「わたしは明るい場所の方が怖いな」

 こつん、とその額が押し当てられたのは藍さんがうつむいたせいだった。まるで甘えるような仕草がそうではないと見抜けたのは偶然だ。無理をして見当違いのことを言うときの、微かに上擦った声色。

「日に焼けちゃったら大変だもん」
「……本当は」

 覗き込んだ目は、僕を透かした背後の日向を見据えていた。その色は恐ろしいものを見るように。

「見えなくていいことまで見えちゃうでしょ」
「……この前の僕の寝癖とか」
「そうそう」

 ふっと崩れる相好がいじらしい。おどけてみせる藍さんの気持ちがよくわかった。いちばん好きな表情をしていてほしいのは、こんなにも同じなのに。

「……そうだね。僕たち何もかも真逆だ」

 このひとの言うことは、裏を返せばものごとがつぶさに見渡せるということだ。これ以上に安心できることはないだろうというものを藍さんは怖いと言う。決定的なところで、僕たちはわかり合えない。それでもいいと思えるのは、どちらも完全な理解など求めていないからだ。

「いいよ、真逆でも。順平くんはこうして助けに来てくれたもの、ありがとう」

 僕たちは、どちらも知っている。こうして受け入れられることの嬉しさも、受け入れることの温かさも。にこりと笑う藍さんの背後、掲示の剥げかけた案内板には音を立てないままの蝉が二匹固まって貼りついていた。――確かに、働かない視界のおかげで彼女は命拾いしていたらしい。間違ってもそちらを振り向いたりしないように、とっさに目的の方向を指し示した。きっと今日いちばんの楽しみがある方を。

「びっくりさせてごめん。もう行こう、コーヒー飲みたくなった」
「うんうん、わたし冷たい紅茶頼むんだー」
「あと、プレミアムパフェでしょ。いちごの」

 元気よく頷いた藍さんの手を引く。眩しい広場に戻ることをその脚はためらうことはなかった。せめてこれ以上弱ったりしないように太陽との間に立っていたい。

 このひとがいるのが僕の影の中なら構わない。光からだって、蝉からだって助けてあげられるから。

 

 夢小説企画サイト「花鳥風月」様へ寄稿。