01

 先ほどまで恐縮しきっていた草壁は今は観念して保健室のベッドにうつ伏せになっている。それを横から神妙な面持ちで見守っていたすずめちゃんだったが、やがて気合いのかけ声とともに小さな握り拳を振り下ろした。ワイシャツの下の背筋が微かに強張るのがわかる。

「すみません委員長、痛っ……いや、いいぞすずめちゃん、その調子で頼む」
「りょーかい! えい、えいっ」

 全身筋肉痛などと、この屈強な男が口にするのも顔に出すのも初めてだった。シモンたちのもとへ向かう際は慣れた調子でヘリを操縦していたように見えたが相当な負荷がかかっていたらしい。高所どころか空中作業の緊張も拍車をかけ。

「哲さん、辛そう」
「いや、はは……情けないな。こんな姿を見せることになるとは」
「情けなくないよ。オーバーフローは体に毒って了平くんも言ってたもん」
「……オーバーワークじゃないの」

 思わず口を出してしまうほどには、離れたところで読書をしているところにふたりの会話が流れ込んでくる。ここの主はやはり留守で、椅子はあちこちがら空きだった。了平が時折受けているというマッサージという概念を知ったすずめちゃんは備品庫から湿布を失敬する前に草壁へ見よう見まねの施術をすると言って聞かない、そんな状況ではうってつけだったが。

「あ、それそれ。キョーヤそれだよ」
「難しいことばを知ってるね」
「アーデルちゃんがね、オーバーフローが何とかって困ってたの。パソコンの前だったっけ」

 先の騒動を詳しく知る前からすずめちゃんはシモンの面々と親しくしている。ボンゴレとの衝突を経ても彼らとの関係は変わらない。それはシモンが復讐のために矜持を捨てなかったためだろう。ツナとの関係が浅くないと知りながら守護者ではないすずめちゃんを巻き込むことはなかった。

 今日も、野球部やボクシング部にシモンの守護者が寄っていると考えていい。転校してきて日は浅いが並中に溶け込み始めている。古里炎真を中心にボンゴレとも次第にわだかまりを解消しつつある――こちらは風紀委員会とは関連のない一件だった。今後風紀を乱すことがなければ。

 そんなもの思いをすずめちゃんのことばがかき消す。

「あ、そういえばアーデルちゃんが言ってたんだけど。並中にもうすぐ新しい先生が来るの?」
「どういう意味」
「よいしょ。えっとね」

 草壁の背に膝で乗り上げ体重をかけながら、何かを思い出しているのか丸い目がよそを向く。

「この前廊下で見たことないひとに会ったみたい。その男のひと、キョーヤを探してたんだって」
「ふぅん。でも僕にそんな知らせは来てないよ」
「そっかぁ」
「ここの者ではない人間、あーっ……」

 すずめちゃんの掌底がツボにでも入ったのか草壁の声が波打つ。その彼は自慢げに自身の頭部を指差し。

「そんな人物を見かけたら、オレならすぐ追いかけていましたよ」

 ――その通り、おかしなことは彼女がその男が校内にいることを瞬時に怪しまなかったことだった。教師や用務員、とにかく職員のどれにも当てはまらない大人がいたなら何かしら不審に映るのが学校という場所の特徴とも言えるのに。

「詳しく洗いますか?」
「……そうだね。彼女へは僕が当たろう。君たちは校内の見回りの際に職員以外の者がいたら身元を確かめて。保護者だろうが業者だろうがね」
「は、うぐ」

 返事は床に落ちる。草壁の両腕は肩甲骨を寄せるためか後ろ手に高く掲げられていた。

「すずめちゃんそれは寝技だ!」
「ワオ。どこで覚えたの」
「ジュリーくんが教えてくれたの! 健康に、いいんだって!」
「効く、効くがこの角度は違うそうじゃない……!」

 シモンへの警戒も指示するべきだろうか。
 
 ――そのリーダーは今こうして目の前で仏頂面を見せている。
 
「お前の客というからボンゴレの関係者かと考えただけだ。私はすでにここの職員は全員把握しているしな」
「マフィアがこれ以上ぞろぞろと入り込むと思ってるのかい」

 アーデルハイトの証言に異を唱えつつも矛盾しているのはこちらのほうだった。先ほど「遊びに来たぞー」などとのたまいながら現れたので即刻叩き出したディーノが最たるもの。強化した監視体制の中を押し通るでもなく抜け道を見つけては度々僕やすずめちゃんに会いに来るのを止めないのは何かしらの執着を感じる。今度こそは強硬手段に出るべきだろう。ロマーリオと呼ばれていた男にでも話をつける、などなど。

「リボーンは度々校内に侵入しているらしいな。その延長かと」

 壁にもたれかかることもなくアーデルハイトの立ち姿はいつも凛としている。遠巻きにしつつ廊下の端を通っていく生徒たちはほぼ全員彼女へ視線を向けた。大抵は僕と彼女、すずめちゃんの集まりを見かけた途端に別ルートを求めて二階に逃げていくのだが。

「優しそうなひとだった? あ、哲さんみたいに背が高ーいひと?」

 すずめちゃんが首を傾げるところに返ったのはアーデルハイトらしくない煮え切らない相づち。早くも話が伝わったのか生徒が通りがからなくなった静寂がことばを余計に響かせる。それにすら追憶を邪魔されるとばかりに白い指は額に添えられた。

「……どうだったか。思い出せない……いや、顔も声も思い出せなくなってきている」
「その人間が一般人でないことはわかったよ」
「どうして?」
「第一印象なんて簡単に操作できる」

 顔立ちを詳細に記憶されないために、歪んだ歩き方をしたり奇特なアイコンを衣服に身に着けることは使い古された手法だ。つまりわざとらしく強調した特徴の方へ注目させるだけでいい。こんなことを知っているのは暇を持て余して手を出した推理小説の受け売りという有り様。実際に利用してのけたのはともかくアーデルハイト相手に成功しているのを鑑みるにたたごとではない。

「もしかしてお化け?」
「人間よ。私でも捕まえられる」
「よかったぁ。あ、よくないんだっけ? 知らないひとが学校にいるのはよくないことなの?」
「そうね。何をするつもりなのか読めないし、悪人かもしれない」

 低いところからの問いかけに答えつつ鋭い目配せは僕に向けられる。

「シモンに関係のないうちは手を出す気はないぞ」
「好きにしなよ」
「しかし君には恩がある。何かあったら迷わず私たちのところへ来なさい」
「うん、ありがとうね!」

 すずめちゃんに手を振るとアーデルハイトはくるりと踵を返すと足早に去っていく。転校初日の学校案内、その先導役のすずめちゃんに派手に連れ回された件はファミリーにとってはありがたいことだったらしい。それを律儀に見送るすずめちゃんは、何かに気づいたようにぱっと振り返った。

「だからキョーヤは最初に怒ってたんだね」

 最初、ということばの意味を手繰り寄せ――それは遠い昔の話のようだと妙な感慨に直面した。確かにこの子のことを身元不明の侵入者扱いして応接室に連行した覚えはある。片腕で運べる小ささも借りてきた猫のような大人しさもはっきりと思い出せた。それはそれで今とはまた違う愛らしさがあったというのは保護者の欲目だろうか。そんなことはないだろう。

「怒ってはいないよ。とても怪しんだけど」
「ぼくいい子だったでしょ」
「そうだね。今も」

 手を伸ばすとすずめちゃんは甘えて頬を擦り寄せてくる。子犬が懐くそのものの仕草は「髪を撫でようとした」と訂正する気をどこかへやってしまう。微かに朱に、温かに色づいた柔さ。

 この色を守るためにやれることがある。

「あ、ヒバードくん」

 すずめちゃんのすぐ横、開け放たれた窓から黄色の塊が降りてくる。彼がくちばしに持ってきたリボーンからのメモがそのひとつだった。そこにはたったひとこと書き殴られている。

「並盛病院地下」
 
***
 
「寒いねー……」
「一度戻るかい」
「ううん、大丈夫!」

 病棟のエレベーターにはプログラム時点で用意されたコマンドがある。特定のボタンの組み合わせによって一般職員や患者の立ち入りを禁じた階へ止まることが可能だった。非常灯かと見誤る赤く乏しい光の中に降り立ったすずめちゃんは空気の冷たさに驚きながらも後ろに続く。

 打ち捨てられた工場のようではあるが清掃は行き届いている。グレーの壁に囲まれた天井の低い通路は足音を何重にも返し、どこかで唸る機械の稼働音を打ち消していた。未来で見たあの研究所を彷彿とさせる、というよりも瓜ふたつだった。ここだけは医療施設ではないと直感する。

「キョーヤ、ぼくちょっとだけ怖い」

 またしても学ランの裾を摘む指を僕の手に誘導した。機嫌よく笑ってすずめちゃんは握り返し、鈍りがちになる足取りを勇んで踏み出した。

 すずめちゃんについての情報収集をかけ合った時点ですでにリボーンの連絡先は把握していた。しかし職業が職業なのか彼は盗聴を避け急ぎでもない限り電話もメールも寄越さない。

 だから本題以外の情報が入ってこないことになる。

「……誰かいるよ……?」

 小さな声の警告に、廊下の突き当りを注視する。観音開きの扉は僅かに隙間ができていた。そこの設備はまだまともなのかほのかに明るい。

 そこから覗くのは黒い人影。一気に緊張するすずめちゃんを背中に隠し、一歩ずつ近づいた。長身で、体格からして男性とわかるその人物は闇に溶けるようなダークグレーのコートを纏いただ立ち尽くしている。その視線は何かに釘づけにされ部屋の一点からそらされることはなく。

 白い横顔に見覚えはない。少なくとも僕には。

「……キョーヤ……?」

 すずめちゃんが思わずと言ったふうにこぼす。軽く目を見開いた次の瞬間にはあちらとこちらを交互に見比べて。

「どうしたの」
「そっくりだよ。キョーヤと、あのひと……」
「誰かいるのかい」

 ――そのことばは低く、僕たちの間に突き立った。

 色素の薄い瞳が、表情のない容貌がこちらを見据える。プラチナブロンドがさらりと流れるのには妙な既視感があった。会ったことなどないが見たことのある男。

「……奇遇だね。朝は入れ違ったのに」

 体ごと向き直るその動きに一切の隙を見つけられない。

 それは間違いなく、ボンゴレの初代雲の守護者そのひとだった。