03

 バニラ、とすずめちゃんは呼んだ。それが自身の匣兵器の名前だと胸を張るのは、その兎がバニラのような色をしているからだろうか。呼ばれた本人は昨日も今日もすやすやとそれは深く眠っている。

「可愛いねー。あ、ふたりも同じくらい可愛いよ」

 騒ぐロールとヒバードを膝に乗せ、すずめちゃんは畳からなかなか立ち上がれない。その手の上にいる、女性陣の大賛成を受けて名づけられたバニラを眺めいつしか匣を弄ぶ指を止めていた。

 すずめちゃんが名前を決めた。結構な一大事といえる。あれだけ踏み切れなかった行為をいとも容易くやってのけたことを自身では気づかないらしい。

 変わらなくていい、そう思っていた。けれどそれを環境が許さない。すずめちゃんは元のままではいられない。そのことに焦りすら覚えていることに気づき――目をそらしていた。

 そもそも、気に病むことなどないはずなのに、だ。リボーンたちがやろうとしているのは未来を根本から変える行いと言える。つまり未来はいくらでも分岐する不定形の代物だ。そうも解釈できるはずで、それならばすずめちゃんがいなくなることなど起こり得ない未来があっても何ら不思議ではない。抗争があろうがなかろうが、すずめちゃんが病に伏せることなどない明日が。

 ――何もかも希望的観測に過ぎない、その一点が覆せない。これではあの男が悲観して諦めたのと同じ形になるというのに。それともすずめちゃんにとってあまりにも突然ではあるが、何者かに強制された結末ではないのだからと納得するしかないのか。

「キョーヤ、キョーヤったら」

 不意にすずめちゃんの声が耳元を掠めた。没入していた思考が急激に引き上げられ、そこで携帯の着信のような電子音が鳴り響いているのに気づく。手持ちの携帯から流れる校歌ではない。

「ぼくのじゃないみたいなの。でもキョーヤのも違うよね」

 閉じられるポシェット、それで思い出した。ここに飛ばされてきたときに手にしていたもの。すずめちゃんが初めに持っていた方の携帯の着信音だ。僕の用だと察したすずめちゃんは、静かにしていようと三匹を連れて部屋の隅へ離れていく。

 都合がよかった。以前これに通信してきた者の正体は未だにわからない。そのうえ、でたらめを並べたのでなければすずめちゃんのことをおおよそ言い当てていた。そんな相手の話を聞かせる必要はない。

 通話ボタンを押し、黙って待つ。――今回はあの爆発音も酷いノイズもなかった。

 耳をつんざくほどの明るい大音量が飛んできただけ。

「もしもーし、すずめちゃんですかー?」
「……誰」

 深刻さなど皆無の、いっそ優しげとも言える男の声だった。聞き覚えはない。危機感もなく友人と話すような口調は単なる特徴に過ぎず、この携帯の存在を知っていること自体が警戒に値する。ちらと背後を窺うが、話の上に出た本人は気づくことなく動物たちと遊んでいた。
 
「あれ、君こそ誰かな?」
「言う必要はないよ」
「そう? まぁいいか、多分ヒバリくんだもんね? あーこほん。僕は白蘭です、ミルフィオーレの者ですが」

 語尾を上げたふざけた態度はしかし苛立ちを掻き立てることはない。その名前自体は聞き及んでいたからだ。彼らが倒すべき首魁で、すずめちゃんに対し何らかの悪意を持つ男。感じるのはただ疑問ばかりだ。なぜ白蘭がすずめちゃんと接触したがるのか。

「ボンゴレから聞いてるかな? 聞いてないよね。今度の戦いには全員が参加するようにお触れを出したんだけど、すずめちゃんは来なくていいよ。どうせ死んじゃうしね!」

 ――息を呑むのを抑え込みはした。だが小さな驚愕は否めない。先ほどまで思案していたことと全く無関係とは言えないところを白蘭は突いてきた。夕飯の献立でも口にするようなあっけなさで告げられた酷薄なひとことは聞き間違いではない。

「何を言ってるの」
「僕はひとよりもいろんなことがわかるんだけどね」

 前置きするその後ろで、何かを床の上で引きずるような金属音が断続的に響く。それはまだ対面したことのない存在自体浮ついた男が、確かにこの地上のどこかにいる証明のようで。

「すずめちゃんは何がどうあっても死んじゃうんだよ。見てきたように言うなって思ったでしょ、実際僕は見たんだ。とても苦しい病気にかかったり、事故に巻き込まれたりね。ミルフィオーレなんてまるで関係ないところで」
「そんな妄言を信じる意味がない」
「信じてくれなくたっていいさ、これはウィンウィンな提案だと思うけどね。君はすずめちゃんを危ない場所に引きずり出さなくてもいい、僕は確実にすずめちゃんへの用を済ませられる」

 まぁ考えといてよと言い捨てた白蘭によってあっさりと通話は終了した。あの言い様のほんのいち部分を真に受けるのなら、白蘭は離れたところからでもすずめちゃんに干渉する術を持っている。この携帯に頼らずとも通信手段などいくらでも確保できるのだろう。

 そして、起こり得る未来のすべてを見てきたかのような言い草。揺さぶりをかけにきたのだとしたらあまりにも稚拙だ。それよりは別の可能性を――白蘭に本当にそういった類の能力があるのだと考えた方がしっくりくる。匣だのリングだのといったアイテム以前に、自分たちはこうしてタイムトラベルじみた現象に巻き込まれているのだから。

「電話、終わった?」

 小さく尋ねるすずめちゃんに頷き、手招きする。何がどうなったのか三匹とも寝入っているのを抱きかかえたいかにも平和な姿に、あの男ののたまった凄惨な結末など全く似つかわしくない。

「嫌な話だったの?」
「どうして」
「キョーヤ変な顔してるから」

 心配そうに表情を曇らせたすずめちゃんの手のひらが頬に触れる。やはりいつもより温度がないように思えた。冷たくなっていく体というシチュエーションから連想するものはろくでもないものばかりで。

「……何ともないよ。間違い電話だった」
「じゃあ、ぼくたちの知らないひとからだね」
「うん。だから心配いらない……ひとつも」

 あっさりと両腕の中に収まる小さな体を抱きしめても、すぐに体温が伝うことはない。当たり前のことがしかし微かな焦りをかき立てた。すずめちゃんはこうして目の前にいるというのに。

「キョーヤ?」
「……今度、出かけるよ。君もおいで」
「うん」

 髪を梳き、背を引き寄せる。今まで何度も繰り返したことだ。すずめちゃんが小さな手を回して抱き返してくれることも、嬉しそうにするのも。――変わらない。何も変わっていない。たったひとり、素性も知れない人間のことばで崩れ去るものなど何もない。

 そう思い込もうとした。

 ***

 チョイスが行われるという日の前夜、ディーノが風紀財団のエリアを訪ねてきた。最後の準備の合間、ほんの数分の用だというから仕方なく入構を認めてやり――いざこうして対面するとその表情に違和感がある。

 いつでもゆとりを見せていた男はここにはいない。沈鬱な本心を難なく隠した無表情、その上からさらに対外用の笑みを被せようとして止めた歪な面持ちがあった。

「すずめちゃん、連れてくんだってな」
「止めにでも来たの」
「いや、それには賛成だ。留守番させとくのも心配だろ」

 ドアから一歩踏み込むやいなやすぐ脇の壁に背を預けディーノは前髪をかき上げる。就寝前を思わせるラフな服装とは裏腹に、どう本題へ入るか悩むほどの重いものを持ってきたらしい。

「あの子とボンゴレは関係ない。ここに置いておくよりすぐ手の届くところにいてほしいだけだよ」

 ドアを挟んで反対側へ寄り、ふとポケットへ手をやった。草壁から受け取ったすずめちゃんのリングは今ここにはない。あれもマフィアの縁のものだ。つくづく面倒な繋がりを僕たちは押しつけられている。

「……そうとも言い切れなくなった。そのことで来たんだ」

 ディーノは何もない天井を仰いだ。金髪が額に流れ目元に影を作る。ますますわからなくなる表情は、しかしこれから楽しくはない話題を聞かされることになるのだと物語った。

「クロームがな、昨日教えてくれたんだ。まだ断片的だけどって前置きつきで。あの子と六道骸とのことは知ってるだろ、その骸からの情報……は聞く気はないだろうな」

 言われるまでもなく答えはイエスだ。未だ再戦の機会のない男で、信頼を寄せるなど万にひとつもありえない人間の名をここで聞くことになるとは思わなかった。

「……わかっててどうしてここに来たの」
「あいつが毛嫌いしてるマフィアの話だからだよ。白蘭はジェッソ……ミルフィオーレの前身を拡大するためにまず近隣のマフィアを潰して回った。その中に骸の知るファミリーも含まれてたらしい」

 ディーノはそこでことばを切る。横目にこちらをうかがっているのだとわかったのは数秒おいてからだった。その視線には話についていけているかといった気遣いの類は皆無だ。信じるかどうか、これ以上求めるかどうか、彼はそれを知りたがっている。

「以前は骸も、すずめちゃんに何か思うところがあったんだろ?」
「……犬と呼ばれてた男、研究がどうとか言ってた」

 幻覚の中ではあったが、根も葉もない出任せの発言とも言い切れない。

「繫がってる。白蘭がコンタクトを取ってきた理由がわかるかもしれない。お前が気になるなら今からクロームを連れてくるぞ。骸に詳しく話すよう頼んでみよう」
「……必要ないよ」
「そうか」

 ディーノはあっさり引き下がる。今何を知ったところで白蘭が仕掛けてくるのは変わらない。彼がすずめちゃんを認識しているという事実も。骸の撹乱という線も捨てきれない。それを彼もわかっているのだろう。

「聞くなら明日のことが済んでからだね。彼らを咬み殺した後にゆっくりと」
「……そうだな」

 数度頷き長身は軽く伸びをすると背を向けた。またな、と手を上げ……しかしディーノの顔色はよくならないままだった。

「ただの思い過ごしならいいんだ。どうにもオレには引っかかる」
「あなたは自分のことだけ心配してなよ」
「そうはいかねえよ。ツナたちと、部下たちと、すずめちゃんとお前のこと。あー、考える事は山積みってな」

 無理矢理浮かべられる笑顔にいつもの余裕はない。彼もツナと同じでこれからのことに何かを感じ取っているのかもしれなかった。

 それを目の当たりにした途端――なぜだか、早くすずめちゃんのところへ戻りたくなった。今はぐっすり眠っているはずのあの子のところへ。寝顔を見て、手を握っていたい。

 それで安心するのはすずめちゃんではなく僕の方だ。

 知り得ない現実が、周りに滲み出てきている。